君しか見えない 3
 二年ぶりに再会した嘗ての恋人の突然の出現に、美凰は戸惑いと狼狽と羞恥、そして呆然とした様子を取り繕うことも出来ない様子であった…。

『き、恭弥さま…』
『叔父上の妾に、僕の名を呼ぶ許可は与えてないんだけどね?』

 感情が一切排除された僕の冷酷な声音に、強張った笑顔を見せていた美凰はびくりと肩を竦ませて俯き、消え入らんばかりの様子でか細く謝罪した。

『…、し、失礼いたしました…。公爵さま…』
『…。さて、一ヶ月前の叔父上の急死にあたり、美馬本家から君への達しを預かってきた』
『…。どの様なご処遇も、甘んじてお受けいたします』
『ふぅん。随分と殊勝なんだね?』
『…、身ひとつで去らせて戴く準備は…、もうできておりますので…』

 僕は莫迦にする様に鼻を鳴らした。

『君の予測は正しい。この邸宅、それから叔父上が君に買い与えたもの、肌着一枚に至るまで残していく様にとのことだ』
『はい…』
『今後、美馬家と君は一切関係がないとのことだからね』
『承知いたしました』
『……』

 美凰の淡々とした様子が気に入らなかった。
 おどおどと俯いたまま、顔を上げて僕の方を見ようとすらしない。
 裏切りに対する、一応の羞恥心は持ち合わせているらしい。
 だが、それでも僕のことを恐れて打ち沈んでいる美凰がたまらなく気に入らなかった。

『その手に握り締めてるそれ! 汕頭(すわとう)刺繍の手巾(はんかち)かい? その贅沢な絹も、もう君のものじゃないよ!』
『も、申し訳ございません…』

 浅くソファーに腰掛けていた美凰は、僕の冷たい叱責に飛び上がらんばかりの様子で、手の中でもみくちゃにしていた手巾を応接卓の上にそっと置いた。

『……』

 微かに顫えるその白い繊手に、煌く宝石の類は一切見られない。
 派手なディーノのことだ。
 さぞかしあれやこれやと買い与えていただろうに…。


 僕は先程小女が置いていった茶を、ゆっくりと口に含んだ。

『これから…、どうするつもりなの?』

 美凰は唐突な僕の言葉に吃驚した様子で、漸く顔を上げた。
 今後の自分の身の上を気にかけて貰えるとは、思ってもいなかったらしい。
 青白い頬にうっすらと血を昇らせた美凰は、羞かむ様に自らもお茶を口にした。
 こくりと小さく鳴った白い喉許を、僕が鋭い眼で見つめていたことに気づきもせず…。

『…、先程お茶を運んでくださった女性のご実家が神田にございまして…、暫くはそちらのご厄介に。ご近所で仕立物のお仕事を請け負ってくださるとのことでございますので、お針子をすれば…、なんとか一人でも暮らしてゆけるかと…』
『……』

 僕は耳を疑った。
 そして贅を凝らした和風建築の中に融合された洋風客間を見廻す。
 美しい波斯絨毯に優雅な伊太利亜製の応接セット、清朝最盛期に作られたものらしい紫檀の飾り棚を美しく彩る花飾りの壷や置時計はマイセン製、壁には上村画伯の見事な白孔雀の画がかけられている。
 そして美しい白梅の花が活けられた壷は、十二世紀中葉の高麗青磁だった…。
 ディーノは美凰の為に湯水の如く金を使っていたと、美馬家執事のロマーリオから耳にたこが出来る程聞かされていた。
 伊太利亜でも由緒ある伯爵家と御一新以前からの名門である美馬家の血を引くサラブレッドは、生まれながらの貴族を体現した男で、豪奢な生活から自身を切り離す事は決して出来なかった。
 その明るく派手な容姿と生活ぶりには、僕の両親でさえ苦笑していた程だ。
 そしてその男の許で贅沢な暮らしに慣れきった女が、社会の底辺に身を置いて裁縫で生活をしてゆこうと考えているなど、思いもよらなかった。

『この暮らしに…、未練はないわけ?』
『? …、望んで得た暮らしではございません。貧しくとも日々を暮らしてゆければ…、なんということはございませんでしょう…』
『…、ディーノの…、叔父上の後を追おうとは…、思わないわけ?』
『……』
『思うわけないよね? そう思ってたら…、こんなに日を置いたりしないだろうし…』
『公爵さま! 何を申し上げても言い訳にしかなりませんが…、わたくしは…、わたくしはずっと…』
『黙りなよ! 今更何も聞きたくないね!』
『恭弥さま…』

 美凰は黒々と濡れた双眸を見開いて、僕を見つめていた…。



 愛と憎しみは『紙一重』だとか?
 だが僕は違う。
『憎しみ』はあっても、決して『愛』はないのだから…。


 彼女を一目見た瞬間、苦しみ続けたニ年の歳月は一挙に吹き飛んだ。
 心の奥底から、美凰の総てを欲していた。
 彼女は僕のものだ。
 黒曜石の様に美しく輝く瞳、深い闇夜の色をした艶やかな髪、柔らかな言葉を紡ぐ桜桃の唇。
 そして、この僕をめくるめく快楽へと誘う透き通るように白い真珠の素肌。
 そう。
 何もかも総て…。
 もう二度と、髪の毛一筋だって渡しはしない。
 僕のものだ。
 手に入れる。
 たとえ、どんな手を使ったとしても…。

〔手に入れる? 僕は何を言っている? 女はもう、僕のものじゃないか!〕



 狂いそうなほど、僕を切望している。
 あの柔らかな唇にそう言って欲しい。
 気がつけば、祈りの様に同じ言葉を心の中でいつでも繰り返している。

〔鮮烈な痛みを与える事で、耐え難い屈辱を与える事で籠の中の鳥に等しくなってしまった君に、少しでも僕を刻み込めるものなら…。僕は笑って…、どんな酷いことでもするだろう…〕

 そして…、美凰しか見えなくなっていた僕は、欲望の赴くままに行動を起こした…。



 特別に誂えられた美しい礼服姿の公爵が、質素な黒い喪服に身を包んだ亡き叔父が遺した美しい妾を白昼堂々玩ぶ…。
 万が一の抵抗をさせないようにと、媚薬を含まされた女はか弱く赦しを乞いながら嘗ての恋人に犯され、いつしか無抵抗となり、やがて嬉々として落花狼藉を受け容れて快楽の叫び声をあげた…。
 その様子を知るものは、庭で美しく咲く梅の花とその花枝に止まる鶯だけであった…。

「もっと楽しもうよ…、美凰…」
「……」

 二年ぶりに対面が叶った美麗な面に浮かぶ微笑は欲望に歪み、恋焦がれた黒曜石の双眸は妖しく輝いている。
 媚薬のせいで自分の自由意志すら奪われていた美凰は、理性ではどうする事も出来ない欲望を解放する為、雲雀の性奴と化すしかなかった。
 その度に、心に綿々と持ち続けていた愛を引き裂かれながら…。

_22/78
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