すれ違う心 3
 六月も終わりに近づき、うっとおしい梅雨も明けかけていた。
 日の光りを見ることが殆どなく、毎日がどんよりとした空模様はそろそろ太陽の眩しい青空の日々になろうとしていた。
 しかし美凰の心は、梅雨の空と同じように暗く重く塞がったままであった。



 今、白魚のような指は一心に仕立物を縫い上げる為に動いていた。
 過日の事件のため、台なしにしてしまった尚隆の羽織を仕立てている最中なのである。
 あれから半月ばかり、寝たり起きたりの生活をしていた美凰であったが五日程前から床上げをし、一昨日まで世話になった人々や、見舞いを貰った人々へ挨拶廻りをしていたのである。

「一番に小松の若様の所へご挨拶に行かねば!」

 お富はしきりに大騒ぎをしていたが、美凰は頑なに云い張った。

「お羽織を弁償しなければならないから、縫い上げたらご挨拶に参ります」
「それとこれとは別じゃありませんか。そんな礼儀知らずにお嬢様をお育てした覚えはござんせんよ!」

 金切り声で詰るお富たちを無視し、美凰は決して挨拶に行こうとはしなかった。
 お富と嘉助は事件の後に打ち揃って御礼言上に尚隆を訪ない、美凰には体調が良くなってから改めて御礼に伺わせるからと頭を下げて帰って来たのである。
 尚隆は相変わらず屋敷ではなく、明神下の辰五郎の離れで起居しているとの事であった。



 美凰は息をついて手を休め、つと立ち上がって障子を開けた。
 外はまた細々とした雨になり、紫陽花が露を含んでしっとりと美しかった。
 ぼんやりと紫陽花を見つめ乍ら美凰は一刻たりとも頭から離れぬ尚隆のことを改めて思い起こし、溜息をついた。
 過日の事件以来、尚隆とは一度も逢っていなかったのである。
 あれだけ足繁くやって来ていたというのに、事件を境に尚隆はふっつりと美凰の家へ現れなくなった。
 あの夜『かわせみ』に落ち着いてからのことは、すっかり気が動転していて、何をどう云われ、何をどう云ったのか殆ど覚えていなかった。
 ただはっきりと覚えているのは尚隆に看病されている間に水を求め、唇を重ねた事。
 ただ吸われただけではない。自分も求めるように男の唇を吸った。
 その後、暫く温かい腕に包まれていたような心地だったのに、はっと気づくと、怒った顔で睨らんでいる尚隆と、胸をはだけた半裸の姿でいる自分が惨めにいた。

『思い違いをするなよ! 俺はそなたのような女を抱く気はせぬ。何かされたと思ったら、大した自惚れだ!』

 そう言い捨てられ、高笑いの中を立ち去られた時は呆然としていただけだった。
 涙はその後にやって来た。
 羞恥のあまり、死んでしまいたい程であった。
 仄かな明かりの下で、寝間着を着替えるためにのろのろと裸になった時、改めて見た自分の身体は我ながら花が咲いたようになまめかしく、どこもかもが熟れきっていると思った。

〔あの御方に抱かれて、この肌は歓喜に燃えようとしていた…〕

 尚隆に抱かれたいと思っていた。この身体を尚隆に愛されたいと…。
 そんな自分がおぞましかった。惨めで汚らしかった。
 女を知り尽くしている男のことだから、尚隆の眼にもきっとそんな風に写ったことであろう。
 それが堪らなく情けなかった。

〔恐ろしい! 感情よりも身体が堪えられないなんて…。わたくしの身体は、女の身体とはなんと恐ろしい、淫らなものなのだろう。わたくしだけは違うと思っていたのに…〕

 美凰は両腕で、我が身をかき抱いた。

〔でも、これが他の人だったらどうなのだろう?〕

 胸がどきんと鳴った。
 その先は考えてはいけないような気がするから、いつもここで思考はとまってしまうのである。

〔尚隆さまはわたくしを蔑んでおられる…。考えても仕方のないことだわ。それよりも、わたくしは未だにわたくしを付け狙っているらしいあの男のことを考えなくては!〕

 偽りの手紙で美凰をおびき寄せ、無体を遂げようとした黒頭巾の男は七年前のあの男に間違いはなかった。
 あまつさえ、その言動から大介を殺害した下手人と同一人物である可能性も濃いのだ。
 あの事件は、密かに周平が探索を続けていたがなんら進展は見られなかった。
 その上にあの日、美凰は興奮して前後不覚となった周平に抱き締められ、求婚されたのである。

