甘えん坊の国王陛下 (十二國記)
 雁州国の王であり、蓬莱名を小松尚隆という治世二百年近い君主は、昨年末に成婚の儀を挙げて后妃を迎えた。
 この十二国においてはあまり意味を成さない、正式な婚儀を経てまで迎えた后。
 彼女の小字は美凰。
 崑崙の神仙界の頂点に立つ玉皇大帝の甥、顕聖二郎真君の愛姫である。
 様々な苦難を乗り越えて結ばれた尚隆と美凰の新婚生活も、既に三ヶ月を迎えていたのだが、新婚の蜜月は未だに覚めやらぬ様子であった…。



 ここは王后の御殿である北宮鴛鴦殿。
 婚儀の引き出物のひとつとして増設された立派な厨房に佇み、包丁を片手に俎板の前で困った顔で呻吟しているのは、この国最高の女性である后妃美凰。
 そしてその背後にぴたりと身を寄せて、彼女の腰に両手を絡みつかせている漢こそ、この国の統治者にして后妃の最愛の良人である延王尚隆。
 后妃と二人っきりで料理を作りたいなどと所望した王の為、侍官や女官をすべて遠ざけて仲睦まじく午餐の支度をしようとしていた美凰は、がっちりと抱きつかれて身動きが取れない事に非常に困っていたのである…。

「へ、陛下…」
「ん? なんだ?」
「あのう…、こ、これではお料理が…」

 身動きが出来ねば料理を作ることも出来ない。

「意地悪をなさっていらっしゃいますの?」
「そんなつもりはない」
「でもこれでは午餐の準備ができませんわ。お食事を召し上がれなくても宜しゅうございますの?」
「それは困る。腹は減っている」

 美凰は小さく溜息をついた。

「それでは手をお離しあそばしませ」
「いやだな」

 もう何度か繰り返した言葉のやり取りに、美凰は繊肩を落とした。

「…、でもこれでは身動きができませんわ」
「俺はそなたの両手を抑えつけているわけではないぞ」
「ええ。それはそうでいらっしゃいますけれども…」

 確かに、尚隆は美凰の身体の前に腕を回して彼女を抱き締めているだけで、両手が塞がっているわけではない。
 しかしそういう問題ではないのだ。
 尚隆は少しだけ抱き締めている力を緩めると、愛妃の耳朶に向かって囁いた。

「…、ではこれなら動けるであろう? 早く作ってくれぬか?」

 弱い耳に息を吹きかけられて戸惑った美凰は、真っ赫になって身もがいた。
 青菫色の双眸にじわりと涙が滲んでくる。

「ひどいですわ…、陛下の意地悪…」
「俺のどこが意地悪なのだ?」

 しれっとした表情でくつくつ笑う尚隆は、美凰の戸惑いを解っていて敢えて煽っているのだ。

「それは…」

 何も知らない美凰は、困った様子で身もがくばかり。
 演技力満点の尚隆は、哀しげな声で美凰に問いかけた。

「美凰はよもや、俺の事が嫌いになったのか?」
「そ、そんな! そんなこと! わたくしが陛下の事を嫌いだなんて! こんなにお慕い申し上げておりますのに…」

 浮かんでいた涙はもはや大粒の真珠となって桃色の頬を零れ落ちる。
 危険な包丁を白い繊手から取り上げて調理台の端に置いた尚隆は、美凰の身体を自分の方に向かせると豊麗な腰にあてていた手にまた力を込める。

「では、何ゆえ抱き締めていてはならぬのだ?」
「それは、お料理が…」
「縄で縛って檻に入れて…、俺だけしか話す相手がいない様にしてやろうか?」
「まあ…」

 真面目にそんな事をやりかねぬ尚隆の独占欲の強さに、どきりとなってしまう。

〔本当に…、甘えん坊で寂しがりな御方でいらっしゃるから…〕

 無骨な指で涙を拭ってくれている尚隆が、心を許している美凰にだけ見せる狂愛の一面。
 嬉しくて幸せだからこそ、彼の心を尊重したい。
 美凰は尚隆の胸に縋りついた。

「陛下を…、心からお慕いしておりますわ」
「うむ」
「監禁されて、陛下しかお話して戴ける御方がいらっしゃらなくなっても、あなたが好きです」
「うむ…」
「でも本日はご一緒に午餐をお作り戴けると伺って、こうして人払いもしておりますの」
「うむ…」
「とっても楽しみにしておりましたのに…、これでは身動きが取れませんわ」
「だが、両手は塞いでおらぬぞ?」
「それでも動き辛うございますわ。もし手元が狂って、陛下の大切なお身体に傷でもおつけしましたら…」

 必死で訴える美凰の声に、尚隆ははっと思いついた様に愕然となった。

「違う! その逆だ! そなたのこの指に万が一傷でもつければ、俺は悔やんでも悔やみきれぬぞ!」
「まあ…」

 尚隆は自分の胸に縋りついている美凰の繊手を取り、そっと指にくちづけをするや、彼女の身体を漸く開放した。

「では俺は何をすればいいのだな? 指示を貰うとしようか」

 腕まくりをし始めた尚隆に美凰は嬉しそうににっこりと微笑んだ。

「それでは…、まずはお湯を沸かして戴きますれば…」

 そうして国王夫妻の仲良しお料理教室が漸く開催されたのであった…。



「やれやれ! やっと始まりましたね…」

 頭痛のするこめかみを押さえつつ呟いた唐媛に、桂英を筆頭に李花と明霞がげんなりとした表情で頷き合う。
 后妃の事を案じる女達は、厨房での一部始終を盗み見していたのである。

「このままでは午餐が終わったら、即夕餉になるかと思いますが…」

 桂英の言葉に唐媛はゆっくりと首を振った。

「夕餉が必要か否か、賭けをしても構いませんよ!」

 冢宰夫人らしからぬ賭け事などという不遜な言葉に、女官達は色めきたつ。

「お珍しいですね?! 唐媛様が賭け事だなんて!」
「本当に…」

 李花と明霞の声に唐媛は肩を竦めた。

「あれを御覧なさいな!」

 賢夫人の指差した先には、お皿を手にした尚隆が炒め物をしている美凰の唇を奪っている姿であった。



「約束だ! 午餐が終わったら存分に楽しもう。精一杯、俺に尽くすのだぞ!」
「畏まりました…」
「俺も精一杯、そなたに尽くしてやるぞ!」
「そ、それは…、身に余る光栄ですわ…」

 甘えん坊の国王にはもうたじたじである。
 后妃は涙目になりながらも一生懸命、青梗菜と茸と肉を炒め続けた…。

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