過去 1
「お手前、神道無念流の遣い手じゃそうじゃな」

 奥座敷に落ち着いた島田は、真向かいに座った尚隆に酒を奨め乍ら自分は蒲焼に手を伸ばした。

「はあ、些かの心得がある程度で…」
「謙遜せんでもよい。練兵館での席次は?」
「…。現在、五番を務めております」
「ふむ。弥九郎殿はべた褒めじゃったぞ」
「師にお会いなされたのでござるか?」
「先程の。お手前の剣は『春風駘蕩の剣』と呼ばれておるそうじゃな? あの躱しぶりは破れぬと弥九郎殿をして云わしむるとは、非凡の才じゃのう」
「恐れ入ります」

 尚隆は、島田に酌をし乍ら、心に引っかかっていたことを尋ねた。

「島田先生…。先程の話の続きでござるが、それがしの考えが間違っていなければ、お話の女性を妻に娶られたは秋山源兵衛先生ではござるまいか? つまりは美凰殿の祖母殿では…」

 島田は頷いた。

「美凰はお雪殿にそっくりじゃ。いや…、お雪殿以上に美しい、その上に心映えの強い娘じゃ。お雪殿になかった強さじゃ」
「……」
「お雪殿は源兵衛の妻となってから大治郎、志乃と、一男一女をもうけた。二人ともに若死でなあ。周平を存じておられるか?」
「はい」
「あれは大治郎の一人息子でな、若いのによう出来た男じゃ。幼い頃から美凰に惚れておってな。源兵衛は不憫がって、大介亡き後はなんとか美凰と娶わせてやりたいと思うておるらしい。わしも周平ならば異存はない」
「……」

 俯いた島田の盃に、おふくが酌をした。

「美凰の父、花總三太夫は平々凡々たる男よ。望まれて志乃を嫁に出したものの僅か二年足らずで死なせてしもうた…」
「病弱な方であったと伺いましたが?」
「うむ、志乃は生まれつき心の臓が弱くてな。それを苦にしていたから嫁入りをためらっておったのじゃが、三太夫の懇願にほだされて夫婦となった。ふん! あやつめ、志乃が死んでから僅か一年余りで虚弱な美凰の面倒を見るのも大変だからと、親戚に勧められるまま後添いを貰いよった。源兵衛はわざわざお富という乳母につけてやったというにな…」
「……」
「母親の血なんじゃろうなあ…。美凰もやはり生まれつき虚弱での。三つまで持つかどうかと危ぶまれておったのじゃが、源兵衛が小太刀を手ほどいてな、少しずつ健やかな身体になっていった。十六の頃には、娘武道として近所でも評判の男勝りであった。漸く娘らしゅうなったのは、大介相手の三本試合に、こてんぱんにやられてしもうてからじゃな」

 美凰のことを話す時の島田は、まことにもって柔和な微笑みを浮かべる。
 余程に可愛く思っているのであろう。

「源兵衛はなにも云わんがの。己の過去を振り返ってみれば、果たして娘がまことに想われておったかなどと考えたのではないであろうか。三太夫はただ、志乃の容姿にのみに岡惚れして夫婦になったのではないかとな…」
「それは…」

 己にも釘を打たれているような気がして、尚隆は花總三太夫を庇う言葉が出なかった。

「…。先程も申したように、乳飲み子ではなかったものの、源兵衛は四十三歳という男盛りに恋女房を失った。それ以来固く慎んで女子には近づかぬ。近づかせぬ。幾つもの再婚話も皆、振り捨てた。一重にお雪殿のみを愛しゅう想い続けておる。まあ、源兵衛ほどの男は奇異じゃがのう…。わしには真似ができん!」

 島田はおどけた口ぶりで笑った。

「島田先生…」
「いや、これも愚痴じゃな。確かに後添いのお多可は心掛けの良い、立派な女子でな。美凰のことも我が子以上に可愛がってくれよる。それにはわしも安心したものじゃった…。はははは」

 もの哀しげな笑いであった。
 何度かためらった後、尚隆はきり出した。

「先生、お尋ねしたき儀がござる」
「なにかな?」

 尚隆は、なみなみとなっていた盃の酒をぐいと一気に飲み干した。
 情けない事だが、酒の力を借りねばどうにも口に出来かねた。

「美凰殿が…、事にござる」
「……」

 おふくは島田を、縋るような眼差しで見つめた。
 島田は酒を含み、黙って尚隆を見た。

「おふくからお聞き及びとは思いますが、過日、美凰殿が狼藉者に…」
「聞いております。お手前の救いなくばと手紙を読んで肝を冷やしました。まことに忝ない」
「その折、熱にうかされて譫言を…、申された」
「……」
「助けて、けだもの、大介様…」

