過去 2
「丁度、わしの愛弟子がの、美凰に求婚に参っておるのじゃ。お手前が先程申された…」

 不意に話が変わったので、呆然としていた尚隆は島田の言葉に反応するのに時間を要した。

「戸田…、隼人殿でござるな?」

 話にのめり込んですっかり忘れていたが、隼人は現在、美凰と共にいる筈であった。
 島田は頷いた。

「然様。ま、あれにはこの話は聞かせておらぬからのう。潔癖で生一本な若者のこと。どういう反応を示すかはわしも解らぬ」
「……」
「ただ、本当に…、美凰の事を想うておるのであれば、狩野大介との過去を想い出として解放させ、命を吹き込んでやれる筈」
「狩野大介を想い出に?」
「美凰は過去の中にしか生きておらぬ。時が止まってしもうとる。生き乍ら死んどるのじゃな。あのような姿は大介の望みではない筈じゃ」
「……」
「おふくからの便りによれば、どうやらお手前が美凰を過去の泥沼から引っ張り上げようとされておられると…」
「それは先程も申し上げました通り、某が狩野殿に似ているから美凰…、殿も反応を示すのでござる!」

 島田は注意深く尚隆を見つめ、深々と頷いた。

「…、ふむ。やはり隼人では足許にも及ぶまいて」
「? どういうことです?」
「お手前は美凰を愛しゅう想うていてくれる。今の話にこだわりがないと云えば嘘になるかも知れぬが、少なくともお手前がわだかまりをもっておられる事柄は、美凰が無頼者に犯されたということが筋ではなく、美凰にお手前自身をみてもらえないというもどかしさということではないのかな?」
「!」

〔そうだ! 予想した通り、いや、それ以上に美凰が惨い目にあっていたのだと知った時、確かに嫌悪と嫉妬が胸に渦巻き、腸がちぎれるほどに息苦しく、全身がかっと燃え上がるようだった。しかしそんなこと以上に美凰が不憫で、愛おしいと想う心が俺自身を打ちのめした。俺は、狩野大介の身代わりが、どうしてもいやなのだ! しかし、本当にそれだけなのだろうか? 今、美凰を目の前にしたとしたら、嫌悪がこみあげはしないだろうか?〕

 尚隆の胸中を、様々な思いが去来した。
 その様子をじっと見つめていた島田は云った。

「美凰を手に入れるにはな、狩野大介を越えることじゃ!」

 尚隆ははっと顔をあげた。

「狩野大介を越える…」
「出来るかな? そなたに」

 島田の言葉を噛み締め、考え込んでいた尚隆はつと顔をあげて島田を見つめた。

「先生。今まで誰にも云わなかった事を…、大介殿にも告げなかったことを何故、某に教えられたのでござる?」

 島田は哀しげに微笑んだ。

「さて、何故かな? お手前がわしの若い頃に似ておったからかな? 隼人には悪いが、わしはわしに似たお手前に、でき得れば美凰を幸せにして貰いたいと思うたのかも知れぬ」
「……」

〔そうか…。先生もまた美凰のことを…〕

 合点がいって、尚隆の双眸は哀しげな色を帯びた。
 色恋で美凰を想っている等といったものではなく、初恋の女である美凰の祖母、お雪の面影をを重ねているのではあるまいか。
 心のどこかにお雪を妻にした源兵衛に対して、お雪の娘志乃を妻にした三太夫に対しての、男の嫉妬心があり、その越えられぬ思いを己に託そうとしているのではなかろうかと尚隆は思った。

「さて、話は変わるがの? 小松殿」
「はっ」
「まあ、美凰のこともあるが、わしが江戸に来たもう一つの目的はおふくじゃ」
「はあ?」
「あれと正式に祝言して、共に暮らそうかと思うての」

 尚隆は瞠目した。

「正式に祝言…、でござるか?」
「うむ。今、わしは山科に住んどるのじゃがわしもそろそろ寄る年波じゃ。おふくにそこへ来て貰いたいと思うてな」
「しかし、おふくには『かわせみ』が…」
「そうなんじゃなぁ。これはわしの勝手な思いつきじゃから、おふくがどう云うかと思うてのう。なにせ、あの鉄火気性で切り盛りしてきた船宿、愛着もひとしおじゃろうから、おいそれとたたんでわしの元へは来てくれまいじゃろうなぁ…。今まで、ほったらかしも同然の亭主じゃったでなぁ…」

