真実 6
「リンダ…」
「まったくもう! いつまで待たされなきゃならないの? こっちはスケジュールの調整が大変なんだから、さっさと用件を済ませて帰りたいのよ! 痴話喧嘩は後で存分にやって頂戴な!」

 比類なき完璧な容姿を誇る金髪の美女は遠慮なくつかつかと室内に入ってくると、呆然としている尚隆と美凰を尻目に豪華なソファーへ優雅に腰を下ろした。
 羞恥に真っ赤になった状態で、はだけかけた襟元を懸命に掻き集める美凰を庇う様に尚隆は立ち上がり、無遠慮な態度で煙草に火をつけたリンダを睨みつけた。

「なんで君がここに居るっ! 一体何しに来たんだっ!」

 リンダは細身のメンソールをくゆらせながらそっけなく肩を竦めた。

「何しにとはご挨拶ね。…、とにかく10分あげるから早くまともな格好になってきてくれない? そんな姿じゃ話も出来ないわ。…、お嬢さん…、貴女もよ?」

 さらりと声をかけられた美凰は、微かに喉を鳴らした。

「貴女には、そうね…。10分とは言わずもう少し時間をあげてもいいわよ? 後釜である貴女が尚隆の元妻であるあたしと対面するのだから、もう少しましに着飾りたいのが女心ってものじゃなくって?」
「……」

 完璧な姿のリンダと我が身を引き比べ、美凰は身も竦む思いだった。

「よせ! リンダ!」

 嘲笑とも取れる忍びやかな含み笑いに尚隆は歯軋りをし、俯いたままの美凰は顔面蒼白になってよろよろと立ち上がった。

「いい加減にしろっ! リンダ! 誰が入室を許可したのか知らんが、今すぐここから出て行ってくれ!」
「いやよっ!」

 サファイヤの双眸がきっと尚隆を睨みつけ、その強い瞳の色に彼ははっと言葉を失ってしまった。

「!」

 涙を堪えながら寝室へ向かおうとした美凰の背中に、尚隆と睨み合ったままのリンダは鋭く声をかけた。

「逃げないでよ! お嬢さんっ!」

 鋭い声音に美凰はびくりと足を止めた。

「……」
「今度逃げたら…、絶対に承知しないわ。5年前の事、ちゃんと謝りにきたんだから…」

 その言葉に、泣き濡れて冥く翳っていた黒曜石の双眸が瞬かれた。

〔謝る? 5年前のことを?〕


「とにかく、二人とも着替えてきて頂戴。眼の毒だわ…」
「……」

 リンダのうんざりした声に、美凰はそそくさと寝室へ入ると後ろ手にドアを閉めた。



「ああ、それから…。あたしをここへ案内してくれたのはあの優秀な秘書さんよ! ドアの外に待機してると思うけど?」

 尚隆は寝室に消えた美凰を見つめつつ、静かに入室してくる朱衡に頤を強張らせた。

「朱衡! お前っ!」
「申し訳ございません…。リンダ様にはもう少しお待ち戴く様にお願いしたのですが、振り切られてしまいまして…」

 主に向かって申し訳なさそうに深々と頭を下げた朱衡は、詰めていた息をほっとついてリンダを見つめた。

「リンダ様…」
「お説教は聴かないわよ! とにかく、言いたい事を言わせて貰うから!」
「……」

 リンダは煙草をふかしながら苛々した様子で声を上げた。

「それより尚隆! 早く着替えてくれない?!」
「……」
「あたしの未練を刺激するような格好は見たくないのよっ!」

 尚隆はリンダと朱衡を交互に睨みつけて舌打ちすると、自らの寝室へと立ち去った。
 その逞しい後姿をリンダは哀しげに見つめ、入れ替わりに運ばれてきた香り高いコーヒーに口をつけながら、胸の中に巣食うもやもやとした愛憎の情と無言の格闘をし続けていた…。





