すれ違う心 6
 格子造りの衝立てといった簡単な間仕切りから透かし見ると、声の主は上品で柔和な面差しの老人とその孫娘ぐらいの年頃のあか抜けた美人であった。
 上方から来たらしく、旅姿である。
 話している内に熱が入ってつんつんまくし立てる娘に、老人はにこやかに穏やかな表情で、諭すように語っていた。

「そやかて男はんには独占欲がおまっしゃろ? 好きな女ほど、なんで自分一人のものでいてくれんかったんやろって、思うもんやおませんやろか?」
「男にもよるじゃろ? それに独占欲というものに男も女も関係ないぞよ。相手に惚れ抜いておればおる程、男も女も独占欲を持つ。息苦しいもんなんじゃが、男と女というものは惚れ合うていれば、それがまた嬉しいもんなんじゃなあ。相手がこれだけ自分のことを愛しいと想うていてくれると感じることができるからの…」
「それじゃあ、おじいちゃんはどうなんどすか? 好きな女子に昔があったら…」
「巡り逢った時にすでにその女に昔があったのなら、とやかく云うのは野暮じゃな。巡り逢うてから何か事が起こったのなら、救ってやらねばならぬ。何事にもこだわるのは男の屑! 何もかも、すべてをひっくるめて愛おしんでやるのが本当の男じゃとわしは思う」
「はあ! やっぱりうちの目は狂うとったんやなあ。あないな男にひっかかって! 阿呆やったわぁ。でも、おじいちゃんみたいなお人はなかなかおらんよ!」
「そうかね? しかしわしもこの心に達するまでにはなかなかに時間がかかったぞよ。若い頃からこのような気持ちでおったなら、人生がもっと違っていたような気がする。まあ、大抵の男が、わしみたいに壮年を過ぎてから後悔しつつ、老域に達するんじゃろうなあ」

 若い頃はさぞ美丈夫であったろう老人の横顔に、寂しげな色が浮かんだ。

「……」
「わしの親友に凄い男がおる。若い頃から出来た男じゃった。わしは太刀打ち出来んかった」
「へえ? どんな人?」

 老人の視線が遠いものになった。

「もう、五十年近く昔の話になるのじゃが…。ある所に三人の剣士がいた。三人は幼なじみだった。十八歳の時、三人は同時に一人の美貌の娘に惚れた。娘は道場の近くに住む同心の娘で、錦絵にもなったことのある評判の美人だった。その娘は三人の中の一人に想いを寄せ、二人は夫婦約束をした。残りの二人は悔しがり乍らも祝福した。ある日、侍の風上にも置けぬ遊冶郎どもがその娘に無体を働き、その娘は誰の胤とも判らぬ子を孕んだ…」
「まあ…。それで?」

 女の眉が気の毒そうに顰む。
 尚隆も黙って聞いていた。

「夫婦約束をしていた男は、惚れていた娘が身体を汚されたと知ると罵りの言葉を吐いて、いずこともなく姿を消した」
「まあ! なんてひどい男なんやろう! その男は娘さんとはもう契っていたんやないんですか?」

 老人は頷いた。

「その娘は、三度も死のうとした。一度目は犯された直後、二度目は男に捨てられ、去られた時。三度目は子を孕んでいると知った時。娘に惚れていた残りの二人の内、一人は娘をむごい目に合わせた者共を見つけだし、斬り殺してそのまま流浪の剣士となった。最後の剣士は娘に生きる希望を与え、腹の子の父親には自分がなると云って夫婦になった。幸か不幸かその子は流れてしもうたのじゃがな…」
「じゃあ、その最後の剣士ってお人が?」
「そう、わしの親友じゃよ。生真面目な、優しい男でな。金持ちではなかったが夫婦になってからは娘は幸せそのもののようじゃった。子供も二人恵まれてな…」
「そうなんどすか…。そら良かった」
「じゃが、己が産んだ可愛い娘の嫁ぐ姿も見ずに、若くして逝ってしもうた」
「まあ…」
「わしの親友の凄い所はそれからじゃよ。女房一筋を想い続け、後添いも貰わずに子供や孫を育てて、この歳に至りよった」
「……」

 老人は静かに茶を喫し、考え込んでいる表情の女を見て微笑んだ。

「これは…、暗い話になってしもうたかな?」
「いいえ。とってもいい話を聞かせてもろうて、うち、感動してますねん」
「そうか。まっ、世の中には色々な男がおる。くよくよすまいぞ」
「へえ、おおきに」
「じゃが、お前さんも妻となったからには、浮気はいかぬ」
「へえ、そんなこと判っとります。その点はうちも悪かった!」
「はっははは。判っておれば宜しい」
「ほんならうち、もう行きますわ」