『もう二度とこんな思いをしたくない! 美凰さん、俺と夫婦になってくれ』
『周平さん、それは…』
『ずっと俺が守る! 頼む、諾と云ってくれ!』
『……』

 周平は真剣そのものであった。
 そしてその場では何とも云えず、美凰はまだ返事をしていなかった。

〔ひとりぼっちでは、女は生きてゆけないのだろうか? 周平さんと一緒になればいいのかしら? 周平さんなら、大介様もお許し下さる?〕

 美凰は静かに首を振って、溜息をついた。

 そして障子を閉め、元の場所に座ると黙々と続きを縫い始めた。





 それから一刻後…。
 ふいに廊下からお富のはしゃぎ声が響き渡った。

「お嬢様! お嬢様!」
「なんです、ばあや。騒々しい!」

 お富が障子を開け、ばたばたと居間に入ってきた。

「これが騒がずにおられますか! お嬢様、お客様ですよ! 懐かしい御方! 誰だと思います?」
「? どなたなの?」
「いいから、母屋においでんなって!」

 美凰は、お富に引っ立てられるように母屋へ連れていかれた。
 居間には、若い二人連れの男女が旅装のままで座っていた。

「美凰殿! お久しゅうござる…」
「お姉様! お逢いしとうございました!」

 訝しそうに瞬時、若い二人を見つめていた美凰であったが、その顔は忽ちの内に嬉しげに綻ばせた。

「あっ! まあっ! 隼人さん! それに琴路さん!」

 この男女は戸田隼人、琴路と云い、京に住まう美凰の恩人にして第二の祖父とも慕う島田慶一郎の知人の子供であった。
 幼い頃に両親を無くし、孤児になってしまった二人を妻子がいない乍らも島田は、親代わりとして養育し、実質上の子供も同然なのである。
 美凰は四年近くこの兄妹と生活を共にし、本当の弟妹のように可愛がっていた。
 この兄妹の優しさ、明るさはいつも傷心の美凰を慰めてくれたものであった。

「いつ? いつ江戸へいらしたのです?」
「昼に着いたばかりです! 姉上に一番にお逢いしたくて…」

 隼人が、惚けたように美凰を見つめた。

「まあ、そうですの! なんてお懐かしい…。それに、お二人ともこんなに大きくなられて! もう三年もたつのですものね。琴路さんはすっかりお美しくなられて!」

 琴路は羞かみ乍ら、兄の背中に隠れた。その仕草はもうすっかり娘であった。
 別れた時には、確か十七歳と十三歳だったから、今年で二十歳と十六歳の筈である。
 子供の頃からの整った顔立ちはそのままに、隼人は白皙の美青年に、琴路はうりざね顔の京風の美貌に成長させていた。

「ねっ! お嬢様、お驚きなすったでござんしょう?」

 茶菓の支度をし乍ら、お富が美凰にそっと囁いた。

「ええ、本当に…。遠い所からよくまあ!」

 美凰はくすりと微笑んだ。
 三年前に別れた時は、まだ子供だった二人が立派に成人している姿に、重苦しかった心が少し晴れたような気がした。
 そこへ嘉助がやって来た。

「お富、支度が出来たぜ。坊ちゃまと嬢ちゃまにおすすめしな!」
「あいよ! まあまあ、積もるお話はともかくお二人ともお疲れでしょう? お風呂の用意が出来ましたから、旅の垢をお落としなさいましな!」
「まあ、流石はじいやとばあや! そうね、そうなさいな!」
「いや、それがしは秋山の大先生に島田先生からの書状をお届けしなければなりません。ここにはまず、顔見世だけに参上したのですから…」
「なに堅っ苦しいこと云ってんですよ。坊ちゃま。いいじゃありませんか、赤の他人じゃなし。今日はゆっくりして、身奇麗になすってから明日にでも大先生の所へ伺えば宜しいじゃござんせんか。お舟の手配をしておきますよ」
「そうですよ。ゆっくりできるのでしょう? 江戸見物をしてお行きなさい。わたくしの家を宿とすれば宜しいではありませぬか。琴路さんだってすっかりお疲れのようだし。泊まってくださればわたくしも嬉しいわ。腕をふるって御馳走致します」

