恋は狂気である。 〜プラトン〜『饗宴』
恋とは、明敏で、生き生きとして、陽気な興奮状態である。〜ミシェル・ド・モンテーニュ〜
恋はどんな薬草でも癒せない。〜w:オウィディウス〜『変身物語』
恋愛とは、人間が他人に対して抱く情緒的で親密な関係を希求する感情で、また、その感情に基づいた一連の恋慕に満ちた態度や行動を伴うものらしい。
仏語ではamour、英語ではlove…。
『広辞苑』では「男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい」と簡潔に記されているし、『新明解国語辞典』では「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔いはないと思う程の特別の愛情を抱き、いつも高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、二人だけの精神的世界観の一体を分かち合いたい、できるなら肉体的な一体感も得たいと願い、常には叶えられないで、やるせない思いに駆られたり、稀にかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。そしてちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に陥る」などと説明されている。
夏休みの後半には関西へ引越し、2学期からはこの並盛からいなくなる美凰。
引越しをとめる事は今の僕には不可能だが、連絡を取り合って行き来する事は可能だ。
僕は、僕自身が行動して出来る限りの事をしなければならないと思っていた。
女の子を好きになったのはこれが初めてだし、これ以上好きになれる女の子を見つけることは、おそらくこの僕には無理だろうと予感していた。
12歳の子どもの癖に、僕は僕自身をよく理解していた。
一生に一度の恋というやつに、ほんの子どもの頃に出逢ってしまったのだ。
絶対に手放せない。
だから僕が…、いつも努力されてばかりのこの僕が努力しなければならないのだ。
今になって、僕に告白してくる女子達のやるせない気持ち?が、ほんの少しばかり理解できる様な気がした。
夏休みに入って程なく、僕は美凰を誘って隣町の黒曜に新しく出来たばかりの水族館に行った。
「図書館以外の場所に二人で一緒に出掛けるのって…、なんか不思議だよね?」
急に誘われて連れ出された美凰は照れているのか、随分とそわそわしていた。
「そうだね」
僕は少し笑ってから、美凰の手を取るとぎゅっと握った。
「ひ、ひひひ、雲雀くん?!」
「今日は…、デートだからね。デートって手を繋ぐもんなんでしょ?」
そう言って、僕は心から笑った。
「えぇぇぇっ?!」
顔を真っ赤にして眼を白黒させている美凰が、とても可愛かった。
真新しい水族館を、一日かけてゆっくり廻る。
お土産ショップで「わぁ! これ可愛い!」と言って美凰が手にしたマンボウのキーホルダーを「君そっくり! 今日の記念に買ってあげるよ」と言った。
「ひどいっ! わ、わたしってマンボウ?」
「そうだよ。大きな図体で、泳ぎ下手なくせに一人でうろうろふらふら勝手気儘に遊泳してる…。いつもぼやぼやと“どうやったら上手に餌を食べる事が出来るかなぁ〜”とか妄想し続けて…」
美凰の頬がぷぅっと膨れた。
「そ、そりゃあ…、わたし…、ちょっと太ってるかもしれないけど…、水泳も全然駄目だけど…、ぼやぼや妄想しながら泳いでなんていないよ!」
「でも…、愛嬌のある風貌だよね。眼と鰭がちょこまかしてて可愛いし…」
「……」
「どうしたの?」
「な、何でもないっ!」
眼鏡を外した美凰の照れ顔が、たまらなく愛しかった…。
水族館の隣は海浜公園になっていて、夕方近くだけどまだ明るい砂浜を二人で歩いた。
僕は美凰の手をゆらゆら揺らしながら海を見つめていた。
〔僕は君が好きだよ。これからもずっと、君だけを…〕
そう言いたかった。
言うべきだった。
そうすればきっと、美凰の口からも同じ言葉が返ってきてくれた筈だった。
でも、今迄一度も口にした事のない言葉に対する照れ臭さが、僕を躊躇わせてしまった。
この後悔は、6年経った今でも僕の胸にくすぶり続けている。
言葉の代わりに少しだけ強く、手を握った。
美凰にはこれで通じる様な気がしたから…。
彼女の柔らかで小さな手が、遠慮がちに僕の手を握り返してくれた。
それから僕達は黙ったまま…、海に夕日が沈みそうになる頃まで、ずっと二人で水平線を眺めていた…。
その日の夜の事は、永遠に思い出したくない。
僕の人生にとって最大の屈辱であり、汚濁にまみれた夜であったからだ。
雲雀家は戦前まで“公爵”としてこの並盛一帯を領地に持つ、所謂旧家であった。
資本主義社会になった今でも、旧家としての地域一帯に対する権力と財力は殆ど変わっていない。
僕が並盛で権力を握っているのも、僕自身の力量にプラスしてある程度、大財閥の生まれというバックボーンがあることは否めない。
僕の両親は見合い結婚だったが、とても仲睦まじかったらしい。
乳母の千鳥はよく僕にそう語って聞かせてくれた。
母は僕が2歳の頃に心臓病で亡くなったので、僕にはほんの僅かしか母の記憶というものがなかった。
いい匂いのする白くほっそりとした、儚い花の様な女性だった様に思う。
母が亡くなってから程なくして、父の乱行が始まったらしい。
今思えば、心底愛していた母を喪った悲しみの余りの行動だったと理解できる。
だが、物心ついたばかりの頃の僕には、次々に愛人を作っては欲望に溺れている父が汚らしいものにしか思えなかった…。
思い出の殆どない母に思慕の情を持つわけではないが、ある日突然、けばけばしい厚化粧の女が現れて「今日からあたしが恭弥君のお義母さんよ。宜しくね」と言われた時には、背筋がぞっとした。
元々、異性に興味がなかった僕は、この義母と名乗る気持ちの悪い女のせいで“女嫌い”に拍車がかかった。
そしてその…、顔を見るだけで虫唾が走る女が、初めてデートと言うものを体験し、明日からはどうやって大好きな美凰と過ごそうと楽しい想像をしながら床に就いた筈の僕の上にいた…。
『ねぇ、恭弥君…。お義母さんね、寂しいの…。もう耐えられない…。だから恭弥君がお父様の代わりにお義母さんの相手をして…』
―― やめろっ!
『ふふっ、抵抗したって無駄なんだから! さっき飲んだ紅茶にね、お薬を入れたの。催淫剤とね、ちょっとした痺れ薬…。だって恭弥君強いから…、抵抗されたら困るんだもん…』
―― くっそう…、放せっ!
『まだ12歳なのに…、凄いモノ持ってるのね? 最近、女の子の影が見え隠れしてる様子だけど…、彼女でも出来たの? その子と…、もうシちゃった?』
―― 僕に触るなっ!
『あたしがもっと凄いこと、教えてあげる…。ネンネな女の子なんか…、絶対に教えてくれない快楽よ…』
―― やめろっ! 気持ち悪いっ!
『恭弥君のお父様がいけないのよっ! いつまでも…、死んだ女の幻ばかり追って…、あたしを莫迦にして!』
―― 触るなっ! 汚らわしいっ!
『あんたもそうだわ! 死んだ母親そっくりの顔をしていつも取り澄まして! ほら、いつもみたいに“僕に近づいたら咬み殺す! 君なんか義母だなんて認めないよ!”って言ってみなさいよっ!』
そう言って戸籍上、僕の義母であるその女は、僕の上で好きなだけ僕を弄び、貪った…。
ああ…、美凰…、美凰…、美凰っ!
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