薔薇の花には『子宮の働きを高める効能』があるらしい。
陽子から聞かされたこの言葉に、雁国の后妃は藁にも縋る思いであった…。
楽しい夕餉の後、王というしかつめらしい立場から離れてくつろげる時間の事…。
「漸く完成したのですね?!」
「はい…」
美凰が恭しく差し出した杯を手に、陽子は嬉しそうに云った。
ここは慶国の都、堯天。
金波宮の燕寝、東宮長明殿。
雁国の鴛鴦夫婦が慶国に滞在する際、掌客殿でなく特別にこの東宮に滞在する。
陽子が尚隆や美凰を兄や姉の様に慕う証であった。
慶王陽子の請願を受けた雁国后妃美凰が『慶国特産物の薔薇酒』を製造する為に慶国に逗留して、既に一月近くが経っていた。
后妃の良人である延王尚隆は現在、範国未央宮に滞在中である。
氾王と供王からの依頼?(というより半ば強引に)で、範と恭の国境付近、白海沿岸の甘州に大掛かりな港を建設する為に技術指導者として駆り出されているのだ。
一国の王を労働者として拉致するのもどうかと思うのだが、美凰にしてみれば今を好機とばかりに慶国に滞在し、心ゆくまで薔薇酒製造の研究に勤しんでいる。
予てから陽子に依頼されていたものの、余程のことがない限り、傍から愛妃を手放さない尚隆の眼をかいくぐっての活動にはおのずと制限があり、なかなか研究を進める事が出来ないでいたのだ。
美凰は愛する尚隆の事を想いやり、心を痛めながらも氾王と供王に心から感謝しつつ、慶国滞在を決め込んだのである。
王と后妃の不在中は麒麟である六太と冢宰白沢を筆頭に、優秀な官吏達で国は取り仕切られる。
仲睦まじい鴛鴦夫婦の下、雁国は揺るぎない結束と繁栄を極めていた…。
食後の紅茶を運んできた玉葉が、艶やかな香気を放つ王の杯に視線を落した。
「まあ! なんと?! 薔薇の良い香りが…」
「玉葉もそう思うか?」
「はい! 素晴らしい香りでございますわ。延后妃様の御手製がついに?!」
美凰は羞かみながら小さく頷いた。
「雁国産の『梅露酒』に比べれば、些か甘みに欠けるかもしれませぬが…、お味見して戴けます?」
「うん! じゃ早速…」
陽子は硝子の杯に注がれた魅惑的な桃色の酒を口に含んだ。
色は濃すぎず薄すぎぬ艶やかな桃色、香り高い薔薇のくゆり、そして思いの外、さらりとした上品な甘み…。
「凄い! 仄甘いけどとてもすっきりしてる…。延王お気に入りの『瑞鶴』は辛い日本酒そのものでわたしの口にはあんまりなんだけど、これって凄く呑みやすい…。『梅露酒』みたいな激甘でもないし…」
嬉しそうにはしゃぐ陽子に美凰はおっとりと微笑みつつ、玉葉の淹れた紅茶に自らが作った薔薇じゃむを溶かし込み、陽子に教えてもらって最近嵌ってしまった『ろしあんてぃー』を嬉しそうに味わった。
「玉葉にも試して戴きますか?」
「うん! 玉葉、どうだい?」
陽子が差し出した杯を玉葉は恭しく受け取った玉葉は、「お流れ、有難く頂戴させて戴きます…」と奏上し、少しだけ口をつける。
途端に老婦人の顔がぱっと輝いた。
「まあ…、これは…」
「如何ですか? 慶国の特産物になりえましょうか?」
美凰の問いかけに、玉葉はその場にひれ伏した。
「勿論でございます! 素晴らしいお味でございますわ…。延后妃様におかれましては、さぞかしご苦労をあそばされました事でございましょう…」
美凰はくすくす笑いながら頸を振った。
「お酒造りなら得意分野ですわ。昔から、延の為だけに随分と研究いたしましたもの…」
「ほう? 俺の為だけと云いながら、陽子の為にも腐心いたすとはな!」
