止められない (美しき脅迫者)
「本日も定刻30分遅れでいらっしゃいます! 新婚旅行よりお戻りになってから、かれこれ1週間近くたっていらっしゃるのですから、少しは日常生活にお戻り戴きませんと…」

 朱衡の溜息交じりの注意勧告も、抜け殻の様なトランス状態の尚隆には通用しない。

「すまんすまん。解ってるつもりなんだが…。おっ、そうだ。今日は美凰が朝から銀行に行く予定でな。今頃、どの辺りに居るのか電話してみよう! 心配だ…」

 信じられない。
 たった1時間ばかり前に別れたばかりではないか?!
 眼前で携帯電話のワンタッチダイヤルをピッと押すと主の姿を、朱衡は嘆かわしいとばかりにこめかみを押さえて見つめる。

〔愛の成就というものは、人間をどのようにも変え得る…〕

 そんな秘書室長を、毛氈がうぷぷっと緩んだ口許を押さえながら慰めた。

「朱衡様、無駄でございますよ。それはもう、会長は毎日楽しそうでいらっしゃいますから…。今朝なんぞも、定刻にお迎えに参りましたのに、玄関先で何分待たされたことやら…」
「……」
「あのお美しい眼で切なそうに『お戻りは何時頃ですの…』なぁーんて聞かれちゃったら、もう会長でいらっしゃらなくっても、男ならみーんな出勤二の足踏みますよねぇぇぇ〜!!!」
「…。確かに、それはそうなんでしょうが…」

 毛氈はでろでろ甘々に笑いながら、もじもじとしなを作った。

「あと5分だけ美凰の傍にいらして…。あ〜ん! いけませんわぁ〜ん! も、毛氈さんが見てらっしゃいますぅぅぅ!!! ちゅっ! ちゅっ! ってな具合でして、もういゃ〜ん!!! う、羨ましいぃぃぃ〜!!!」

 朱衡は悦に入って一人芝居をしている毛氈を、白い眼で見つめた。 

「…。まったく…。毛氈、おやめなさい! なんです! いい歳をしてみっともない…」

 両手を組み、しなしなポーズで唇を尖らしていた毛氈は、朱衡の冷たい声にどきりとなり、すごすごと引き下がった…。





「えっ! なんだって?! よ、よしっ! すぐ行くからそこで待ってろ! 俺が話をつけてやる!」

 携帯を切った尚隆は、急いで上着を羽織った。
 部下達の冷やかしなど、まったく耳に入っていない様子である。

「四菱銀行に出かけるぞ! 大阪本店の頭取に俺が出向くと連絡しろ!」

 何か変事があったのかと思い、朱衡と毛氈は気を引き締めた。

「如何なさいました?! 美凰様に何か?!」

 朱衡の問いに、尚隆はただ嬉しそうにほくそえんでいるだけであった。

「美凰がキャッシュカードの暗証番号を俺の誕生日に変更したいそうだが、危ないからと受け付けてくれんそうだ! 今から俺が行って掛け合ってくる!」
「……」

 朱衡と毛氈は顔を見合わせ、深々と溜息をついた。
 それはそうだろう。
 小松財閥会長の誕生日は11月11日。
 つまりオール1なのだ。
 元来、わかりやすい数字の並びや誕生日の暗証番号は避ける様に推奨しているのが銀行である。
 天文学的な預貯金の桁を持つ小松財閥総帥夫人のキャッシュカードなのだから、銀行側が二の足を踏むのも頷ける。
 しかし、愛する妻にしょんぼりとした声で電話に出られれば、いてもたってもいられない。
 何が何でも、彼女の望みを叶えなくてはならないのだ。

「毛氈、早く車を廻せ! 美凰を待たせるな!」

 そう言うと尚隆は毛氈の首根っこを掴んだ。

「うげっ! かっ、会長ぉぉぉ〜」
「早くしろ! 朱衡、連絡頼むぞ! ああ、それから今日の予定はさほどのものではないから、総てキャンセルだ! 俺はもう少ししたら熱が出るからな! でもってに看病して貰わなくてはならん!」

 そう言い捨てると、尚隆は毛氈を引きずりながら鼻歌交じりに会長室を出奔していった…。



 もう誰にも、小松尚隆の暴走は止められない…。
 朱衡は呆れた様子ながらも、電話を引き寄せてダイヤルする。

〔四菱銀行頭取室の直通番号は…〕

「ああ、もしもし?! 『小松』の楊ですが。お久しぶりですね…。お元気そうでなによりです、頭取。実は生体認証ICキャッシュカードの件でご相談が…」





 それから30分後、四菱銀行の特別室で恐縮しきった様子の美凰が指静脈認証登録の為の手続きを取っており、その横でメロメロ状態で美凰を見つめたままコーヒーを啜っている尚隆の姿があった。

「折角だ。俺も君の誕生日を暗証番号にしてキャッシュカードを新しくしよう! うんうん!」
「まあ…。でも…、3月3日でしたら…」
「それじゃ、俺の場合は0303だなぁ〜!」
「……」

 自分の不用意な一言で、周囲は大変なことになってしまっている。
 そして夫の尚隆は、この状況をとても楽しんでいるのだ。
 身も竦む程に困った様子でおろおろしている美凰に反し、満面笑顔の尚隆はささやかな幸せを噛み締めていた。
 そう。
 とても、ささやかな幸せを…。
 そしてその場に立っていた毛氈は、苦笑いの表情を隠せなかった。

〔会長ぉぉぉ〜! ご自分の預貯金の金額を把握なさっておいでなのですかぁぁぁ〜! どうして公衆の面前で、誰が聞いているか解らない場所で、そうたやすく暗証番号を吠えられるのですかぁぁぁ〜!〕

 やはり会長の暴走は誰にも止められない。
 止められるとすれば、眼前で困った様子で優美に微笑んでいる夫人だけなのだ。

〔はぁぁぁ〜〕

 溜息交じりの毛氈の苦労は、どこまでも続くようである。

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