 抑揚のないつるりとした言葉に、おふくがはっと俯いた。

「小松殿…」

 島田は痛ましげに尚隆を見つめた。

「狼藉者は以前から美凰殿を見知った者のようでした。大介殿の敵が判明したからとの偽文で美凰殿をおびき寄せ、凌辱しようと。某に向かって『美凰とは、七年前から固い契りを結んだ夫婦なのだ』と」
「しゃっ! 莫迦めが! なんと不埒なっ!」

 島田は怒りの余り、叩きつけるように盃を卓の上に置いた。
 初めて見せる、取り乱した姿であった。

「大体の察しはついております。しかし、どうかお教え頂きたい。美凰殿の身に何があったのか…」

 島田は射るような目つきで尚隆を見つめた。
 尚隆の覚悟の程を、確認するかのように鋭い眼差しであった。

「どうしても知りたいのかな? それを知ってどうするのじゃ?」
「……」
「世の中には…、人間には知らんでいい事、知らずにすんで幸せな事もある」
「しかし、知らねばならない事もある筈です。相手の総てを手に入れたいとか、そんな問題ではなく、己の想いや覚悟が揺るぎないものなのかどうかを知るためにも…」
「知って、想いや覚悟が霧散してしまえばどうするのじゃ?」

 尚隆は苦しげに呟いた。

「それもまた、人間なのではないでしょうか?」
「冷たい言葉じゃな。見捨てるというわけか」
「そうではありませんが…、うまく云えませぬ!」

 尚隆は拳を握り、俯いた。
 その姿が駄々っ子のようで、島田は思わずふっと笑った。

「やれやれ…。それほどまでに想い詰めておるのか。まるで子供じゃな」
「……」

 島田はおふくを振り返った。

「おふく、暫く席を外しなさい」
「でも、あなた…」

 おふくは心配そうに、島田と尚隆を見つめた。

「この御仁ならば大丈夫じゃ。心配致すな」

 島田は穏やかな眼差しで、おふくに頷いた。

「はい…。それでは」

 おふくは静かに座敷を出ていった。





 島田は自分の盃に酒を注ぐと、黙って尚隆を見つめ乍ら語り始めた。

「あれは七年前の梅の花の香る二月、わしが江戸に出向いてきた日のことじゃった」

 白眉が苦渋に歪み、双眸が哀しい色を帯びた。

「あの時のことは、思い出すのも恐ろしく惨いもの…。ただの悪い夢であったならと何度願ったことか…」
「……」
「黄昏時の夕闇せまる刻限、入府したわしの足は『かわせみ』へと向かっておった。寺院の塀に沿って足を進めておると、崩れた土塀の向こうから聞き取れぬほどにか細い呻き声がわしの耳に響いた。不審に思うたわしは塀を乗り越え、急いで墓所を進んだ。近づくにつれ、言葉の判らぬ娘の悲鳴が明確に聞こえて来た。寺は荒寺でな、外道が悪さをするには絶好の場所じゃった。わしがそっと中を覗くと…、娘が犯されておった…」
「……」
「男はさんざんに嬲りつくしたのであろう全裸の娘の身体を、うっとりと這いずって激しく蠢いている最中であった。その横には、二人の浪人の血にまみれた死体が転がっておった。わしの一喝で、余程吃驚したのであろう。男は娘から跳び離れ、取り去っていた頭巾を手に面を覆い乍ら脱兎の如く逃げ去っていった。面体は判らなかった…。追いかけて斬りつけるよりもまず娘を救わねばと、ぐったりと死んだように横たわっている娘の目隠しと猿轡を取り去り、顔を覗き込んだ瞬間…」
「……」
「わしの息はとまるかと思った…」
「美凰殿、ですな?」

 島田は沈痛の面持ちで静かに頷いた。

「薄暗闇であった上に目隠しをされておったで、それが美凰の変わり果てた姿とは夢想だにしなかった。あの気の強い美凰が…、恥も見栄も捨てて泣き叫び、猿轡の下から救いを求めて懸命に大介の名を呼んでおった…」

 島田は喉を鳴らして酒を流し込んだ。

「宵闇に紛れて、わしは失心したままの美凰をおぶい『かわせみ』に飛び込んだ。おふくが泣き乍ら医者を呼びに行き、たまたま役目が非番で『かわせみ』におった佐吉は隠密裡に秋山道場へと走った…」