 笑い乍ら、女は立ち上がった。

「ここで別れるかね?」
「ご新造さん、お出迎えに来られるんでっしゃろ? うちがおって変に誤解されると困りますやん」
「はははっ。うちの奴はそんなことに気を廻す女子ではないぞよ」
「でもやっぱり…」
「そうかえ、それじゃあな。なにか困ったことがあったら、さっき教えた所を尋ねなさい。力になるよ」
「おおきに。うち、御恩は一生忘れまへん! ほな、さいなら!」

 女は草鞋の紐を締め、何度もお辞儀をして店を出、雑踏の中を立ち去っていった。
 尚隆はまちかねていたかのように、仕切りの衝立をどけ、隣の座敷に声をかけた。

「ご老体…、不躾だが暫時、宜しいか?」

 不意に声をかけられ、いぶかしげに顔をあげた老人は尚隆の秀麗な美丈夫ぶりに感嘆の声をあげた。

「? これはこれは! 錦絵から出て来られたような男ぶりじゃな」

 尚隆は刀を置き、老人の前に座り、礼儀正しくお辞儀をした。

「酒はお嗜みになられますかな?」
「無論じゃ」
「では…」
 
 尚隆は、小女に上等の酒を注文した。

「さて、わしになにか御用ですかな? お若い方」
「卒爾乍ら今一度、先程のお言葉を伺いたい」
「はて? 何じゃったろうかな?」
「巡り逢った時に、すでに女に昔があったとき…、と仰しゃられた」
「ほほう、聞いておられたのか?」

 老人がふっと微笑んだ時、小女が酒を運んで来た。
 尚隆がまず、老人の盃に獻じた。
 老人は受け乍ら尚隆の面を鋭く見つめ、尋ねた。

「お手前、お幾つじゃな?」
「はあ、二十七歳になります」
「好きな女子は吉原かね? それとも…」
「いいえ。昔に商売がからんでいるのなら、納得ずくではないでしょうか?」
「おお、それは然りじゃ。わしとした事が…。では?」
「……」

 老人が注いでくれた酒を、尚隆は一息に呑み干し、足を崩して胡座を組んだ。
 その素振りに、老人は溢れんばかりの若さを見いだして微笑んだ。

「まあ、よいわな。だいぶんにその女子を好いてはおられるようじゃが、迷いが生じるということは、まだまだ想いが足らぬということじゃな」
「想いが足らぬ?」

 尚隆は老人を見つめた。

「ひらたく云おうかな? 惚れた相手が処女でなかったから腹が立つと云うのであれば、女にも怒られるぞ。では貴方は初めてなのか、とな」
「……」

 視線を逸らした尚隆に、老人はにっと笑った。
 優しい微笑みであった。

「いくつになっても男は子供でな。仕方のない事なのじゃが、やはりこだわる事は男の屑じゃな。惚れた女子の昔をいじくってどうなされる? 悩んでも過去は変えらませんぞ」
「……」
「憚り乍ら、お手前よりもご当人の方がもっともっと悩み苦しんでいる筈であろう。想う男にそのような態度をとられれば尚の事じゃな。それに比べれば、お手前の悩みなど塵も同然」

 ぴしりと響く声であった。

「本当にその女子を愛しいと想うのならば、その悩み苦しみから無償の想いで救ってやり、二度と悩み苦しませぬように、守ってやることが本当の男のするではないのかな?」
「無償の想い…」
「そう。無償の愛じゃ!」
「…。先程のお話の、最後の剣士のように?」

 尚隆は老人をひたと見据えた。

「然様…」
「ご老体は如何なのでござる? そう出来なかったのでござろう?」
「…。そうじゃ」
「三人の内、貴方は惚れた娘を犯した男たちを斬って、放浪生活に入った剣士なのではござらぬか?」

 老人は瞬時、尚隆を鋭く見つめたが、やがて酒を口に含むと静かに語り出した。

「わしには、娘を罵り去った男のことは面罵できぬ。犯された娘のことが可哀想で愛しくてならないと想う一方、身体が凌辱された女と見下すこと、汚らわしいという思いが否めなかった。わしたちは、その娘が犯されている光景を見た」
「……」
「娘は既に、夫婦約束をしていた剣士により男女の契りを知っておった。その喜びをな。犯され乍ら、娘は声をあげておった…。それは哀しい悲鳴ではなかった」

