五月の初頭だというのに、まるで梅雨空の様な鬱陶しい雨がもう三日も続いている。
一ヶ月前には満開だった桜の花もすっかり葉桜となり、頑丈な格子の向こうの窓から僅かに見える花は優美な藤の花になっていた…。
日の光りを見ることが殆どない、虜囚の佳人の胸中を模すかの如きどんよりとした空模様と同じく、美凰の心は暗く重く塞がったままであった。
今、白魚の様な指は一心に仕立物を縫い上げる為に動いていた。
間近に迫る端午の節句、雲雀公爵の誕生日の為に夏物の単を仕立てている最中なのである。
『わたくしからの贈り物など…、御前さまがお喜びになられる筈はございませんわ』と一旦は断ったものの、女の気鬱を引き立てる為なのであろう心優しい千鳥から『どうぞ縫って差し上げてくださいましな』と強引に反物を渡されてしまった美凰は、雲雀の訪いが途絶えてしまったここ一ヶ月ばかりを針仕事で過ごしていた。
最後の同衾から一ヶ月。
六道伯爵令嬢と結納を交わした雲雀は、秋に執り行われる婚礼の為に諸事万端多忙を極めているとの事であった。
美凰は吐息をついて手を休め、つと立ち上がって障子を開けると格子枠の向こうに見える外の景色をぼんやりと見つめた。
激しかった雨は再び細々とした糸になり、薄紫の藤花が露を含んでしっとりと美しい。
木々の隙間から僅かに覗く公爵邸の母屋の白壁。
〔あの壁の向こうに…、恭弥さまがいらっしゃる…〕
一刻たりとも頭から離れぬ雲雀のことを改めて思い起こし、美凰は小さく溜息をついた。
静かだった。
夕刻までの半刻ばかりの時間帯、大抵この離れの建物は美凰一人となる。
千鳥は日常の細々したものの買い物に出掛け、庭師の松蔵も母屋の庭園の手入れに忙しいからだ。
そしてこの一人きりの僅かな一刻を、美凰はいつも同じ事を繰り返して過ごしているのだった。
箪笥や鏡台が置かれた四畳半程の化粧の間。
寝室の隣にあるこの小部屋の押入れから、美凰はこじんまりとした枕屏風を取り出した。
美馬侯爵に与えられていた邸宅から持ち出したたった一つのもの。
それは何の変哲もないこの小さな枕屏風だった。
他の男の持ち物だった頃のもの一切を持参させる事を許さなかった雲雀にこれだけはと懇願し、美馬侯爵から与えられていた金目のものや高価な着物にすら眼を向けず、質素な枕屏風だけを自らの両腕にしっかり抱きしめた美凰は、呆然自失の体でこの座敷牢に籠められた。
雲雀は一瞬、珍奇なものを見る目つきで奇怪な美凰の行動を見ていたが、当時の彼は彼女を自分のものとして自由に扱える事の方に全神経を集中させていたし、その枕屏風を眼にする事は二度となかったので、さして気にも留めていない様子であった。
そしてそれは、美凰にとって幸いな事でもあったのだ。
美凰は、蝋燭を灯した簡易燭台をそっと屏風の裏側に近づけた。
薄ぼんやりとした灯りが表装を透かし、中に閉じ込められた手紙の様なものの文字をうっすらと浮かび上がらせる。
美凰へ
“曾て滄海を経(ふ)るも水と為し難く、巫山を除却(のぞい)ては是れ雲ならず”
紫雲
「恭弥さま…」
愛しげに流麗な筆跡を指先で辿る美凰の脳裡に、二度と帰らぬ幸せだった日々の思い出が蘇る。
「恭弥さま…」
美しい双眸に涙が溢れ、真珠の雫となって花顔の頬を伝い落ちた…。
美凰はそっと腹部に手を当て、なんら変わらぬ膨らみを愛しげに撫でさすった。
〔どうすればいいのだろう…。わたくしは…、身孕っているに違いない…〕
美凰の懊悩を知るのは、身の回りの世話をしてくれている千鳥のみである。
ここ数ヶ月に亘る美凰の体調不良の原因が、自らが準備していた堕胎薬のせいであるという自覚が千鳥にはあった。
雲雀の乳母である千鳥は“若君の将来の為”という名目の下、雲雀の母である先代公爵夫人春香の命ずるまま、今まで美凰の身体に有害な薬を与えて続けていた。
しかしこの一年の間に、美凰に対する余りに酷い雲雀の仕打ちや、彼を愛するが故にそれを甘受している哀れな程に心優しい女の姿に打たれた千鳥は、公爵夫人の命令に背いて美凰の身を守る為に立ち回ってくれる様になっていたのである。
千鳥の心遣いを有難く思いつつも、迷惑をかけまいと密かに堕胎薬を含み続けていた美凰だったが、一ヶ月前の狂気の様な閨事の後、含んだ筈の薬が千鳥にすりかえられていたただの薬湯だった事を知った時には時既に遅しという状態であったのだ。
今まで一度として狂ったことのない月役の乱れに、美凰は自らの胎内に雲雀の命が宿っている事を直感していた…。
『若様のお胤を身籠っておいでならば…、それはとても喜ばしい事でございますよ、お美凰様! いっその事、若様に…』
『わたくしは身籠ってなどおりません…。それに…、万が一そうであったとしても…、御前さまには…』
『お美凰様…』
『それだけは…、どうぞお許しくださいまし…。赤ちゃんを…、赦さないと仰られれば…、わたくしはもう…』
『……』
『随分以前…、御前さまはわたくしに“御子”をと…』
『ならば…』
『でも…、希まれた五年前とは…、何もかもが変わってしまいました…。わたくしには未来はないのです』
『……』
つい先程、千鳥と交わした会話を思い出して美凰がそっと溜息をついた瞬間、寝室との境目の襖がすっと開かれた…。
「?!」
ぱっと振り返った美凰の双眸に、露に濡れた大振りの藤の枝を持った美しい男の姿が映った。
「成程! これは…、大層な佳人でいらっしゃる…」
「…、ど、…、どなたでいらっしゃいますか?」
「……」
この座敷牢の鍵を持つ者は雲雀と千鳥のみである。
そして鍵を壊す様な物音は一切耳にしていない。
顔面蒼白になった美凰は、がくがく顫えながら畳の上を後じさった。
そんな女の姿を畳二畳程の距離からまじまじと見つめていた男は、賞賛の眼差しで美凰の容姿を眺め回していた。
「これは…、まさしく傾国の花とでも呼ぶべきでしょうかね? 雲雀君ほどの男がこんな座敷牢に閉じ込めてまでのご執心なのですから…」
畳の上に藤の花を放った男はあっという間に美凰の傍に歩み寄り、箪笥にいざり寄って身を顫わせている女の身体を絡め取った。
「あっ! いやっ! な、なにをなさいますっ! お放しくださいませっ!」
「静かにしてください。手荒な事は好みません」
「いやっ! だ、誰かっ! 誰かっ!」
「観念なさい。雲雀君に劣らず、いい思いをさせてあげますよ」
男は雲雀とさして変わらぬ華奢な体格であったが、それでも美凰の抵抗をやすやすと押さえつけるだけの膂力を持っていた。
「おやめくださいっ! 放してっ!」
身もがいて暴れる美凰の耳朶に、男はつと顔を寄せた。
「無駄な抵抗はおよしなさい。誰も助けになんか来ませんよ…。だってこの部屋の鍵を貸してくれたのは雲雀君ご本人なのですからね…」
「?!」
男の言葉に衝撃を受けた美凰は、暴れるのをやめて黒曜石の様に美しい双眸を見開いた…。
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