 兄妹は顔を見合わせ、やがて嬉しそうに頷いた。そんな所はまだ子供のようであった。

「…。ではお言葉に甘えて」





 その夜は、久しぶりに明るい団欒の一刻が持てた。
 隼人は島田の道場で免許を取り、一年前から島田の知人で、天子の血筋にあたる有栖川宮に召し抱えられ、妹共々宮家で住んでいるということであった。
 美凰は眩しそうに眼を細めて、二人を見つめた。

「本当にお懐かしいわ。皆様、お元気でいらっしゃるの?」
「はい」
「そう…。良かった」
「唯…」
「唯?」
「先生が…」
「おじい様が? 島田のおじい様がどうあそばしました?」
「特にどこといってお悪いわけではないのですが、自分も歳をとったなどと呟かれることが多くなりました」
「まあ!」

 美凰は眉を顰めた。

〔いつも明るく快活で、そのような言葉を口にするような方ではないのに…〕

 便りは欠かさず交わしあっているものの、島田慶一郎にも江戸へ戻って以来、逢っていない。
 考えてみると、島田も六十を過ぎた老体であった。
 祖父源兵衛のように、妻子を愛し、一所に定着する生き方とは対照的に、妻子も持たずに飄々とし、自由気ままに過す生きざま。
 人生の終わりが見え始めて、その一生を満足に思っているのであろうか?
 美凰は不安気に溜息をついた。
 暗い雰囲気をなんとかしようと思ったのであろう。琴路が殊更明るい声で話を変えた。

「琴路、嬉しゅうございます。お姉様がとてもお元気そうで…」
「わたくしもよ」
「それに凄くお美しくおなり。京にいらっしゃった時も吃驚するくらいお奇麗だったけれど、三年ぶりにお目にかかった今はもっと!」

 琴路は、憧れ露わな眼差しで美凰を見つめた。

「まあ、なにを云うの。琴路さんたら、すっかりおばさんのわたくしを捕まえて…」
「いいえ! おばさんだなんて…。なんて云うか、京にいらっしった頃はお雛様のようで…、でも今は、生き生きとなさってますわ。あっ! もしや、どなたかお好きな殿方がいらっしゃるとか?」
「琴路!」

 隼人が低く叱咤した。

「まあ、そんな風に見えます?」
 琴路の鋭さに美凰は内心どきりとしたものの、わざと笑顔を作り、笑い出した。

「兄様がすごく心配していたんですのよ! 美凰お姉様に、もしや旦那様がいらっしゃったらどうしようって!」
「よせっ!」
「まあ、ほほほっ。残念乍らわたくしにはそんな方はいらっしゃらなくてよ」

 琴路は眼を丸くして、悪戯っぽく隼人を見た。

「宜しゅうございましたわね、兄様! お姉様がお独り身で。美凰お姉様は、兄様の憧れですものね!」
「こいつ、からかいやがって! ぶつぞ!」
「怖ーいっ! お姉様、助けて!」

 琴路は、きゃあきゃあ騒いで美凰の後ろに隠れた。

「ふふっ、存じませんよ。お琴さんがいけないんですからね。それにしても、わたくしの方こそ吃驚します。貴方がお酒を召し上がれるようになられたなんてね、隼人さん」

 美凰は、真っ赤になったままの隼人に酌をしてやった。
 別れた頃は酒など呑めなかったのに、すっかり一人前で、酒も強く煙草も吸うようであった。

「わたしだって、もう子供ではありません! そんな風に子供扱いしないで下さい!」

 隼人は照れたように、盃を少し含んでから美凰をそっと盗み視た。





 隼人は七年前、十三歳の少年の日に初めて出逢った時から、美凰に憧れ、共に過ごす内に美凰に仄かな恋心を抱くようになっていった。
 三年前に別れても、その気持ちは温め続け、恋情は本物になっていたのである。
 出逢った頃の美凰は魂のない、ただ美しいだけの人形のような女だった。
 師の島田老は、江戸でとてつもなく哀しい憂き目にあった娘だから、優しく接してやるように、明るく気持ちを引き立ててやるように、そして時には、あまり騒がしくせずにそっとしておいておやりと、繰り返しそう命じられただけだった。
 共に暮らす四年の内に、その女は少しずつ生きることに慣れ始めたようだった。
 死んだようにうつろだった表情にも、微笑みが浮かんだ。
 それでも、寂しく疲れたような雰囲気は否めなかったのだが。
 それがどうだろう。
 妹の云う通り、今いま目の前に居る美凰の雰囲気は某かの悩みはありそうだが、とにかく活きていた。 
 活きた、なまめかしい美しさがあった。
 眼前の美凰を見つめ、こみあげてくる想いに、隼人は生唾を嚥んだ。