聞き慣れたひくい声に、美麗な牡丹の花顔が吃驚した様に大きな窓の方を振り返る。
そこには随分と日焼けした逞しい漢が立っていた。
美しい面にあでやかな色が刷かれ、黄金の微笑がほころぶ。
「まあ! 陛下!」
琥珀色の双眸を悪戯っぽく輝かせつつ、愛しい内にまなざしを落としている尚隆に美凰は嬉しそう駆け寄り、良人の胸にその身を投げかけて愛しげに縋りついた。
「お戻りあそばしませ!」
「これは…、嬉しいお出迎えだな?」
尚隆は相好を崩し、常にない薔薇の香りに包まれた愛妃の身体をしっかりと抱き締めた。
驚愕していた玉葉はその場で恭しく伏礼する。
呆気にとられていた陽子も漸く立ち上がり、丁寧に立礼した。
「これは…、延王…」
「窓からの侵入、礼に欠くかもしれぬが許せ」
尚隆は愛する美凰を片腕に抱きつつ、口角をあげて陽子を見た。
陽子はくすくす笑い、玉葉に目配せをした。
心得たとばかりに玉葉は静々と姿を消す。
「いいえ。相も変わらずと云わせて戴きますよ。範でのご公務は終られたのですか?」
尚隆はくつくつ笑った。
「仮にも王に向かって肉体労働が公務とは、随分な事だ…。まあ、俺の不在のおかげでお前の国の特産物が完成したようだしな…」
「ええ。おかげ様で…。そうだ! 延王にも是非お味見を…」
陽子も負けじと微笑み返し、隣国の王を卓子に促した…。
かぐわしい芳香を湛える、優しげな淡い紅色をした薔薇酒。
「ほほう? 随分と薔薇の香気が漂うな。しかし『梅露酒』の様な甘ったるい匂いではない…」
尚隆は美しい内の花顔を流し見た。
「基本は『瑞鶴』と同じ製造方法ですの。途中で少しばかり工程を変化させて…」
美凰はどきどきした様子で良人の判定を待つ。
「ふむ…」
尚隆は杯に注がれた艶やかな酒を一舐めした。
香りと色に似合わぬ、思わぬ清酒の刺激…。
そのまま一口含み、ゆっくり味わう様に口腔で転がして飲み干す。
仄かな甘みとぴりっとした舌触り、爽やかな喉越しは随分と粋な味わいだ。
「如何でございますか?」
不安げな様子の美凰に向かって、尚隆は大きく頷いた。
「これはよい…。香りに抵抗がなければ、万人に好まれる酒となろう」
「まあ!」
美凰と陽子は手を取り合い、大はしゃぎで特産物生産の喜びを分かち合った。
酒好きの尚隆が太鼓判を押したのだから、もう恐いものはない。
正寝に戻る陽子を回廊まで見送りに出た美凰は、陽子に向かって恭しく立礼をした。
「原材料である薔薇の育成が大変でしょうが、どうぞ頑張ってくださいませ」
「有難う、美凰…。本当に有難う…」
為政者としての道程を歩み始めたばかりの真紅の女王を、美凰は眩しげに見上げた。
「あのう…、陽子」
「? なんでしょう?」
「本当に、僭越なのですけれど…、陛下が『薔薇酒』の名を決めたと…」
困惑した表情の美凰の様子に、陽子はぷっと吹き出した。
延王の考えは手に取るように解る。
「慶国産の酒になるとはいえ、美凰の造り上げたものですからね。延王が名付け親になりたがるお気持ちは解りますよ。で、延王はなんと?」
美凰は製造工程の詳細を記した冊子を陽子に手渡した。
冊子の題箋に書かれたばかりのおおらかな文字に、陽子はにっこりと微笑んだ。
「素晴らしい名だ…。良い名を頂戴しまして、感謝しますとお伝えください」
題箋には『粋艶〔すいえん〕』と記されていた…。
湯殿をすませた尚隆は、臥室で美凰の訪れを待っていた。
臥室の至る所に薔薇の花が飾られている。
その香りに噎せかえりそうだった尚隆は、思わず窓を開けて爽やかな夜風を導き入れた。
