rouge (委員長のお気に召すまま?!)
 美凰はうっとりと吐息をついた。
 雲雀は彼女の膝の上に頭をのせ、長々と寝そべっている。
 秋の陽光が降り注ぐ中、爽やかな風がそよぐと並盛川の水面には漣が起こった。
 予てからの約束通り、二人は麗らかな午後の休日をピクニックで過ごしていたのだ。
 通りすがりの人々は、美男美女の楽しそうなピクニックの様相を微笑みつつじっと見つめた途端、男の方がこの並盛最強の風紀委員長である事に気づいては仰天し、足早にその場を過ぎ去ってゆく。
 他人の眼などまったく気にしていない雲雀と美凰は大木の木陰の下に広げたレジャーシートの上に座り、バスケットの中から取り出した数種類のサンドウィッチランチと果物、そして自家製のアップルパイに舌鼓を打ち、温かい紅茶で喉を潤した。
 何を語るという事もないが、とりとめもない話に二人は微笑み合った。
 流石に身体に触れ合ったりはしないものの、美味しい昼食を終えた雲雀はいつの間にか美凰の膝枕に舟をこいでいた。
 じっと目蓋を閉じて横たわっている雲雀を眼下に見つめていると、美凰の胸にたまらない愛しさが込み上げてくる。

〔なんて幸せなのかしら…〕

 些細な時間であるにもかかわらず、こんなに幸せを満喫できる事はなかなかないものだ。

〔やっぱり恋をしているからなのね!〕

 美凰は雲雀の言葉を思い出し、くすくすと笑いながら彼の右手を手に取ると、指を絡ませて二人きりの感触を味わった。

「わたしを狂わせる優しいこの手が、トンファーを握った途端にこの街の脅威になっているだなんて…、とても信じられないわね?」
「…、そうかい?」

 葉の落ちる音でも目覚める神経の敏い雲雀だが、美凰の膝枕ではぼんやりと覚醒するのみである。
 雲雀は静かに目を開けた。
 黒々とした澄んだ瞳が、美凰の明眸には清廉に映る。
 とそこへ、空中散歩を終えたヒバードがひょろひょろと戻ってきて、雲雀の胸の上に舞い降りた。

『ヒバリ! ミホ! ナカヨシ! アプルパイ!』
「あら、ヒバードちゃん、お帰りなさい。お待ちかねのアップルパイよ。さあどうぞ!」

 美凰に差し出されたアップルパイの欠片を懸命に突付き、ヒバードはご機嫌宜しく歌い始めた。

『オイシー! ミードリタナビクー、ナミモリノー! ダーイナクショーナク、ナミガイイー!』
「君…、食べるか歌うかどっちかにしなよ…。パイ皮が僕のカッターシャツに飛び散ってるじゃないの。行儀の悪い子は夕飯抜きだよ」

 雲雀の言葉に途端におとなしくなり、せっせとパイを突付くことに集中し始めたヒバードに美凰はくすくす笑いつつ、恋人握りの手を離してヒバードを呼び寄せた。

「まあ…、ヒバードちゃんはお利口さんね?」
『ヒバード、オリコー、オリコー』
「君がいけないんだよ? 何かにつけてその子に甘いんだから」
「あら? ヒバードちゃんに甘いのは恭弥さんも同じでしょう?」
「僕は君ほど酷くないよ」

 雲雀はすっと上半身を起こしてパイ屑を払いのけると、手ずからヒバードにお菓子を食べさせている美凰の優しい笑顔を悪戯っぽい目つきで見つめた。
 その美しい花顔を見つめていると、忽ち彼女が欲しくなる。

「美凰…」

 離れたばかりの手を引き、雲雀は美凰を抱き寄せた。
 満腹になったヒバードが、ふわりと羽根を広げて飛び立った…。

「好きだよ…」

 雲雀の息は温かく、その言葉は魔力の様に美凰を虜にする。
 しかし、ここで魔法にかけられてしまう訳にはいかない。
 美凰は周囲に視線を這わして、いやいやと繊頸を振った。