 尚隆は美凰を連れて『かわせみ』を訪れた時の二人の動揺した様子を思い出した。

 二人は七年前の、無残な光景を思い出したのであろう。

「おぬしに解るであろうか。その時のわしの気持ちが!」
「……」
「四十年以上も昔の記憶が一瞬にして蘇った。しかしその光景と違っておったのは…」

 島田は堪えきれぬように、再び酒を喉に流し込んだ。
 拳が慄えていた。

「惨いことじゃった。その前日に美凰は大介に初めて抱かれて、契ったのじゃそうじゃ」

 尚隆の胸に、小さな針が突き立った。

〔大介殿のものになっていたのか…〕

「生娘も同然じゃ! その清らかな肌をあのけだものは散々に嬲り、汚し尽くしておった」
「……」
「目隠しをして猿轡を噛ませたのは無論、姿を見られぬ為と自害させぬ為の用心じゃろう。わしが猿轡を取り去った時、手拭は…、血まみれじゃった。犯され乍らも何度となく舌を噛み切ろうとしていたのであろう」

 今度は、胸を抉られるような思いが尚隆の全身を駆け巡った。

「その上、そのけだものは、美凰の下腹に傷までつけておった」
「! 傷?!」
「脇差でつけたものなのであろう。十文字にな…。異常としか思えぬ。お前を他の男のものにせぬための印なのだとか、美凰に申したそうじゃ」

 云い知れぬ恥辱に、尚隆の身体が小刻みに慄えた。

「医者はわしの知人でな。他に漏れる心配はなかったが、その道庵ですら顔を顰めた程じゃった。大介の名を叫ぶ度に殴られたと云う。悲鳴をあげられぬように何度も喉を締められた痕が痣になっておった。身体中が男が咬みついた跡と汚らわしい精に汚され、女の箇所は無茶な行為に血まみれじゃった…」
「おやめください! もう聞きたくないっ!」

 尚隆は吼えるように叫ぶと、弾かれた様に立ち上がった。

「お手前が教えろと云うたことじゃ!」

 島田は下から尚隆を睨みつけた。

「しかし、某は!」
「そのようなことは聞きたくなかったと? しかしこれが真実じゃ! わしがこの眼で見た真実じゃ!」
「お黙りなされ! もう結構! 失礼致す!」

 尚隆は座敷を出て行こうとした。

「待たれよ! この話を人に漏らすのは初めてのことじゃ。曾て大介にも云わなんだ事なのじゃぞ!」

 背中を向けていた尚隆の双肩が、ぴくりと揺れた。

「…、大介殿にも?」
「然様…。わし一人の胸の中にと思うておった」
「……」

 尚隆は振り返り、島田を凝視した。

「まずは座られよ」

 島田の厳しい表情に、尚隆は憤然とし乍らも座り直した。

「続けても宜しいかな?」
「……」

 黙ったままの尚隆をよそに、島田は話を続けた。

「当然のことじゃろうが、正気づいた美凰は汚された身を恥じ、半狂乱になって自害しようとした。源兵衛や三太夫夫妻、お富たちは必死になって止め、とにかく薬で眠らせた直後に知らせを受けて大介がやって来た…」



『相すまぬことになった…。大介、美凰のことは忘れてくれ。もはやお前の妻になれるような身体ではなくなってしもうた!』
『いいえ、先生! 今、こんな時にこんなことを云うのは恥ずべきことなのでしょうが、某は昨日、美凰殿と夫婦の契りを結んでおります』
『なにっ! そのような…、美凰を思っての偽りを!』
『「青葉」という料亭の女将に訊いて頂ければ、某の云うことが嘘ではないことがお判り戴けます』
『大介!』
『祝言の前に不埒な事をした奴とお思いでしょうが、先生、某は決して破談になど致しませぬ。某の妻は…、美凰殿だけです!』
『大介、いかんぞ!』
『何があったとしても、二人でそれを乗り越えて生きるのが夫婦というものだと思います。死ぬより苦しくとも、夫婦ならそうでなくてはならない…』
『……』
『某の務めは、美凰殿の心身に安らぎと揺るぎない愛情を与え、共に生きてゆくことです。そして…そして、この手で必ず下手人を!』
『すまぬ!』
『お願いでござる。美凰さんに逢わせてください!』
『すまぬ、暫くの時間をくれ。今、お前と顔を合わせれば、美凰は衝動的に舌を噛みきるじゃろう』
『……』
『今暫く待ってくれ。落ち着けば、必ずに…』