 島田のその様子があまりに微笑ましく、思わず尚隆は笑い乍ら云った。

「はははっ…。しかし乍ら大変仲睦まじく、むしろおふくの方が先生にぞっこんと見えましたが?」
「うっふふふん。羨ましいかの? 小松殿」
「はい。実に…」

 男二人は、くつくつと笑った。
 そこへおふくの声が、静かに聞こえてきた。

「旦那様、もう宜しゅうございますか?」
「なんじゃ?」

 おふくは障子をさらりと開け、顔をだした。

「娘さん方がお戻りになられましたよ」
「おお、そうかえ。ではおふく、店先で待っていなさい。すぐに参る」
「はい」

 おふくは障子を閉めて、廊下を去っていった。
 島田は尚隆をにこやかに見つめた。

「お嬢さん方が戻ったそうじゃが、どうじゃな? 姦しい娘たちはおふくに任せて、わしらはこれから某所へ参りませぬかな?」
「某所?」
「お手前ならばその道の達人と思うたのじゃが? 当然、馴染みがおるのじゃろ? この時期には紅葉狩りとは云えませぬなぁ…」

 紅葉狩りとは所謂、吉原へ繰り込むということであった。
 尚隆は苦笑した。

「おふくに耳打ち致しますぞ、先生!」
「いやいや! わしが遊ぶのではなく隼人の為でしてな。あれの為によい女子がおればと…。まあ、こう考えての…」
「戸田殿の?」
「然様。実は、あれはまだ女子を知らぬ童でな」
「はあ…」
「二十歳にもなって、そのう…、なんなのじゃがの。京でも島原や祇園によく連れていったのじゃが、如何せん、どうもうまいこといかぬのじゃなぁ」
「……」

 島田が眉を顰めて真剣に心配しているのが、尚隆には可笑しかった。
 その一方、その戸田隼人と共に舟に乗ったという美凰の事が思われ、怒りがわいた。

〔女を知らぬからとて、安心なものでは決してない!〕

 尚隆の心配や怒りをよそに、島田は呟いた。

「わしは入府中に隼人を是非とも男にしてやろうと思うてな。吉原へ連れていってやろうと…」
「その儀はそれがしにお任せ下さいませぬか?」
「なんと?」
「戸田殿を捜し出して、今宵の内にでも!」

 島田は吃驚した様子で眼を剥いた。

「こ、今宵の内とは…、また性急な?」
「先生にはおふくがおられます。ましてや入府なされたばかりの日に、下手に吉原などへ繰り込まれては如何なものであろうかと…」
「えっへん、えへん! な、何かな?」

 島田はしきりに空咳をして、尚隆に片目をつむってみせた。

「旦那様、まだでございますか? もう日も暮れて参りましたよ!」

 障子の向こうで、突然におふくの声が響き、島田は怖そうに肩をすくめた。

「うむ! た、只今…。只今参りますぞえ…」

 尚隆は、島田のその恐妻家ぶりにくすくすと笑った。
 島田は斜交いに尚隆を軽く睨みつけ、立ち上がった。

「参った。やはり女房は恐ろしい…。隼人のことはお手前にお任せ申した。恋敵とは申せ、まだまだひよっこでな。お手柔らかにお頼み申すぞ」
「心得ました」
「わしは暫く『かわせみ』住まいですじゃ。明日にでも、美凰の所を尋ねようと思うておりますでな。また一緒に呑みましょう」
「はい。是非に」

 島田は障子を開け、廊下に出るとおふくの元へおたおたと歩いていった。
 苦笑し乍ら尚隆も立ち上がり、大刀を落とし差して島田に続いた。





 外へ出ると、もう日差しはだいぶ西に傾いていた。
 三人の娘たちは細々と色々なものを買ったらしく、山のような荷物に両手がふさがっていた。

「あら! 尚隆様が出ていらっしったわ!」

 文世が声をあげた。
 島田の姿を見た琴路は、吃驚した様子で声をあげた。

「おじい様!」
「おお、お琴ではないかえ!」
「今、こちらのおふくさんから聞いて吃驚していたんですのよ! どうして? どうしてお江戸に? いついらしたんです?」
「ははっ、今日着いたばかりでな。おお、お友達かえ?」
「はい。こちらは美凰お姉様のお妹様で文世様。こちらは神田明神下の火消し、辰五郎様のお嬢様でお新様。お二人ともとても琴路にご親切でお優しい方です」
「花總文世でございます」
「お新でございます」