「美凰の奴…、薔薇の花の効能が解っていてこれ程飾らせているのか?」
一月に亙る禁欲は、尚隆を焦燥に駆り立てていた。
「随分と長い湯殿だな…。よし…」
尚隆は製造されたばかりの薔薇酒が満たされた杯を手に、湯殿へと向かった…。
羞恥に苦い顔をしている李花と明霞、苦笑する慶国の女官達をこっそり人払いをした尚隆は芳しい湯気の中、色とりどりの薔薇の花弁に包まれた愛妃の裸身を見た。
〔ほう! これはまた…〕
広々とした丸い大理石の浴槽内には紅、白、桃、橙と見目麗しい薔薇の生花が大量に浮かび、その中に美凰はうっとりと眼を閉じて裸身を沈めている。
白い肌にまつわりついているのはとりどりの美しい花の花弁…。
尚隆の欲望は最高潮に達した…。
「そなたに焦がれて褥の上で待ち続けている王を放置したまま薔薇風呂をお楽しみとは! 不埒な后妃だな!」
「きゃっ!」
良人の声に吃驚した美凰は、ぱっと眼を開けた。
青菫色の双眸に、腕組みをしてこちらを見つめている夫の姿が飛び込んできた。
「ま、まあ…、陛下…」
尚隆はあっという間に美凰の傍へやって来た。
真珠の裸身は文字通り薔薇色に染まっている。
蕩けてしまいそうな甘肌に張りつく薔薇の花弁は、扇情的な輝きを放って尚隆を誘っていた。
興奮の体で美凰の身体に手を伸ばした尚隆に、后妃は珍しくいやいやと頸を振った。
「なんだ? 俺を拒むとはますます不埒だぞ!」
「あの、いいえ…、そうではありませんの…」
「では何だ?!」
美凰は困ったとばかりに視線を泳がせる。
その様子に苛々した尚隆は杯を置き、夜着を脱ぎ捨てるとあっという間に薔薇風呂に身を躍らせた。
「きゃっ! あっ…」
薔薇の花弁の中で愛妃の裸身に向かい合った尚隆は、美凰の頬にそっと指を触れさせた。
薄紅色に染まった耳朶に触れ、頸筋に触れ、紫がかった艶やかな黒髪の中にそれは沈む。
愛する良人の手に籠もった力に引かれ、美凰は尚隆の胸の中に引きこまれた。
「いけませんわ…、駄目…」
「何が駄目なのだ? 一月近くもご無沙汰だったのだぞ! こんな事は何年ぶりだと思う!」
「あの…、だって…」
「心配せずとも、人払いならしてある…」
「いいえ! そうではなく…」
「これ程薔薇の花で俺を煽っておきながら拒むとは! どういうつもりだ?!」
鼻息荒い良人の手から懸命に逃れようとする美凰は、思わず叫んでしまった。
「あ、煽るなどと…。だってあと二日はお待ち戴かなくては…、ややが…」
「な、に…?」
『やや』という言葉に、尚隆が絶句したのは云うまでもない。
「ややを…、俺の胤を身籠ったと申すか?」
呆然としてしまった尚隆の言葉に、今度は美凰が絶句する番だった。
「ち、違いますわ! あの、そうではなく…」
「な、ならば…」
「よ、陽子が申されますに…」
「……」
『月のものが終った七日後、五日間程頑張られて…、その後は避けられるのです。蓬莱の医学書にはその様に書いてあったと記憶します』
『あのう…、やはり毎日では駄目なのでしょうか? 陛下のご寵幸には毎日お応えしなければ…、ご機嫌を損じてしまいますのよ…。それにわたくしも…、あのう…、毎日陛下に愛して戴きたいの…』
『う…、そ、それは、ご夫婦でよくよくご相談の上…。いずれにしましても薔薇の花には子宮の働きを高める効能があると聞きました。薔薇酒完成の暁には美凰の為、雁国に素敵な薔薇苑を進呈しますからね。毎日薔薇風呂に入浴されれば身籠る可能性が…。いえいえ、贅沢なんかではありませんよ…。ですから、どうぞ頑張って慶国特産物生産にご協力の程を…』