「駄目よ、恭弥さん! ここでは…」

 花弁の様な唇にキスしようとしていた雲雀は、小さな囁きに動きを止める。

「別に構わないよ…。キスくらい平気でしょ?」
「駄目っ! あなたったら、仮にも風紀委員長でしょう? 風紀を乱すようなことをなさっちゃ…」
「……」

 自分が今居る場所を思い出した雲雀は、ふうっと吐息をつくとゆっくりと起き上がった。
 その瞬間、ズボンのポケットから小さな包みが転がり落ちた。

「? あら…、口紅?!」

 小さな包みは口紅が入った箱。
 美凰がいつも使用しているブランド品で、淡い珊瑚色の新色だった。

「ああ、忘れてた。昨日ディーノがイタリアから来て、君への土産だと渡されていたんだった」
「まあ、ディーノさんから?」

 美凰はためつすがめつ薔薇の香りのする艶やかなrougeを眺め、嬉しそうに微笑んだ。

「とても綺麗な色! 丁度新しいのが欲しかったの! 帰ったら早速、お礼のお電話を入れますね」
「別にいいよ。そんなことでいちいち電話なんか…」

 雲雀は美凰の口許を見つめながら、上の空でそう呟いた。
 口紅の事より、早く帰ってこの唇にキスをしたい。
 そしてキス以上の事も…。





「ねえ、恭弥さん」

 後片付けを終え、折りたたんだレジャーシートをバスケットの中にしまった美凰は悪戯っぽく雲雀を見上げた。

「なんだい?」

 一刻も早くマンションへ帰りたい雲雀は、バスケットを手にする美凰を急かす様に立たせた。

「知ってた? 男の人が女性に口紅を贈るのって、結構意味深なのよ」
「? なんだって?」
「『キスをして少しずつ取り戻したいから』なんですって! ちょっとロマンティックだと思わない?」
「?!」

 何の気なしの美凰はにっこり微笑みながらちょっとした知識を雲雀に披露しているだけなのだが、聞かされた側の胸中は穏やかではなかった。

「じゃあディーノが君に“キスしたい”って目論んでるわけ?!」
「えっ?」
「あいつ! 殺してやるっ!」

『咬み殺す』でなく『殺す』という単語に、美凰は些か狼狽した。

「まあ! き、恭弥さんったら何を言ってるの!」
「美凰は僕だけのものだよ! ディーノなんかに渡すもんか! 今すぐぐちゃぐちゃにしてくる!」

 美凰は綺麗に双眸をぱちくりと見開き、やがてくすくすと笑い始めた。

「いやだ、恭弥さんったら! ディーノさんに下心なんかある筈ないでしょう! 莫迦莫迦しいわ…」
「君にディーノの心の中なんて解らないだろ! 奴だって普通の男なんだから! 君に惹かれてることぐらい、僕に解らないとでも思ってるわけ!」
「……」

 否定し続けても『暖簾に腕押し』の議論は無意味だ。
 美凰は苦笑しつつ、戦法を変えた。

「でも、わたしが愛しているは恭弥さんだけですもの。それに…、まだ大声では言えませんけど、わたしたちはれっきとした夫婦でしょう? 恭弥さん一筋の女に万が一興味を持たれても、わたしの方は困惑するだけですわ。だってわたし…、ディーノさんのことは恭弥さんのお師匠さま以上に見ることが出来ませんし…」
「……」

 美凰のきっぱりとした口調に幾分落ち着くものの、波立った嫉妬心は容易には納まらない。
 雲雀は些か強く美凰を引っ張りながら、帰宅に向かって足を進めた。

「そんな口紅は捨てなよ!」
「えっ? だって折角のお土産…」
「僕が新しいのを買ってあげる!」
「まあ…」
「美凰は僕が買う口紅以外、絶対につけちゃ駄目だからね!」
「まあ…、恭弥さんったら…」
「何本でも買ってやるよ! そして僕が全部取り戻す!」
「……」
「解ったね!」

 力強い手が美凰を引きずる様に引っ張ってゆく。
 その後ろをヒバードが悠々と追いかけてくる。

〔本当に、仕様のない人! 愛しているから仕方ないのだけれど…〕

 半ば拉致状態で家路を辿る美凰は、雲雀の途方もない勘違いによる嫉妬に溜息をつき、苦笑するしかなかった。
 こんな状態でも、自分はとても幸せを感じているのだから。

〔愛しているわ…。わたしの恭弥さん〕

 美凰は周囲の『ヒバリが女を拉致っている!』的視線にも負けず、雲雀の心の赴くままにおとなしく自宅マンションへと連れ去られて行った…。

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