「十日の間、熱にうかされ続けていた美凰が漸く起き上がれるようになった。大介もその間、殆ど眠らずに奉行所と『かわせみ』を行ったり来りしておった。もはや堪えきれんかったんじゃろう。大介は美凰に逢わせてくれと、源兵衛に懇願しおった。あまりに不憫じゃったので、わしが美凰のいる座敷へ誘ってやった…」

 尚隆は拳を握り締め、静かに頷いた。

「……」
「しかし、若い男のこと。いくら口では格好のよい事を申しておっても、実際に傷を負うてしもうた想う女を目の前にすれば、なにを云い出すか判らぬとわしは思った。故に侍にあるまじきことじゃが、密かに立ち聞きし、様子を覗き見た…」
「……」
「大介と二人きりにされた時も、美凰はただ泣き濡れて詫びるばかりじゃった…」



『美凰さん、逢いたかった! この十日間、俺は、俺は…』
『……』
『生きていてくれて良かった!』
『……』
『美凰さん…』
『いけません! お寄りにならないで! あなたの…、あなたの御心が汚れます!』
『……』
『いっそ死ねと仰しゃって! わたくしは、わたくしはもう、あなたさまの妻にはなれませぬ! わたくしは!』
『美凰さんが死んだら俺はどうなる? 一人残された俺はどうなる?』
『……』



「まだ腫れのひいていない顔、痛々しく布を巻いている美凰の首筋を見つめ乍ら、大介はたった一日で、幸福の絶頂から不幸のどん底に転落してしまった女の、抜け殻のような身体を抱き寄せた。温かく、包み込むような眼差しじゃった…」



『決して死ぬなどと考えてはいけない。何も心配しなくていいんだ。俺の女房は天地神明にかけて、美凰さんだけだ。俺はどんな事になろうとも、美凰さんの総てが好きなんだからね。心を強く持つんだ!』
『いいえ、いいえお赦し下さいませ…。美凰は、美凰は…!』
『改めて誓ってくれ! 美凰さんは大介の妻だな! 誓わなければ赦さないぞ!』
『大介さま…』
『きっとだぞ! 美凰!』
『……』



「その場限りの言い逃れではない、真摯な想いがこもっておった。茫沱の涙に咽んで、腕の中から逃れようとする美凰を大介は激しく抱き締めた。あのような男がこの世にあったのかと、わしは感涙した…。美凰は大介の胸に縋ってただ、歔欷くばかりじゃった…」
「……」
「それから、大介の密かな必死の探索が始まった。当然のことではあろうが、犯人は判らずじまいのまま、美凰からの申し出により祝言も延び延びのまま三カ月が過ぎ、季節は初夏を迎えた…」

 言葉が途切れ、島田の表情が、更に苦渋を帯びた。

〔これ以上、まだ何かあるというのか?〕

 訝しげに島田を見つめていた尚隆は、美凰の祖母であるお雪の話からある閃きに声をあげた。

「先生! まさか?」

 己の閃きを打ち消そうと、尚隆は一縷の望みをかけて島田を見つめた。
 しかし、島田は微かに首を振ると尚隆の思いを打ち砕いた。

「美凰は…、懐妊しておった」

 尚隆は後頭部をこん棒かなにかで、がんと打たれたような衝撃を覚えた。

「……」
「事件以来、美凰は押上村の秋山道場の奥に籠もりっきりの生活を送っておった。その美凰が貧血で倒れ、わしらは道庵を呼んだ。道庵は美凰が身ごもっておると云った。大介の衝撃はいかばかりであったことか。それにも拘わらず大介は、それは己と美凰の子だと申し立てて、すぐにも祝言を挙げたいと云い出した。わしらが談合している最中、美凰は隙を見て道場を飛び出すと大川へ身投げしおった…」

 尚隆の双眸が見開かれた。

「身投げ…」

 島田は力なく頷いた。

「幸いにも大川を昇ってきた舟に発見され、救い上げられはしたが…、美凰は半狂乱で『腹の子は大介の子ではない』と云い張った…」
「……」
「結局、無理がたたって腹の子は流れてしもうた。じゃが、道庵は更に恐ろしいことを云いおった。腹の子は、女子が腹の中で子を育てるにちゃん決まった場所に宿ったわけではなく、子を育てるがための養分を保持する場所に宿ってしもうたのが無茶な流れ方をし、その箇所を傷つけてしもうたから、今後二度と子は望めぬ身体になっただろうと…」
「……」