『…。解りました…。わたくし、一生懸命頑張りますわ!』
「何がなんだか、よく解らぬのだが…」
しどろもどろの説明を受けた尚隆は些か頭痛のするこめかみを押さえつつ、おろおろしている美凰を見つめた。
「つまり、月役が終って今日で五日ということなのだな?」
「そうですの…。ですから…」
「聞かぬ!」
「はい?」
尚隆は憤慨した様に愛する内を見つめ、その柔らかな裸身を強く抱き締めた。
「協議は決裂だ! 俺は日毎夜毎そなたを愛したい。そしてそなたも日毎夜毎俺に愛されたい。だから毎日褥を共に致す! 独身者(ひとりもの)の陽子が仕入れてきた訳の解らぬ蓬莱の医学書なんぞ糞喰らえだ!」
「まあ、陛下! なんてお言葉遣いを!」
「こんなに愛しているのに、我慢なぞ出来るか!」
そう云うや、尚隆は傍に置いていた杯に手を伸ばして薔薇酒を口に含むと、美凰に口移しでそれを与えた。
「あっ…、ん…」
こくりと、小さく白い喉を鳴らした美凰はそのまま、尚隆の激しいくちづけをその朱唇に受けた。
一月ぶりに交し合う熱いくちづけに、尚隆も美凰もうっとりと酔いしれる。
やがて…。
絡めあった舌が解けて尚隆の唇が離れてゆくや、美凰は自身に課せた戒めを忘れて良人の胸にしがみついた。
「やはり…、わたくしには…、辛い、お酒ですわ…」
「だが、陽子には似合いの酒だ…」
「ええ…。陛下が素晴らしい御名をおつけあそばされて…、陽子はとてもお喜びであそばしましたわ…」
尚隆は秀麗な面に楽しそうな微笑を浮かべて美凰を見つめた。
「よく頑張ったな…。砂糖菓子の様な甘い酒になるやもと危惧していたのだが…」
美凰は嬉しそうに微笑みながら尚隆を見上げつつ、逞しい良人の胸をそっと愛撫した。
「甘いお酒は、わたくしの『梅露酒』だけで充分でございましょう?」
琥珀色の双眸に艶冶な紫色の瞳が映った。
「俺は甘いものは苦手だが…、たった一つだけ大好物の甘味があるのだ」
「? 大好物の甘味?」
「そなただ…」
「わたくし?」
尚隆は、もう耐え切れぬとばかりに抱き締めた美凰の身体を愛撫し始めた。
「そなたこそ…、俺にとって最高に美味な甘露なのだぞ…」
「ああ…、尚隆さま…」
薔薇の香気が漂う温浴の中、花弁に包まれた雁国の王と后妃はめくるめく愛を交し合った…。
「あっ…、もう…、だめ…」
「何を云うか…。その様に俺を誘う眸をしておきながら…」
くいと顎を持ち上げると、尚隆は何度もくちづけして熱を帯びている美凰の朱唇をまた塞いだ。
「誘うだなどと…」
「催淫効果は、薔薇の花の最大の効能と聞き及ぶぞ!」
『粋艶』と、そして良人の愛撫に陶然と酔っていた美凰は、とろりとした双眸を尚隆に向けた。
「まあ…、その様な…」
尚隆はくつくつ笑うと美凰を軽々と抱き上げ、薔薇水の香り漂う湯舟から立ち上がった。
二人の身体の至る所に薔薇の花弁がまつわりついている。
「臥室も薔薇尽くめだ。さぞや淫らなそなたを味わえることであろう。思惑通り、ややも孕めるやもしれぬぞ?」
「あなた…」
悪戯な笑みを口角に刷いた尚隆のひくい囁き声が、美凰の耳朶に心地良い。
「愛している…、俺の美凰…」
「…、お慕いしておりますわ…。わたくしの、尚隆さま…」
后妃の羞らう様な声と、王のご機嫌な笑い声が臥室へと消えてゆく。
鴛鴦夫婦の慶国の夜は薔薇の香りに包まれて、艶やかにそして甘やかに過ぎていった…。
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