 尚隆の眼が哀しい色を帯びた。

「何故に、そうなる前に舌を噛み切ってでも操を守ってくれなかったのか。女とは不可解な生き物よ。そのもやもやした思いは例えようもないものじゃ。男にしか解らんものじゃな」

 尚隆は無言で頷き、老人に酌をした。

「わしの怒りは、相手の男どもに向けられた。わしらは皆、顔見知りじゃったでな。三人を惨殺して、わしはそのまま旅に出た…。二十五年の後、京に腰を落ち着けたわしは、江戸の親友から便りを受け取った。女房が病で余命いくばくもないとの事じゃった。わしは二十五年ぶりに江戸の土を踏んだ。しかし、間に合わなかった…」
「……」

 老人はぐいと酒をあおった。

「わしの恋は終わった。そんな風に終わってしもうた。わしとその娘は一度はうまくいきかけたのじゃ。しかしわしは、若い頃から随分とひねくれておってな。本当は想っているくせに冗談めかしたり、からかったりと、娘もさぞ気を揉んでおったのであろう。云うてはなんじゃが、わしは当時、三人の内では一番の美男じゃった。十八にして散々放蕩しとったわしは、いっぱしに驕っておったのじゃ。娘の方から告白してくるの待っていてやるといった態度でな。気がつけば、娘は他の男のものになっとった。どうしてもっと、ちゃんと繋ぎとめておかなかったのであろうと後になって後悔し続けた。生涯の悔いじゃな…」
「……」
「しかし、この世の中に悔いを持たぬ人間など凡そ居ないじゃろう。この歳になってからじゃな。そういう風に達観出来たは…。ふっほほほほ!」

 老人は明るく笑い、尚隆を見た。

「お手前もわしと同じような気質らしいの。散々遊んで今まで自分から女子に言い寄った事などないんじゃろう? まあ、その男ぶりじゃ。引く手あまたであることはまず間違いないわいな。ようは恐れておいでなのじゃ。己の想いを告白して拒否されることをな。どうじゃな? まだ相思の仲ではないんじゃろう?」

 話が突然に自分に振られたので、尚隆は視線を逸らした。
 老人は面白そうにその様子を見つめた。

「そのようではまだまだじゃな。格好ばかりでは真に女子を愛しむ心は解らぬ。無様な姿も時には大切なことなのだとわしは思うがのう。これはわしの経験からの話じゃぞ?!」
「しかし…、相手の女がある男の身代わりとしてしか、それがしの事を見ていない場合はどうなるのでござろう?」
「ある男の身代わり?」

 尚隆は盃を満たし、一気に呑み干した。
 心の中のやりきれなさが、込み上げてきたような表情であった。

「然様。死んだ昔の許婚者にどことなく似ているのだそうで、某の上にその男の面影を追っているのです…」

 老人の双眸が鋭く光り、考え込む表情のまま尚隆の顔をしげしげと眺め始めた。
 尚隆は訝しげに、その不躾とも思える視線を受け止めた。
 やがて老人は、納得がいったように低く呟いた。

「ふむ! 似るには…、似ておるかな?」

 尚隆は、その呟きを聞き逃さなかった。

「どういうことでござる? それがしが一体…」
「まあ、よいわな。こっちの話じゃ。それで、お手前はそのことを相手に確かめたのかな?」
「いいえ。しかし、眼の色や表情を見ていれば解ります」

 老人は悪戯っぽく眼を細めた。

「これはこれは! 然様か。じゃが、それもお手前の捕らわれ過ぎではないかとわしは見るがのう」
「……」
「相手の総てを手に入れようなどという事は考えぬ事じゃ。女子は不可解な生き物、そのような手前勝手なことをしようものなら、たちまちの内に噛みつかれようぞ!」
「……」
「面影を重ねられて不服なら、それを取り除く努力をすればよい。いつか己自身を慕うてもらえるように己を磨く。本当に惚れているのであればな。愚痴をこぼしている内はその女子は手に入らぬな。手に入れた女子は手入れを怠らず、美しく育ててやる。花開かせ、実を育て熟させて枯らさぬ。これぞ男子の本懐。ふおっほほほ! これはこれは! ふおっほほほ!」

