あくび(十二國記)
 とある日の春の午後の事…。
 雁国は玄英宮内、后妃が執務を取る小寝典章殿。
 今日は珍しく公務が順調に進み、午前中に総ての執務を終了させた延后妃美凰は六太と桃箒と共に、典章殿の院子で静かな午餐を過ごした後、関弓へ遊びに行く二人を幾分疲れた笑顔で見送った。

「なんでしょう? こんな日もあるのですね…」

 史書たちに書簡や書道具の片づけを指示しながら、美凰は小頸を傾げた。

「たまには宜しいじゃございませんの! 如何でございます? 北宮にお戻りになった後は久方ぶりに刺繍などなさっては?」
「それとも先日、秋官長様から頂戴なさった書籍を紐解かれます?」
「そうね…。どうしましょう…」

 尚隆と花凰は昨日から瑠璃宮に遊びに行っている。
 本当は美凰も同行する予定だったが、予定外の不浄に見舞われ、痛みが少々酷い状態だったので残念ながら遠慮したのである。
 ある意味、久しぶりの一人きりの状態であった。





 それから半刻後、美凰は鴛鴦殿の院子にある牡丹園に敷物を敷いて腰を下ろしていた。
 傍は刺繍道具と書籍が二冊、置かれてある。
 李花と明霞が茶菓の入った籠と、膝掛けを持参した。

「本当に、お一人のお時間なんてお珍しいこと…。どうぞごゆっくりお過ごしなさいませ…」
「ありがとう…」



 五歳を迎えた近頃の花凰はよく城出をする。
 勿論、良人の尚隆や父の二郎と同行ではあるが、過分に良人の血を受け継いだらしい春風の様な娘はとにかく少しもじっとしていてくれないのだ。
 加えて父の二郎は、花凰の資質を見抜き、本気で剣を仕込もうと考えているらしい。
 健康であってくれればそれでいいと思う半面、やはり女の子の事なので美凰としては母親としての悩みもひとしおであった。

「頸から提げられる巾着用に刺繍をしましょう…。悧角の模様がいいかしら?」

 最近の悧角は、花凰の一番の配下になってしまっている。
 心優しい灰色狼は、花凰の大のお気に入りなのだ。
 美凰は刺繍用の色糸を手に取り、縫い物に没頭し始めた…。





 所がどうだろう。
 刺繍を始めて四半刻ばかりを過ぎると、睡魔が美凰を襲い始めたのだ…。
 后妃は小さな欠伸をかみ殺した。

〔まあ…、なんだかとても眠いわ…。触りの腹痛と頭痛のせいで昨夜は殆ど眠れなかったからかしら…。いつもの様に陛下が共に御寝あそばされていらっしゃれば、身体を撫でさすって戴けるからいつの間にか眠りにつけたのに…〕

 昨日は本当に久しぶりの一人寝だったから、余計に眼が冴えてしまっていたのだろう。
 加えて、父娘二人だけの瑠璃宮での初めてのお泊りに花凰がぐずってはいないかが心配でもあった。
 美凰は針を置き、ほんの少しだけと脇息に凭れて眼を閉じた…。





 遊びに行ったものの、美凰の体調が心配になった六太と桃箒が戻ってきたのはそれから程なくのことであった。
 桃箒の手には、美凰の好物の黄粉餅が下げられている。

「姫様! 関弓のお団子屋さんで、姫様のご好物を…、あら?」

 桃猫娘の後を追いかけて牡丹の院子に駆け込んできた六太は、春の日差しを浴びてすやすや眠る美凰の姿を、桃箒と共にうっとりと見つめながら二人してくすくす笑いあった。

「なんだかおれも眠くなってきたぞ…」
「あたしも…。姫様のお美しい、安らかな寝顔を見てたらなんだかほっとしちゃった…」
「そうだよな。昨日はよっぽど辛かったんだろうな〜」

 六太と桃箒は横臥している美凰の傍に近寄ると、茶菓の籠に手土産を置き、美凰の周囲にころんと寝転んだ。
 二人はそれぞれに欠伸をする。
 安心した二人の神獣を、忽ちの内に睡魔が襲った…。





