幾たびも続いた情交が漸く終わりを告げ、まったりした空気が漂う寝室に紫煙が立ち昇る。
恭弥さまが指先に挟んだ細い葉巻の先から昇る香りのよい筋が、頑丈な格子から縁側へ、少しだけ開けられた窓の外へと流れてゆく。
窓の向こうには今を盛りに満開となっている桜と、その美しい花を煌々と照らしている月が見えた。
足腰を萎えさせぬ為にと、一日一度だけ許される監視つきの三十分程度の散策でしか見ることが出来ない桜。
虜囚の窓から覗く美しい光景に、全身疲労困憊のわたくしはただじっと見入っていた。
「婚約が整った。来週末に結納を交わす。祝言は今秋だよ」
突然の…、恭弥さまの淡々とした言葉に、わたくしの心臓は鷲掴みに締めあげられた。
ここ一年の間、わたくしの身の廻りの世話をしてくださっている恭弥さまのお乳母さまの千鳥さまから、それとなく聞かされていた話はいよいよ現実になったのだ。
「…。それは…、まことにおめでとうございます…」
「…。相手は学習院時代の学友の妹だ。六道伯爵令嬢の凪さん。君も見知ってるよね? とても可愛らしいお嬢さんだよ」
「六道さまの御妹さま…」
五年ほど前に、先代の雲雀公爵さまが主催されたパーティーにいらしていた六道伯爵さまご兄妹をお見かけした事がある。
兄君の骸さまは恭弥さまとは勝るとも劣らぬ美丈夫ぶり、妹君の凪さまはそれはお可愛らしい美貌のお嬢さまだったと朧げながら記憶する。
恭弥さまと凪さまが楽しそうにお茶会をしていらした風景を嫉妬に胸を掻き乱されながら盗み見ていた頃の事を思い出し、わたくしはそっと胸元を抑えつけた。
「沢田宮親王殿下が媒酌を引き受けてくださったからね。僕もいよいよ年貢の納め時ってやつだ」
「……」
煙草が苛立たしげに灰皿で揉み消され、再び二本の腕がわたくしを抱き寄せる。
豊かな双の乳房が恭弥さまの手で揉みしだかれた。
「ねぇ…、考えたんだけど…。結婚したら君を僕の妻のメイドにでもしようかな?」
「?!」
わたくしは一瞬、眸を見開いて恭弥さまを見つめた。
わたくしが心に秘め続けている愛が、恭弥さまのお心に届くことはもはやない。
それは解っているし、諦めもついている。
だが、恭弥さまに愛される美しい奥方さまの身辺で働くなど、耐えられる筈もない。
目の前で恭弥さまと奥方さまの睦まじいお姿を目の当たりにするくらいなら、自ら命を絶った方がましだ。
〔第一…、今秋までわたくしの命がもつのか…、知れたものではない…〕
わたくしは恭弥さまの閨に侍り、夜伽を終える度に必ず避妊薬を常服させられていた。
旧幕府の公儀お庭番をしていた家柄出身である千鳥さまのご実家直伝の、毒にも等しい薬。
無論、恭弥さまの御母君にて急死なさった美馬侯爵の姉君であられる雲雀公爵夫人春香さまの厳命の下にである。
この五月に御歳二十四歳におなりの恭弥さまが頑なにご正妻をお迎えにならない為、庶子が産まれる事を恐れての事なのだと、千鳥さまに涙ながらに諭された。
恭弥さまは何もご存知ではないし、お伝えするつもりもない。
月役の度に寝込む程の不調を覚えるわたくしは、自分の命は余り長くないだろうと悟っていた。
お心お優しい千鳥さまは、この一年で随分とわたくしに打ち解けてくださり、わたくしの身体に害をなすものだからとできるだけ薬の服用をやめさせようとなさっておられるが、万が一わたくしが身孕る様な事態が発生すれば、千鳥さまにご迷惑がかかる。
〔恭弥さまの御子が産みたかった…。でも愛のない関係で御子を産み参らせても、赤子の末路が哀れな事になりかねない…。それを考えれば、わたくしには愛する方との御子を望む事すら出来ない…〕
美馬侯爵さまに恭弥さまだけと誓った身体を奪われた瞬間から、希望のない未来を思い描くのを諦めたはわたくしは、千鳥さまのご助言を聞き流し、恭弥さまの来訪の度に散薬を含み続けていた…。
わたくしは恭弥さまから眸を逸らすと、ぼんやりした視線を天井に向けた。
「それは…、何卒ご容赦くださいませ…。身分卑しきわたくしなどが奥方さまにお仕えして…、万が一不調法な事をしでかしでもしましたら…、御前さまに恥をおかかせしてしまいますから…」
恭弥さまはくつくつとお笑いになった。
「随分しおらしいことを言うじゃない。それじゃあ…、行く先はひとつだね?」
「…、はい…」
「ふぅん。覚悟は出来てるんだ?」
「…、はい…」
親王殿下のご媒酌による華族のご令嬢との婚姻が整うのであれば、今をときめく雲雀公爵さまといえど、一旦は身辺の整理をしなければならない。
わたくしを含めて、他にお囲いでいらっしゃる三人のご愛妾もいずれかへ片付けられてしまうのであろう。
「身一つでここを立ち去らせて戴きますので…、いつでもご命令くださいませ」