 二人は揃ってお辞儀をした。

「そうかえ、そうかえ」

 島田は眼を細めて頷き、二人に挨拶をした。

「お琴のじじも同然の島田慶一郎です。この度はお琴がお世話をおかけしますが、江戸滞在中は仲良くしてやって下さい」
「はい、こちらこそ…」



 島田と琴路たちがしゃべっている間に尚隆はふいと左にそれ、小さな玩具を売っている屋台を覗いた。
 可愛い張り子の戌や虎が並んでいる。

「旦那、お子さんにお土産でござんすかい?」

 屋台の売り主が揉み手で云ったのに尚隆は笑った。

「ははっ。餓鬼がいるように見えるのか?」
「ええ、そりゃあもう! さようでござんすねえ、一姫二太郎三次郎って具合で二男一女に恵まれてるお顔をなさっておりやすよ、へい!」
「残念乍らまだ独り身でな…」
「あれれ? そうでござんすか。でもあっしの見相はなかなか当たるってえ、近所でも評判なんですぜ! んじゃあ、これからですよ。きっと、それぐらいのお子さんに恵まれること間違いなしってえことでござんすよ!」
「これはいくらだ?」

 尚隆は、笊をかぶった可愛い張り子の戌を差した。

「へい、五十文でやす。いいのを見つけやしたねえ、旦那。こりゃあ、子宝に恵まれること間違いなしでやんすよ!」
「子宝より、まず女房となる女を落とさねばな…」

 尚隆は笑い乍ら、紙入れから小粒を取り出して渡した。

「毎度、只今おつりを…」
「構わぬ。取っておけ」
「しかし、こんなに…」
「顔相を見てもらった分とでも思えばよい」
「まっ、毎度ありぃー!」

 尚隆は紙にくるんでもらった張り子の戌を懐にしまい、屋台を離れて娘達の明るい笑い声が響いている島田達の元へ戻った。





「島田様と仰しゃいますと、わたくしの姉がお世話になっておりましたあの島田様でございますか?」
「さようでございますよ、文世お嬢様」

 おふくが頷いた。

「まあ、わたくし、初めてお目にかかります。妹の文世でございます。京では姉が随分とお世話になったそうで…」

 文世は深々とお辞儀をした。

「いやいや、もうすんだことですじゃ。それではまたの」
「はい…。では若様」

 そわそわと見つめてくるおふくに苦笑しつつ、尚隆は鷹揚に頷いた。

「世話をかけたな、おふく。近々、先生をお尋ねして寄らせてもらおう」
「はい、是非に…」
「おじい様はどちらにお泊まりなの? 秋山の大先生の所?」
「うむ。まあ、色々とな。では小松殿、また後日」
「はい。失礼致します」
「皆様、失礼致しますぞ。琴路、またの…」

 三人にしか判らない言葉の交わし合いを終え、島田とおふくは会釈をしてから立ち去っていった。

「なんなのでしょう?」
「さあ?」

 首を傾げている娘達を尚隆は促した。

「まあ、よいではないか。それよりも随分と買物をしたもんだなぁ。遅くなっては大変だ。送ろう。お新、お前は両国橋まで一緒に下って、そこから舟を乗り換えて神田川へ折れて、佐久間町の河岸で降ろしてもらえ。俺は二人を八丁堀まで送らねばならん」
「えーっ、いやですよ。あたしも一緒に行きます。どうせ若様はうちに帰っていらっしゃるんですから、あたしがご同道したってかまやしないじゃありませんか!」
「今日は駿河台に戻る」

 尚隆は白々しく嘘を云った。

「お屋敷へですか? あっ! 綾様ん所へご機嫌伺いに行くんでしょ!」

 尚隆はうっとおしそうにぼんのくぼに手をやり、瞬時に言い逃れを口にした。

「莫迦。変な誤解をするな! 友人に呼ばれてるんだ。相談事があるとか云ってな」
「本当に? 嘘じゃあありませんね?」
「しつこい奴だな。そういう娘は男に嫌われるんだぞ」