「おとーたま! はやくはやくっ!」
「解った解った…」

 北宮に近い露台に降り立った『たま』の背から、笑顔の毛氈に抱き下ろされた花凰は尚隆に向かって手招きした。
 その小さな手には、愛らしい紫色の花が大切に摘まれている。

「如何なさいました? お帰りは明後日のご予定だったのでは?」

 毛氈の問いに、尚隆は困った様子で頭に手をやった。

「やはり美凰がおらんとな…。花凰のおねだりで瑠璃宮へ行ったものの、夜になると花凰自身がしょんぼりしたままぐずり始めて、昨夜は一晩中抱いてやらんとどうしようもなかった…」

 毛氈はやれやれという表情で『たま』の手綱をとった。

「やっぱり…。しかし、公主様だけでなく、主上もしょぼくれておいでだったのではないのですか?! 后妃様がご同行なさいませんと…」
「……」

 図星を指された尚隆は、少しだけ顔を赤くした。
 無論、娘との二人っきりの時間は大切で楽しいものである。
 だが尚隆も花凰も、互いが大好きな父娘であるにも係わらず、内であり母である美凰が居ないとどうにも落ち着き処を失ってしまっている様な気がして仕方がないのであった。

「美凰の具合はどうだ? 少しはましそうか?」

 毛氈は頷いた。

「はい。本日はご公務もさしてご多忙でないご様子で…。午後には北宮にお戻りのご様子でしたよ。台輔と桃箒様も遊びにお出かけになったものの、やはり后妃様がご心配だと、一刻もたたぬ間にお土産を手にご帰城なさいまして…」
「そうか…」

 ふと見ると花凰は随分遠くに行ってしまって、父に向かって叫び声を上げている。
 尚隆は急ぎ足で娘の許に向かった…。





「あ〜!!! おとーたま、みてみて〜」
「……」

 鴛鴦殿に戻った尚隆と花凰の二人は、美凰が牡丹苑で縫い物に熱中していると聞き、急ぎ足で院子におり立った。
 麗らかな春の日差しの中、静かに午睡している美凰とその廻りにごろ寝している六太と桃箒を発見したのは程なくのことである。
 父娘二人はこっそりと母達の傍に近づいた。
 そこへ茶菓の取替えに、桂英が現れた。

「まあ、主上! 花凰様! いつお戻りに?」
「しぃ…」

 尚隆は驚いた桂英の声を窘めた。

「だめだよ、けーえい…。おたーたまがおきちゃう…」
「こ、これは申し訳ないことを…」

 尚隆は暖かな日差しの中で眠っている内の美しい寝顔に、陶然と見惚れた。

「なにか、掛けるものを持って来てやってくれぬか? 六太と桃の分もな…」
「畏まりました。あら…?」

 見ると花凰もちょこまかと母の傍に寄り、お腹近くに落ち着くところんと横になってしまう。
 昨日、あまり眠っていなかったせいか、やがて娘も忽ちの内に寝息を立て始めた。

「花凰様の分もでございますね…」
「まあ、そういうことだな…」

 桂英はくすくす笑いながら、急ぎ足でその場を去った。



「花凰、折角摘んできた菫、母様に見てもらわなくてもいいのか?」
「……」

 すーすー眠り、返事のない娘に苦笑し、小さな手の中にある萎れかけた菫を取り上げた尚隆は未使用の茶杯に水を汲み、その中に花を浮かべた。

「それでは、目覚めてからのお楽しみとしよう…」



 総てに安心したとたん、尚隆を睡魔が襲った。
 なにせ昨日は、ぐずる花凰を一晩中あやし続けていたのだから…。
 尚隆は欠伸をかみ殺しながら、唯一空白地帯になっている美凰の背後に横たわり、覆いかぶさる様に愛しげに内の身体を抱き締めると静かに眼を閉じた。





「まあ!」

 上掛けを運んできた桂英達は、后妃を取り囲んですやすや眠る王達に言葉を失い、次の瞬間には顔を見合わせてくすくす笑いあった。

「暫くこのままで、団欒の一時をお過ごし戴きましょう…」

 それぞれの身体に上掛けを掛けてやりながら、桂英は李花と明霞にそう囁き、二人の女官も苦笑しながら静かに頷いた。
 麗らかな春の日の午後の出来事である…。
_23/37
[ +Bookmark ]
PREV LIST NEXT
[ NOVEL / TOP ]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -