『もう帰っておしまいになるの?』
『……』
どこまでも甘ったるいミホの声を、僕は背後に聞きながら衣服を整えた。
『ねぇ…、今度はいつ、お出ましくださいますの?』
誘う様な声音の女に、僕は草壁に用意させていた厚みのある茶封筒を取り出した。
『厭いたから今日で終いだよ』
『えっ?』
ぽんとばかりにベッドにそれは放られ、そこから真新しい紙幣の束が顔を出した。
分厚く束ねられた日本銀行券参千圓分。
当時の金額としては、国会議員の年間収入に相当する額だ。
『これ、手切れ代わり。この家と家財道具もみんなあげるよ。それで君との縁は一切終いだ』
支度を整えた僕はそれだけ言うと、さっさとそのまま女の寝室を出て行った。
『お、お待ちになって!』
女はあまりに唐突な別れ話に動転しているらしく、身じまいもそこそこに僕の後を追いかけてきた。
『い、一体どういうことですの?! ミホの何がお気に召しませんでしたの?! どうか…、どうかお待ちになって、恭弥さ…』
『僕の名を呼ぶことは二度と赦さないよ!』
僕は肩越しにほんの少しだけ振り返り、今まで見せた事もない冷たい目つきで女を睨みつけた。
『あっ…』
女は恐怖のあまり、その場にへなへなと崩れ折れた。
それ程に恐ろしい顔つきを僕はしていたらしい。
『もう君に用はない。二度と僕の前に現れないでね』
僕はにっこり微笑むと、啜り泣き始めた女を無視したまま妾宅を後にした。
他の二人の女も、同様の処遇で縁を切った…。
そしてその二日後、運命の刻が訪れた…。
『随分、楽しそうだね? 叔父上…』
『ああ、まあな…』
『どうしたのさ?』
『美凰がさ…、やっと俺に笑いかけてくれたんだ』
『……』
『近い内に…、お前にも喜んで貰いたい話を聞かせてやれると思うから…、じゃあな…』
『待ってよ!』
『なんだ?』
『これ…、五日前に仏蘭西から届いたんだ。Bourgogne産だけど、飲む? それとも伊太利亜物じゃないといやかな?』
『凄いぞ、恭弥! “Romanee-Conti”じゃないか?! 断るわけないだろ! 遠慮なく戴くよ!』
『……』
『お前とも色々あったけど…、これからは叔父と甥として…、仲良くやっていきたいと思っているんだ』
『…、僕もだよ…、叔父上…』
『Salute!』
『…、乾杯…』
〔Addio. Dino! 明日には“神の国”とやらが…、両手を広げて貴方を出迎えてくれる…〕
この屋敷から機嫌よく帰った貴方は一眠りした後、妙な喉の乾きに目覚めてしまうことだろう。
水を飲んで落ち着こうとしても、心臓の鼓動が早鐘の様に頭の中で響き渡り、眠ることはおろか喋ることさえも出来なくなる。
唾液がわけも解らず次から次へと込み上げて来きて、そのうち手足ががたがたと顫えだし、全身に悪寒が走って力が入らなくなってゆく。
その時になって貴方は、僕と共に飲んだこの葡萄酒に、一服盛られたのではないかという疑惑を頭によぎらせる。
けど、もうその頃には貴方は呼吸することも出来なくなり、胸の激痛に喉をかきむしってのたうち回っている筈だ。
身体は既に、死の硬直段階に入り始めているんだよ。
朝になって冷たくなった貴方の身体は、無惨な形相でベッドで発見される。
そして原因不明の死因として、片づけられてしまうんだ。
鏡を見ればきっと悪魔が乗り移っている様な顔をしているであろう僕は、含み笑いを漏らしながら血の色をした葡萄酒をくいっと煽った。
同じ手口を、父上にも使う。
今夜、父上は目黒の妾宅に泊まる予定だと聞いている。
つい最近囲われたという女は、十六歳になったばかりの没落士族の娘だ。
気分が悪い…。
自分の息子の妻に丁度いいであろう歳廻りの女ばかりを蒐集してやまない父、雲雀隆弥。
異様な程、潔癖症でもある彼の相手はすべて、生娘ばかりと聞く。
〔一体何人囲えば気がすむというのですか?! 貴方という俗物は…〕
僕のものであった美凰にも眼をつけ、僕が手をつけたと知った途端、嫉妬に駆られた貴方は美凰をディーノ叔父に譲渡した…。
だが、こんなに胸糞の悪い思いはすべて今夜で終わりだ。
僕は貴方にも復讐を果たす。
〔女も共に酒を飲んだなら…、気の毒だがそれは女の命運だ。そして明日以降…、この雲雀家を支配するのはこの僕だ!〕
僕は鈴を鳴らして執事の草壁を呼んだ。
『お呼びでございますか?』
『使いを立ててこの葡萄酒を目黒へ。今夜、父上はそちらにお泊りだそうだよ。苦労して手に入れた“Romanee-Conti”だから、早く御口にして戴かなきゃね』
『…、畏まりました』
『それから僕の喪服と礼服に風を当てといてくれる? 明日から暫く…、大活躍だろうから』
『…、はは…』
草壁は僕の計画のすべてを知り、それでも黙って僕に仕えているたった一人の男だ。
幼い頃から共に育った彼は、僕の為ならなんでもするという稀に見る忠誠心を持っている。
乳母の千鳥同様、僕が唯一信頼する二人の人間の内の一人でもあった。
翌日の昼過ぎ、美馬侯爵家からディーノ叔父の急死を告げる訃報が届いた頃、僕は自分の娘とも言うべき程に歳若い女の腹の上で無様な死を迎えた父の末路を確認すべく、目黒へ車を走らせていた。
そして、なさぬ仲の夫の死より、可愛がっていた異母弟の死を半狂乱になって嘆き悲しむ母を宥めつつ、十日ばかりを事態の収拾に努めた僕は、雲雀家の当主となって全名跡を継ぎ、次いで学習院の学友であった沢田宮親王殿下の強力な後押しによって早々に公爵に叙せられ、完全に雲雀家を手中に収めた…。
すべての雑事を終えた僕が、二年前に失った女に復讐を開始するべく、ディーノ叔父が三日とあけず通い詰めていた彼の妾宅に足を踏み入れたのは、彼が亡くなってから大凡一ヶ月程経った、三月の中頃のことであった。
書生の先触れによって愛人の死を既に知り、今は喪に服して、自身の今後の処遇についての正式な通知を携えた使者の到着を待っているのであろう美凰の許へと…。
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