 老人の胸に一物ありげな含み笑いに、唖然としたままの尚隆がむっとしていると「旦那様、お久しゅうございます! お逢いしとうございました!」と美しい声が響いた。

「おお、相変わらず奇麗じゃな! 待っておったぞ!」

 尚隆が振り返ると、めかし込んだ『かわせみ』の女将おふくの、艶冶な姿があった。

「おふく!」
「まあ、若様じゃござんせんか! どうしてうちの旦那様と?」
「旦那様?」

 尚隆はいぶかしそうに、老人とおふくを交互に見た。

「ほい! やはり知り合いじゃったか!」

 老人は優しく微笑んで、眼を丸めて吃驚し合っている尚隆とおふくを見比べるや嬉しそうに云った。

「初めてお目にかかりますな。小松尚隆殿」
「なっ? 何故、それがしの名を!」

 驚いている尚隆に、おふくがおずおずと云った。

「若様、この方は島田慶一郎様と仰しゃいまして、秋山の大先生の御親友で、美凰お嬢様にとっては大恩ある方なんです」
「なにっ?」

 尚隆の眼が、驚愕に見開かれた。

「お嬢様は、京での四年間をこの方の元でお過ごしになられました」
「島田慶一郎です」

 島田はにこりと微笑んで、尚隆に頭を下げた。

「はっ、失礼致しました。小松…、尚隆でござる」

 尚隆は急いで座り直し、頭を下げた。

「まま、そう固くならずに、顔をあげなされ」
「はっ…」

 尚隆は云われた通りに顔をあげ、島田を見つめた。
 島田はまじまじと尚隆を見つめていたが、やがて隣に立ったまま控えているおふくに向かって頷いた。

「ふむ、よいわえ! おふく。そなたが便りにあった通りお人のようじゃな…」
「旦那様のおめがねにも適いましたかしら?」
「ふむ、容姿はの。気質は…、先程から話をしておったのじゃが…」

 ふいに島田は、思い出したようにくつくつと笑った。

「わしに似ておるかなあ…。まあよいわえ」

 二人の様子に、尚隆は些かむっとした表情になった。
 その尚隆におふくは敏感に気づき、急いで話題を変えた。

「若様、出過ぎた真似をするとお思いんなるでしょうけれど、憚り乍らあたしがお文で若様のことをお知らせしたんです。旦那様にとって美凰お嬢様は命にも代え難い、大切な大切な方なんです。その方のこととなれば秋山の大先生もですが、まずは旦那様にお知らせをと…、つい…」
「おふく。先程から旦那様、旦那様と申しておるが?」

 尚隆のいぶかしげな問いかけに、おふくは小娘のように頬を赤らめた。

「芸者をしていた若い頃、どうしょうもないやくざ者にひっかかって、難儀をしていた時に助けて頂いたんです。それ以来…、押しかけ女房なんです。もっとも、旦那様が江戸にいらっしゃる間だけのなんですけれども…」

 尚隆は瞠目した。
 姥桜とはいえ、おふくは四十半ば程の、いや、その年齢にさえ見えぬ艶冶な色香に満ち溢れている。 
 一方、若々しく見えるとはいえ島田は老齢で、先程からの話から数えても七十近い筈であった。

「しかし歳が…」

 うっかり本音を口にした尚隆は、おふくに笑い飛ばされてしまった。

「あらっ! 色恋に歳なんて関係ござんせんよ! 二十三程の歳の差なんて、ちっとも気にしてやしません。旦那様ときたら、あっちの方だってまだまだ!」
「これこれよさぬか。小松殿が面食らっておられるぞ!」

 島田が鷹揚に笑い、おふくは口に手をあてて羞かしそうに微笑んだ。

「あら、ごめんなさい。それにしましても、どうして旦那様と若様が?」
「わしが連れの女子と別れた後に、隣の座敷から顔を出されてな」
「連れの女子でございますって?」

 微笑んでいたおふくの柳眉が、いきなりきっと逆立った。

「これ、変な勘ぐりを致すな。お玉と申してな、まだ十八歳の娘じゃ」
「十八ならば立派な女です。あなた! その小娘、どこにお隠しになられましたの!」
「おい、おふく…、落ち着けよ!」

 尚隆もおふくの変貌ぶりに苦笑し乍ら、宥めようとした。
 しかしおふくは、島田に武者振りついて喚き始めた。

「誤解致すなと申しておるに。小松殿も笑っておられるぞよ…」
「えーえ! 笑われたって結構でござんすよ! あなた、浮気なすったんですか? えっ? どうなんです!」

 島田はからからと笑い、おふくの手を取って優しく撫でた。

「莫迦者。実を云うとな、京を出る前に室町の桔梗屋の主から娘を一緒に江戸まで連れていってくれと頼まれて同道したのじゃ」

 泣きそうな表情だったおふくは、はっと顔をあげた。

「! まあ、桔梗屋さんってあの?」
「そうじゃ。この間の文に書いたあれじゃ。婿養子が初夜の契りに花嫁が未通娘でなかった、騙されたと愚痴ったが為に、娘は怒って歌舞伎役者と浮気をしてその婿を追い出してしもうたというあの桔梗屋の娘、お玉じゃ」
「まあ、それで何のために江戸へ?」
「何のためって、そりゃあほとぼりが冷めるまでということじゃろ。室町では噂話でもちきりでな、わしの住んどる山科まで聞こえて来る程じゃて」
「まあ、お気の毒に…」