 その一言がきいたらしく、お新はたちまちの内にしゅんとなってしまった。

「判りましたよ。真っすぐ帰ります」
「結構だ」

 お新は小声で尚隆の耳に囁いた。

「でもお話が終わったら、真っすぐに帰って来て下さいよ! 変なとこへ寄り道したら、承知しませんからね!」
「判った、判った。それじゃ行くか」
「はぁ〜い」

 尚隆を先頭に、四人は連れ立って吾妻橋へ向かった。



 途中でお新と別れ、永代橋前の江戸川を右に折れた時であった。
 川下から永代橋を過ぎて左に折れ、自分たちの舟より少しばかり前を過ぎて行った屋形舟の中が見えたらしく「あら? あれはお姉様じゃありませんこと!」と、琴路が声をあげ、文世の袖を軽く引っ張った。
 咄嗟に尚隆はその方向を凝視していた。
 障子を開け放ち、簾を下ろしたばかりの風流な屋形舟からそっと簾を掲げて水面を見つめている姿は美凰に間違いなかった。

「まあ、本当だわ! あら、男の方とご一緒のようよ。あれが貴女のお兄様?」

 そう文世が指さした、美凰の後ろにいる若者の姿を尚隆の眼を捉えた。

「ええ、兄ですわ」
「まあ、本当に! お新さんの所の若い方が仰しゃってらした通り、お内裏様のような素敵な方じゃありませんか!」

 隼人が何事かを云ったらしく、美凰の姿は船縁から離れて中に消えた。
 尚隆たちの舟は茅場町の河岸を曲がり、美凰たちの舟とは離れてしまった。

「尚隆様といい勝負ですわよ! ねえ、尚隆様!」
「……」

 尚隆の耳には、文世の言葉など入っていなかった。
 己の心を静めようと、尚隆はそっと懐を押さえた。





 目撃されていたことなど露知らぬ美凰と隼人はのんびりと向かい合い、他愛のないおしゃべりに夢中になっていた。

「今日は本当に楽しかった」
「わたくしもよ…」

 河岸のほうから、家路を急ぐ子供たちの唄声が聞こえてくる。

「もうすぐ七夕だなあ…。子供たちが笹舟の唄を歌っている」
「……」

 舟は日本橋川に折れた。
 じっと水面を眺めている美凰を見つめつつ、隼人は呟いた。

「周平先生から求婚されたそうですね」
「まあ…、どうしてそれを?」
「大先生から聞いたんです。昨日から周平先生は大先生の使いで甲府まで出向かれていて、昨夜は大先生と俺だけだったんです」
「そうですか…」

 祖父も知っている以上、もう返辞を延ばしているわけにはいかなかった。

「周平さんはいつ、甲府からお戻りかご存じかしら?」
「行って用件を済ませて帰るに、健脚の周平先生でも最低十日はかかると思います。ですから…」
「そうですか」

 周平が帰って来たら、正式に返辞を告げようと美凰は思った。

「姉上…」

 ふいに耳元で囁かれて、美凰ははっと振り返った。
 間近に、隼人の秀麗な面差しがあった。

「京へ参りませんか?」

 いい乍ら、隼人は障子を静かに閉めた。

「隼人さん?」

 美凰は訝しげに隼人を見た。

「わたしの妻になって頂きたいのです」
「! なんと仰しゃって?!」
「ずっと貴女が好きでした。わたしの妻になって欲しいのです!」

 美凰は双眸を見開いた。

「からかっていらっしゃるのね!」
「からかってなどおりません! 本気です!」

 美凰は、冗談に躱してしまおうと笑い乍ら云った。

「わたくしはあなたより四つも年上ですよ!」
「四つくらいの歳の差が何だと云うんです!」
「……」

 隼人の怒ったような口ぶりに、美凰は後じさった。

「わたしが…、わたしが孤児だから? だからいやなんですか?」

 美凰は吃驚したように首を振った。

「そんな! わたくしは今まで一度もそのようなことを考えたことはありませぬ! そんな風に卑下するのはいけないことです。ましてやあなたのご両親はご立派なお武家だったというではありませぬか!」
「ではわたしが…、わたしが嫌いだから?」
「そのような! わたくしはあなたを本当の弟のように…」
「弟じゃない!」
「あっ!」