「…、面白くないね」
「……」
「君のその悟った様な、強情な態度が気に入らない。もっと恐怖に怯えて、泣きながら僕に許しを請う姿を見せて貰わない限り、君を手放すつもりはないよ!」
「……」
重たい腕が身じろぎした。
慣れた手指が乳房をすべり、乳首をかすめる。
「うん…、一興だね? 凪と結婚したら、やはり君には彼女の寝室専用のメイドをして貰おう」
楽しそうな声でそう言った恭弥さまは、わたくしの身体を抱き寄せて組み敷いた。
「……」
恭弥さまは乱れ散っているわたくしの髪を優しく梳いた。
「僕に恥をかかせるとか何とか言って…、本当は凪のメイドをするのがいやなんでしょ? 凪に嫉妬してるの?」
「!」
身体が顫える…。
〔お願い! そんなひどい事を仰らないで…〕
「寝室専用のメイドになったら、僕と凪の夫婦生活を目の当たりにする事になるだろうからね。病がちですぐに音をあげる体力なしの君と違って凪は健康そうだし、僕の要求に素直に可愛らしく応えてくれるんだろうな。彼女、五年前に初めて会った時から僕の事を慕ってくれていたんだよ…。だから僕と結婚できる事になって、今は有頂天になっているらしいんだ。どう、いじらしいと思わない?」
「お、おやめくださいませ…」
恭弥さまは顔を背けているわたくしの耳朶に唇を寄せた。
「どうしたの、美凰? どうして顫えてるの? ねぇ、僕の話を聞きなよ…」
「やめて…」
「……」
恭弥さまの腕から逃れようとしたわたくしは、あっさりと彼に抑えつけられた。
「…、僕が妻を迎えるのは…、いやかい?」
「…、おめでたい…、ことですわ…」
「へぇ! 一年前に僕の囲われものになった時、君は僕に“愛している”と言ったよね?」
「……」
「“ずっと愛していた”と…、叔父の妾であった間も“ずっと僕だけを愛していた”と言ったよね?」
「……」
「そう。もう“心変わり”しちゃったんだ。やっぱり君の心なんて、そんな単純で価値のないものだったんだ」
「心変わりも何も…、御前さまはわたくしの言葉など信じぬと…」
小さく囁かれた悲痛な声に、強い光を湛えた黒曜石の双眸がほんの一瞬、青白い焔を燃え上がらせる。
妖しい色はだが、あっさりと隠しおおせられた。
恭弥さまは突然、くつくつと笑った。
「そうだ。僕は誰の言葉も信じない…。君の愛の言葉など…、糞喰らえだ!」
「……」
恭弥さまはつんと尖った乳首に唇を寄せ、口腔に含む。
恭弥さま好みだと何度も聞かされている、豊満な乳房への丹念な愛撫が始まった。
「随分深く咬んじゃったみたいだね? 暫くは消えないよ…」
「……」
白い胸の上で血を滴らせている、ご自分の歯型のことを恭弥さまは仰っていらっしゃる。
「その内…、消えますわ…」
「……」
胸の表面につけられた傷痕はいずれ治る。
だが胸の奥につけられた傷痕は…、わたくしの心からの愛の想いは恭弥さまにとって汚物にも等しいものだと言い聞かされ、引き裂かれた傷痕は、わたくしの命が尽きるその日まで消える事はないだろう。
「うっ…、はぁ…」
絶頂を迎えないまま疲労させられ、綿の様になった四肢を投げ出していたわたくしの中に、恭弥さまは狂った様な呻き声をあげながら何度も欲望の塊りを放っていた。
恭弥さまが穿つわずかな隙間から白濁の液体が多量に溢れ、褥を淫らに濡らす。
更に精を放った恭弥さまは満足したのか、漸くわたくしから身を離した。
解放され、やっと安堵の息を漏らすことが出来たわたくしに、恭弥さまの手が伸びてくる。
逃げることも拒否することも出来ず、わたくしはされるがままに恭弥さまの腕の中に抱かれるしかなかった。
大きな手で頭を撫でられ、指で髪を梳かれる。
先程までの、嵐の様な激情からは信じられないくらいの優しい動きだった。
疲労困憊の身体は、ゆっくりと睡魔に絡め取られてゆく…。
「…、どうか…、もう、お赦しを…。お願い…、なにも…、考えたく、ないの…」
「…、凪のことは忘れなよ…。君だけだ…」
「……」
汚泥の中でも眠ってしまえそうな極限の疲労感…。
眠りに落ちる前に、恭弥さまの微かな呟きを聞いたような気がした。
「他の女に欲情した事など…、一度だってない。僕には…、僕にとってこの世に…『女』は唯一人しかいなかった…」
「……」
「美凰だけが…、僕の“Femmes Fatale”だ…」
「……」
〔“Femmes Fatale”って何? 英語? それとも…、仏蘭西語? いや! もう何も考えたくない…〕
わたくしはそのまま、深い深い眠りに落ちた…。
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