まぬけ (十二國記)
 執務室に居る延王尚隆の機嫌は、すこぶる悪かった。
 それもその筈、三日前に金波宮から帰城する予定だった后妃美凰が戻らないからである。
 病に臥した桂桂の看護の為だという理由を、青鳥が運んできたのは三日前の昼の事。
 早起きして真面目に朝議に出座し、昼には戻ってくる美凰を出迎えて臥室に籠もろうと、念入りに計画を立てていたというのに…。

〔俺より子供の看病とは…。大体『延命珠』を与えてやれば、どんな病も治るのだぞ。後の看護は、鈴にでも祥瓊にでも任せればいいものを…〕

 奮然とした様子で書類に眼を通し、御璽を押す。
 史書や侍官たちは、いつにない主の不機嫌さにびくびくしっ放しであった。
 とそこへ、金の鳥籠を恭しく奉げ持った侍官と共に、朱衡が現れた。

「失礼致します。主上…」
「なんだ?! まだあるのか?! 俺は非常に気分が良くないぞ!」

 俯いたままぞんざいに答える主に、朱衡はふっと微笑んだ。

「ではこの鸞の御声を拝聴なされば、ご気分も晴れるかと…」
「なにっ?!」

 ぱっと顔をあげた尚隆の眼前に、美しい鸞の入った金の籠が置かれた。

「后妃様からのお便りでございます…」

 脚には銀と真珠で造られた美事な輪が嵌めてある。
 美凰専用の小さな鸞であった。
 美しい鸞は麗しい美声の詠唱を奏でる…。



 奈何許    奈何(いかん)せん
 天下人何限  天下に人 何ぞ限りあらん
 慊慊只爲汝  慊慊(けんけん)たるは只だ 汝(なんじ)の為のみ


 ああ、どういたしましょう…。
 この世に人は、数限りなくもいるというのに、こんなに物足らぬのは他でもない、ただあなたがいない為なのです。





 美凰の甘い声に、尚隆のみならずその場に居た男達全員が、まるで自分に語りかけられている様な心地になり、痺れるような陶酔を味わう。
 臣下達のとろんとした様子に、尚隆は焦った。

「こっ、こらっ! お前達っ、俺の美凰に不埒な妄想を抱くでないぞっ! おいっ、朱衡っ!」

 朱衡は肩を竦めた。

「仕方ございません…。これ程に甘やかな御声を耳にして、うっとりしない者はおりますまい」
「……」

 美しい鸞の紡ぐ麗しい言葉はまだ続く…。 



 夜相思    夜 相思う
 風吹窓簾動  風吹いて 窓簾(そうれん)動くと
 言是所歡來  言う 是れ所歡(しょかん/恋人の意)の来たれるかと


 真夜中に、あなたの事を想って涙を流していると、突然風が吹いて、窓の簾が動きました。
 はっとして、恋しいあなたがいらっしゃったのかと思いました…。


   『華山畿(かざんき)』無名氏





「くっそうっ! もうこんな所に引き籠もっておる場合ではないぞっ!」

 叫び声をあげながら立ち上がった尚隆は、史書たちが引きとめる声も無視して勢いよく扉に突進し、外へ飛び出した。

「しゅっ、主上っ! おっ、お待ちをっ!」
「后妃を迎えに堯天に参るっ! 後の決裁は朱衡に任せたっ!」

 主を追いかけ、わらわらと廊下に出てきた官吏たちをものともせず、尚隆は脱兎の如き勢いでその場を駆け去った。

「朱衡様ぁ〜 如何致しましょう…」

 がっくりと項垂れた史書たちの様子に、朱衡は仕方が無いとばかりに肩を竦めた。

「まったく…。主上の短絡さには涙が出て参りますね。お話の途中でお出ましになられるのですから…、後程、御自分のまぬけさに愕然となさる事でしょう…。さて、それでは片付けられるものから眼を通して参りましょうか…」

 朱衡はそう云うと、くすくす笑いながら執務室の扉を閉めた。





「六太っ! 背中を貸せっ! 金波宮へ参るぞっ!」

 北宮鴛鴦殿の后妃の居間で饅頭を頬張っていた六太は、勢い込む尚隆の様子に喉を詰まらせた。

「あんっ?! あんだって?!」
「美凰を迎えに行くっ! 早く転変して俺を乗せろっ! 美凰が罹病した知らせが届いたのだっ!」

 この言葉には流石の六太も慌てた。

「なななっ、なんだってぇぇぇ〜! よっ、よしっ! 尚隆っ、乗れっ!」

 忽ちの内に転変した麒麟の背に尚隆は飛び乗り、二人して疾風の様に慶国を目指した。
 全速力で雲海の上を駆け抜ける麒麟の後を、『たま』が必死で追っていった。







「んっ? あれは…」

『とら』の手綱を操って空行していた香蘭の声を聞きつけ、天蓋の中から美凰が声をかけた。

「どうなさいました? 香蘭どの?」
「いえ…、遠目に、台輔のお姿を見た様な気がしたものですから…」
「まあ、六太のですか? 燐光かなにか? それとも『たま』のお姿かしら?」
「恐らく燐光かと…、転変なさっている様に見受けられましたので…」
「まあ…、なにかあったのでしょうか?」

 美凰は心配げに美しい眉を顰めた。
 香蘭は心配いらじとばかりに、にっこり微笑んだ。

「まあ、台輔の事ですから暢気に遊んでおられるのでしょう。ご心配召される事はございませぬ。それより、まもなく玄英宮に到着いたします。ご帰国伝達の鸞は、午前中には到着している筈でございますから…。主上もきっと待ちかねておいででございましょう。最早、露台をうろうろあそばされておいでかも知れませぬよ…」
「まあ、いやな香蘭どの…。存じませんわ…」

 美凰はさっと頬を赫らめ、天蓋の中に羞かしげに隠れてしまった。

〔陛下…、尚隆さま…。帰城が遅れてしまって怒っておいでかしら? お赦しになってお出迎えにいらしてくださっているかしら? ああ…、早くお逢いしたい! たくさん抱き締めて戴くわ。だって恋しくて恋しくて仕方がないのですもの…〕

 輿の中で美凰は甘い吐息をつき、尚隆の姿を眼にする瞬間を今か今かと待ち侘び続けていた。





「とっ、所で尚隆っ! 美凰は一体、何の病に罹ったんだっ?」

 全力疾走する六太の悲愴な声に、尚隆は鬣を握り締めた。

「…、俺が恋しいという病だ!」
「…、はぁ?!」

 奮然とした様子で云われた、六太からすれば非常にまぬけな言葉に、この世で最も速いと云われる俊足が、この上もなく速度を落ち目にさせていった事は云うまでもない。



 そしてその頃、玄英宮では…。
 白沢、朱衡を筆頭に百官打ち揃っての出迎えを受けていた延后妃美凰は、良人不在の理由を朱衡から聞かされ、愕然としていたのであった…。





 誰も居なくなった執務室では、美しい鸞から甘い言葉が囁かれていた…。

『陛下が恋しくて恋しくてなりませぬゆえ、ついついさもしげに詠じてしまいました…。本日の午後には玄英宮に到着いたしますので、どうぞ約束の刻限を違えました美凰をお赦しくださいませ。願わくば、露台にて、ご尊顔を拝謁したく存じ上げまする…。どうか陛下…』

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