紫雲 2
「い…、今…、なんと仰しゃいまして?」

 男は小さく肩を竦めた。

「貴女にとってはお気の毒なことですが…、この部屋の鍵を貸してくださったのは、あちらにいらっしゃる雲雀君ですよ」
「……」

 男が顎で指し示した場所、格子の向こうの廊下に立ってこちらを見つめている長身の人物はまさしく雲雀恭弥であった…。

「ご…、御前、さま…?」
「やあ…。暫くぶりだけど、元気にしていたかい?」
「……」

 呆然となった美凰は力が緩んだ男の手から逃れて立ち上がり、化粧の間から寝室へ、そして格子に隔てられた廊下に立っている雲雀の傍にふらふらと歩み寄る。
 雲雀は美麗な面に嘲笑を浮かべ、格子越しに美凰を見つめていた。

「彼は僕の妻になる凪嬢の兄君、六道骸伯爵だ。ちゃんとご挨拶しなよ」
「ご…、ご挨拶?」

 残酷なまで冷たい色をなした切れ長の双眸に、美凰はぞくりと戦慄した。

「頭の悪い女は嫌いだよ。つまり六道伯爵をおもてなししろってことだ」
「お、おもてなし?」
「そう。君のその身体でね」
「……」

 信じられないとばかりに雲雀を見上げた美凰は、芙蓉花の様な唇をわななかせた。

「本当に…、本当にわたくしを…、伯爵さまに?」

 青褪めてもなお美しい美凰の花顔を食い入る様に見つめていた雲雀は、静かに頷いた。

「僕の命令だよ。玩具は玩具らしく言いつけ通りに骸を楽しませてやりなよ。それとも君は主人の言葉に逆らう気なの?」

 格子に絡みついた手が木枠に爪を立てた。

「わたくしは…、わたくしはあなたを愛しているのよ! それなのに…、それなのに他の殿方の閨に侍れと仰るの?!」

 必死の形相は凄艶なまでに美しかった。

 命を懸けたその悲痛な叫びはしかし、未だに美凰の不貞を赦せないまま愛憎の狂気に陥っている雲雀の耳には届かなかった。

「僕は愛していない。君の愛なんか塵芥も同然だよ。叔父の妾にされそうになった時、死んでも僕への愛を貫かなかった君なんか…、僕の愛には値しない」
「!」

 その吐き捨てる様な言葉に、美凰の中で綿々と保ち続けていた何かが壊れた。
 最後の最後まで持ち続けた心は、心を奉げていた相手によって粉々に砕かれたのだ。

「吉原に行くのももう間近なんだし、他の男に抱かれとくのもいい訓練になるでしょ?」
「……」

 ずるずるとその場に崩れ折れた美凰を見下ろしながら、雲雀はなおもとどめの一撃を忘れなかった。



 涙がとめどなく零れ落ちる…。
 自分は一体、何の為にこれまでを生きてきたのだろう。
 身勝手な若君に手籠め同然に身体を奪われ、それでも彼を心から慕っていたから…、恋をしていたからこそ黙って従った。
 幼い“恋心”はやがて、成長と共に“愛”に変化していった。
 狂気とも呼べる程の愛を一身に受け、愛しい想いと共に身分違いを悩み苦しみ続けた日々に終止符を打ったのは、先代雲雀公爵と美馬侯爵の策謀だった。
 美馬侯爵に力ずくで身体を奪われた時、救いを求めて美凰は何度、雲雀の名を呼んだことだろう。
 どうにもならずに暴力に屈さねばならなかった絶望の瞬間、美馬侯爵がなんと言って美凰に自害を禁じたか…。
 それを知った時の雲雀の顔が見てみたいと、美凰は心底から恨めしく思った。

「赦さない…」

 小さく呟かれた美凰の言葉に、雲雀は黒光りする明眸を眇めた。

「? なんだって?」

 どんな時でも従順に雲雀の言う事を聞いていた美凰が、ついに抗いの言葉を口にした…。
 雲雀にはそれが新鮮な驚きであった。

「どんなに助けを求めても…、あなたはわたくしを救いに来てはくださらなかった…。あんなに愛していると仰せくださったのに…、所詮はわたくしの身体を玩ぶ為の口実だったというわけですのね…」

 涙を拭いつつ、美凰はゆらりと立ち上がった。

「愛したから愛されるの? 人の心とはそんな単純なものなのですか?」
「……」
「愛には愛をもって報いねば赦されないと仰せなら、あなたはわたくしに…、報いるべきではありませんの?」
「君…、何を…、言ってるの?」
「でも…、もう遅いわ…。わたくしは…、赦さない…。絶対にあなたを赦さない…」
「……」

 やがて美凰はくすくす笑いながら静かにその場を後退し、いつの間にか冥い表情をして背後に立っていた六道伯爵の腕に縋りついた。

「御前さま、どうぞ席をお外しくださいませ。わたくし…、今からご命令通りに伯爵さまのおもてなしをしなければなりませんから…」
「美凰…、君…」

 格子に手をかけた雲雀の声に、美凰は返事をしなかった。

「……」
「待ちなよ、美凰!」

 冷たく踵を返した美凰は骸に向かって『伯爵さま。見苦しいまま閨に侍りたくはございませぬゆえ、暫しお時間をくださいませ。支度をして参りますので、この寝室でお待ちを…』と囁くと、静かに化粧の間に入って襖を閉めた。
 初めて眼にする雲雀の焦燥にも似た蒼白の様子を、骸は興味深げに見つめた。



 大切な妹の夫になる男の事は、ある程度承知している。
 そのずば抜けた頭脳と容姿、御一新による目覚しい活躍で“公爵”という身分になった雲雀家が持つ財力に至るまで…。
 性格に少々難点はあるものの、可愛い妹を嫁がせるのになんら問題はないと思っていた。
 学生時代からストイックなまでに女性関係の一切が掴めなかった雲雀恭弥に、屋敷の離れに増築した座敷牢に住まわせている愛妾がいるという報告を聞かされるまでは…。





 過日、骸の呼び出しを受けて六道邸に出向いた雲雀は、その事で骸に妹思いの兄として注意勧告を受けたのであった。

『しかし報告を聞いて驚きましたよ! 女嫌いの雲雀君に文字通りの囲い女がいるとはね…。座敷牢とは随分とご執心じゃありませんか!』
『煩いね! 君には関係ないだろう!』
『何を言ってるんですか! 大有りですよ! 僕の大切な大切な妹が嫁ぐ相手に、そんな爛れた関係の女が存在して貰っているのは困りますね!』
『……』

 学生時代から吉原や深川に誘っても決して遊郭へ足を運ぼうとはしなかった雲雀の事を、一時期は女ではなく男でしか勃たないのかなどと、下世話な事を考えて同窓の獄寺伯爵や山本子爵と談笑したこともあったのだが…。
 ともあれ、愛する妹が嫁ぐまでに身辺の整頓をしておいて貰わねば困る。
 そう考えた骸は、雲雀に一つの賭けを提案したのであった。

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