 力強い両手が美凰の繊肩にかかり、もの凄い勢いで揺すぶられた。
 隼人の眼に、男の火がかっと燃え上がっていた。
 美凰は恐怖した。

〔隼人さんは本気だわ!〕

 生唾が嚥下され、喉がごくりと鳴る音が微かに響いた。

「隼人さん! いけません!」

 美凰は、隼人の手を払いのけようともがいた。

「好きだ! わたしは貴女が…!」
「あっ!」

 船頭の耳も忘れ、二人は狭い屋形舟の中で争った。

「屋根舟に乗った男と女はこうなってもおかしくないんです。貴女だってご承知でしょう!」
「そのような! いやっ!」

 その時、五十がらみの船頭が障子を開けて顔を出し、二人を怒鳴った。

「お客さん、いい加減にしてくんねえ! 舟が揺れて云うことをきかねえ!」

 隼人ははっと振り返り、乗り掛かろうとしていた女体から離れた。
 美凰はその隙に、組み敷かれそうになっていた隼人の腕から逃れ、隅の方にいざり寄った。

「お若けえ方、お嬢さんはいやがっておいでじゃありやせんか。おやめなせえやし!」

 船頭の忠告に、みっともない所を見られた気恥ずかしさと興奮に隼人は思わず怒鳴り返していた。

「黙れっ! その方には関係ない! 引っ込んでいろっ!」
「なんてことを仰しゃるの! わたくし、今の隼人さんは嫌いです! 蔑みます!」
「いやいや、お嬢さんもいけねえ!」

 船頭は、首を振って鋭く叱咤した。

「聞いた所、お嬢さんの方が年上ということじゃありやせんか。男と女が屋形舟に乗るってえことが、どういうことか判っていらっしゃる筈だ」

 美凰は無言で項垂れた。

「……」
「他人でなくなることを承知の上ということですよ。お若けえ方の仰しゃることも、もっともなんだ。あっしはこういう商売だから、普通なら見て見ぬふりをしなきゃなんねえ。でもお嬢さんが不承知だったってえのが聞こえて来たから、憚り乍ら声をかけたんでえ」

 隼人も同じように項垂れてしまった。

「なにがあったかは存じませんがねえ…、仲良くなすっておくんなさいよ!」

 そう云うと、船頭は再び障子を閉めて舟を漕ぎだした。
 美凰は、隼人に向かって頭を下げた。

「ごめんなさい。わたくし…、軽率でしたわ」

 隼人はとんでもないという風に首を振った。

「姉上、わたしの方こそ…。あんなに楽しかった気分をぶち壊してしまった。どうか許してください!」
「いいえ、わたくしが…」

 船頭の声が静かに響いた。

「江戸橋が見えてめえりやしたよ。竹橋まででござんしたね?」
「ああ、そうだ」

 その後は、二人とも無言であった。
 竹橋にはすぐ着いた。
 舟から降りる時、隼人はしきりに頭を下げて船頭に詫びていた。
 続いて美凰も降り、同じように船頭に詫びた。

「本当に…、ご迷惑をおかけ致しました」
「いいえ、いいんですよ。ただね、若けえ男はこう、かーっと頭に血が昇るとついついああいう行動に出ちまうもんなんでござんすよ。ましてや、お嬢さんのようにとびきりの方が相手だったら尚更でさ!」
「……」
「だから、あんまり気に病んでやらねえようにしておやりなせえ」
「はい」
「これからはご注意なさいませえやしよ」
「はい…」

 再度、船頭に挨拶をした二人は、無言のまま神保町に向かって歩きだした。





 その角を曲がれば家という所まで来た時、隼人は漸く顔をあげて云った。

「今夜はもう一度秋山道場へ戻ります」
「隼人さん…」

 美凰は、俯けていた顔をあげて隼人を見た。

「今日は琴路の奴もいないし、その方がいいと思います。このまま泊まったら…、正直に云って自信がありません!」

 美凰は、その意味を察して顔を伏せた。

「……」
「でも、さっきの気持ちは本当です。貴女が好きです! 貴女を妻に迎えたい…。だからよく考えてください。本当にすみませんでした。それじゃ…」

 足早に立ち去っていく隼人を、美凰は黙ったまま見送った。

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