 今まで怒っていたおふくは、うってかわってそのお玉とやらいう娘に同情を寄せて眉を顰めている。
 尚隆はなかば呆気にとられ、しかし面白そうに二人のやりとりを見ていた。

「道中、よくよく話を聞けば、お玉は行儀見習いで武家奉公をしておったのじゃが、そこの若侍に手をつけられたそうでな。本人もまあ憎からず想うて操を許したそうなのじゃが、如何せん、相手は国元に妻がおってな…」
「まあ! 騙されたんですね?」
「然様。大阪勤めを終えるやさっさと国元に帰国してしまったそうじゃ。それからは、やけっぱちになって親の勧める養子を取り、とんでもない騒ぎになってしもうた、とまあこんな筋書きじゃな」

 おふくは溜息をついた。

「いつでも、泣かされるのは女なんですよねえ。世の中、悪い男ばっかり! でも、あたしは素晴らしい旦那様に巡り逢えたから、幸せ!」
「これ、いい加減にせぬか。小松殿が眼のやり場に困っておられる」
「あらっ! すみません。若様…」

 おふくは羞かしそうに島田から離れ、座り直して髪に手をやった。

「いやいや。どうも、みせつけられ申した。御馳走様でござるな、島田先生」

 尚隆は苦笑したまま、羨ましそうに島田を見た。
 その視線を受けとめた島田は、おふくの耳元に何事か囁き、おふくは頷いた。

「若様、旦那様は昼食がまだだそうですの。よかったら、奥の静かなお座敷でご一緒にと、仰しゃられているのですが…、如何でございます?」
「はあ、それがしは構いませんが、連れの娘たちが…」
「娘さん? お連れがいらっしゃったんでござんすか? しかも、娘さんとは…」

 おふくの柳眉が再び上がったので、尚隆は狼狽した。

「おいおい! 俺のことまで変に勘ぐるなよ。美凰…、殿の妹の文世殿とその友人の娘、それに俺が厄介になっている明神下の辰五郎の娘だ」

 慌てておふくに告げる尚隆の姿が面白かったのであろう。 
 島田は顎を撫でつつにやにやと笑っている。

「まあ! 八丁堀小町に神田小町を連れ立ってとは、両手に花で宜しいじゃござんせんか! もうお一方は?」
「だから、京から来た…、あっ、島田先生はご存じではござるまいか? 琴路という名の娘御でござるが…」
「なんじゃ、お琴かえ。あれはわしの孫のようなものじゃ。ふうむ、ますますもって奇遇じゃな。で、お琴たちは今どこに?」
「はあ、軽業を見物にいって、その後は出店などを見ているかと…」
「縁日に一緒に来てほったらかしでござんすか?」

 尚隆はうんざりしたような表情になった。

「三人よれば姦しくて、俺にはついてゆけん!」
「とかなんとか仰しゃって、美凰お嬢様のことでも考えていらしたんでござんしょう? あれからどうなさっておいでだったんです? お富さんから聞いたんですけど、お嬢様の元にお顔を出されていらっしゃらないそうじゃありませんか!」
「……」
「若様!」

 うるさく干渉してくるおふくがうっとおしく、尚隆はぷいと横を向いた。

「今日、辰五郎の家に挨拶に参った。五、六日前に床上げをしたと聞いたから、この前のことの礼に来たのだと思う…」
「それで?」
「その後、琴路殿の兄の戸田隼人殿と二人で舟に乗って深川に鰻を食いにでかけた。その後は知らぬ!」

 二人は呆気にとられて、そっぽを向いている尚隆を見つめた。

「これは、なんとまあ! ふおっほほほほ!」

 島田は豪快に笑い、おふくはそんな島田を含み笑いつつ窘めた。

「まあ、旦那様! そんな笑い方、失礼ですよ!」
「いやはや、これは! いや…、すまぬすまぬ! おお、面白い御仁じゃ! ふほほほ! 気に入ったぞよ! おふく…、わしは腹が減った。奥へ参ろう。小松殿もついてきなされ。おふく、お琴たちが戻って参ったら、奥に知らせるように言付けをな。ふおっほほほほ!」

 尚隆はその笑いに向かっ腹が立ったが、それでも素直に島田の後に続いた。

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