 三日後。
 美凰の家には、早朝から髪結いが来ていた。
 隼人は泊まった翌朝に秋山道場へ向かい、そのまま帰ってこなかった。
 男同士のこと、きっと話が弾んで泊まって行けということになったのであろう。
 その間、手持ち無沙汰のようにしていた琴路を連れ、美凰は八丁堀の実家に顔を出した。
 年の同じ文世に、琴路と仲良くしてもらおうと思ってのことであった。
 幸い娘二人はすぐに意気投合し、早速明日、浅草寺の縁日に行く約束をしたとかで、美凰が髪結いを呼び寄せ、支度をさせていたのである。
 琴路が髪を結い終えると、美凰は離れの自分の居間で娘らしい派手やかな色柄の夏物の単を三枚ばかり広げて琴路に見せた。

「わたくしの娘時分のもので、袖を通していないものなの。良かったら着てくださるかしら?」 
「まあっ! 奇麗! 宜しいんですの? お姉様。文世様だって欲しがられますわ、きっと!」

 美凰は頸を振って笑った。

「わたくしはもう着ることがないのですもの。文世にも沢山あげてますからこれは貴女に。お気に召さなかったら……」
「とんでもない! 嬉しい! 有り難うございます、お姉様!」
「良かった。じゃ、今日お召しになる分を選んで…、残りも。そうそう、それに合わせて帯も差し上げるわ。荷物になるでしょうけど力持ちのお兄さまがいらっしゃるから大丈夫ね。襦袢は…、そうねえ、生地だけ用意しますから、それはご自分でお縫いなさい。今の内にお稽古しておかなくてはね!」
「まあ、お姉様ったら、羞かしい! あっ! わたくし、これがいい!」

 琴路が選び出したのは、薄い朱色に桐の花葉をあしらった上品な中振袖であった。

「まあ! 貴女によくお似合いの色だわ。それになさいな。そうね、長襦袢と帯は…」

 美凰はいそいそと寝間に入って箪笥を開け、ごそごそと捜し回っていたが、やがて帯と長襦袢を手に戻ってきた。

「これこれ…。どうかしら?」

 白衿部分に青海波の浮紋が入った緋と朱の流水ぼかし染めの長襦袢と、白地に有職鳳凰が織り込んである緞子の帯であった。

「お若いから帯も華やかなものがいいんでしょうけど、かえって暑苦しくなってしまうでしょう?」
「素敵! これに致します! 早速、着替えさせて頂きますわ!」
「お富に帯を締めてお貰いなさい。上手なのよ。もう髪結いも終わっている頃でしょう」
「はいっ!」
「お使いだてて申し訳ないのだけれど、髪結いさんに、終わったら離れにお越し頂きたいとお伝えしてくださる?」
「なんでもありませんわ、そんな事。ねえ、やっぱりお姉様も参りましょうよ!」
「わたくしは他に用事がありますから、今日は駄目。そうね…、明日か明後日にでも何か美味しいものでも食べに参りましょうか? 京にくらべればあまり洗練されていない朴訥な味のものが多いでしょうけど…」
「いいえ、楽しみですわ。それじゃ…」
「あっ、それから…」

 美凰は帯の間から紙入れを取り出し、一朱銀を出して琴路に握らせた。

「おこずかい。文世とお汁粉でも頂いていらっしゃい」
「こんなに! 宜しいんですの?」
「むやみに使うのではありませんよ。万一の時に貴女が恥を欠かないようにね。本当に欲しいと思うものをお買いなさい」
「はい。有り難うございます。お姉様…。それじゃ!」

 琴路は、いそいそと母屋に走って行った。

 残りの着物を簡単にまとめ、寝間に片付けると、美凰は昨日、寝ずに仕立て上げた白地の薩摩絣の単を乱箱の中から取り出し、暫くじっと見つめていたが、やがて三日前に縫い上げた羽織を包んでいた風呂敷を広げて中に一緒に包んだ。
 それから鏡の蓋を開けると引き出しから化粧道具を取り出して、念入りに化粧にとりかかった。
 着物も着替えるつもりで、昨日の内に選びだしている。
 化粧をして装わねば、尚隆に逢う勇気がなかった。

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