 たて続く衝撃に流石の尚隆も声すら出せず、呆然と眼の前の老人を見つめるばかりであった。

「一度中条で堕胎すればその傷がもとでなかなか子供が望めぬというが、それ以上のことじゃと云いおった…」



『いやっ! いやっ! わたくし! 死なせてっ! もう、生きていたくなんかない!』
『落ち着くんだ、美凰さん!』
『いやあぁぁぁー!』
『美凰さん! 先生、どうか美凰さんを某にください! これ以上離れていては美凰さんは…、美凰さんは狂ってしまう! どうか美凰さんをそれがしの傍に!』



「大介は男泣きに涙を流して美凰を抱き締め、わしらに懇願した。美凰が床から起き上がれるようになってからすぐにも祝言をと。放心状態のままの美凰と、周りの者をなんとか納得させた。じゃが、運命はどこまでも残酷じゃった…」
「……」
「祝言の夜、大介は何者とも知れぬ者に惨殺された…」
「祝言の、夜…」

 島田は唇を噛み締めながら静かに頷いた。

「その日は非番であったのじゃが、どこへ出掛けたのか朝から大介はいなかった。刻限になっても大介は組屋敷に戻って来ず、生気のない白無垢姿の美凰は、憂い顔で座敷に座っておった。そこへ花總道場の師範代の相良が、大介が斬られていると叫び乍ら駆け込んで来た。美凰は半狂乱になって、もはや虫の息の大介の元へ駆けつけた…」



『大介さま! いやっ! しっかりなさって!』
『美凰さん…、奇麗だよ…。やっと、大介のお嫁になるんだね…』
『大介さま! 美凰は…、美凰は、あなたさまのお嫁に…』
『抱いておくれ…。もっとよく顔を見せて…、美凰さん』
『大介さま、しっかりして! 死んではいやっ! 美凰を…、美凰を置いて逝ってはいやっ!』
『逝かないよ…。ずうっと美凰さんの側に…』
『大介、誰にやられた!』
『先生…、美凰さんを、頼みます…。決して、莫迦な真似は、せぬように…』
『大介さまっ!』
『俺の…、美凰…、しあわせに…、さ…らに、気をつけ…』
『大介さま? いやっ! いやあぁぁぁー!』



「大介は、犯人の名前を告げることなく絶命した…」
「……」
「免許を持つ大介を正面から一刀の下に斬り捨ててあった事から、顔見知りの仕業であろうと囁かれたが、やはり犯人は判らず終いじゃった。再び、生きるよすがを失った美凰は白無垢姿のまま、三度目の自害を図った。わしらは随分注意しておったが、隙を見てのことじゃった…」

 尚隆の肩がびくんと慄えた。

「懐剣で胸を刺し、虫の息の所を源兵衛の名代で出羽まで出向いておった周平が、知らせを受けて帰って来た所、発見してな…。何とか救われた。以来、美凰は生きた屍と化してしもうた」
「……」
「断食して餓死しようとし、無理やりに重湯を飲ませると今度は扱帯を梁にかけて首を吊るという始末じゃ。一時は常に見張っていなければ、なにをしでかすか判らないほどに精神を病み、わしらの心労悲痛は並大抵ではなかった。美凰自身、狂ってしまえればどれ程楽であったことであろうの。わしは見かねて源兵衛に頼み込み、美凰を京へ連れてゆくことを承諾させた。お雪殿の時に逃げ出したわしだが、今度は逃げ出さずに受け止めねばならぬと思った…」

 島田は、その頃を回想するかのように眼を閉じた。

「……」

 尚隆はその島田の顔を見つめ乍ら思った。
 四年の間を京の島田慶一郎の元で心身の療養に明け暮れた美凰は、周りの人々の親切や温かい心遣いを無駄にしてはいけないと序々に気力を取り戻し、空しい乍らも生きて行くしかないのだと自らに言い聞かせ、江戸へ戻ってきたのであろう。
 そして、それならばいっそのこと、新しい場所で一人生きて行こうと両親を説得し、住み慣れた八丁堀の組屋敷を出て神田神保町の家に、乳母夫婦と共に移り住んで琴や手習いを教え、仕立て物などで生計をたて乍ら亡き大介との想い出の中のみに空しく生きてきたのであろうと。
 島田は眼を開け、尚隆の眼を見返した。

「これですべてじゃ。どうじゃな? この上で美凰を愛するのもおぬしの自由、思い切ってしまうのもおぬしの自由…」
「……」

 窺うように問いかける老人の声に、尚隆は無言のままであった。

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