〔謝る? 5年前のことを? 本当に…、それだけでお見えになったの?〕

 もう身も心も疲れきってボロボロの筈なのに、美凰はバスルームで慌ててシャワーを浴びると髪に櫛を入れ、新しい下着にシンプルなセーターとプリーツスカートを身につけてから、鏡に映る強張った蒼白の頬を擦りつつ眉墨と口紅だけを刷いた。
 心のどこかで『もっと綺麗に装わなくていいの?』と囁く自分が居たが、美凰は微かに頸を振った。

〔どんなにお化粧を施しても、あの女性の美しさには敵わないもの…。尚隆さまが…、愛してご結婚なさった、あの女性には…〕

 深々と溜息をつきつつドレッサーの前から離れ、意を決して居間への扉を開けた美凰は信じられない光景を眼にした。
 尚隆とリンダがキスをしていたのだ…。
 それこそ、ゴシップ記事の正当性を主張するかの様に…。

「あっ!」

 数々の残酷な仕打ちの果てに知らされた『雪月花』の行方。
 尚隆の事など、もう愛していない。
 寧ろ悪魔の様な彼の所業を憎んでいる筈なのに、欲望を満たすだけのSEXですら身も心も蕩けてしまう自らの弱さ…。
 自己嫌悪と羞恥の思いに心が引き裂かれそうな美凰は、それでも眼の前の光景にショックを受けずにはいられなかった。
 もう二度と触れて欲しくない、そう言ったのに…。
 尚隆を愛していない筈なのに、嫉妬の心が胸を苛むのだ。

「よせ! リンダ!」

 立ち竦んでいる美凰にいち早く気づいた尚隆は、なおも迫ってくるリンダを乱暴に突き放した。
 拗れに拗れている夫婦関係に、これ以上の誤解を招きたくなかったのだ。
 尚隆の焦りをよそに、リンダはくすくす笑いながら黒いハイネックのセーターとラフなジーンズに身を包んでいる尚隆を、ためつすがめつ眺めている。

「相変わらず、素敵な唇ね?!」
「誤解を招く様なものの言い方はよせっ!」

 尚隆は口許を乱暴に拭いながら、眼を逸らしてくるりと踵を返した美凰の傍に近づいた。

「美凰…、誤解だぞ! 今のキスは…」
「あら?! 誤解なんかじゃなくってよ!」
「リンダ!」

 尚隆の怒鳴り声をものともせずにリンダはソファーに座りなおし、先程まで食い入るように見つめていた『雪月花』に視線を戻しつつ、その場を逃げようとしている美凰に向かって不機嫌そうに声をかけた。

「いい加減になさいよ! 逃げないでって言ったでしょ! 貴女がいつまでもそんなだったら、本当にあたしがもう一度、尚隆を取り戻すわよっ!」

 悲鳴のようにも聞こえたリンダの哀しい女の叫びを、美凰は聞き逃さなかった…。

「……」

 ゆっくりと振り返った美凰の事を見ているのか見ていないのか、リンダは『雪月花』の中に描かれている穢れを知らぬ夢幻の美少女から眼を離さずに、煙草を1本取り出して火をつけた。

「はん! もう一度だなんて、失言ね…。尚隆が…、彼があたしのものだった事なんて、只の一度もないもの…。こんなに愛に溢れた女が相手じゃ、太刀打ち出来やしない…」
「……」
「尚隆が…、尚隆はずっと…、この娘(こ)の…、貴女のものだったのよ! 悔しいけれど、誰も敵わない…」

 その場に居た者たちはそれぞれの思いを胸に、淡々としたリンダの独白を聞いていた。





「貴女からの必死の電話に嫉妬して、あんな事を言った報いかも知れないわね…。そのことに関しては謝るわ…。ごめんなさい…」
「リンダさん…」

 呆然とリンダを見つめる美凰に、彼女は漸く視線を戻した。
 同じ男性を心から愛する黒曜石の瞳とサファイヤの瞳の、魂の底からの邂逅であった。

「でもあたし達の…、いいえ、あたしの結婚生活は3ヶ月も持たなかったし、第一『結婚』なんて言葉も似合わなかったわ!」

 美凰はリンダの告白に双眸を見開いた。

「……」
「結婚式も指輪もパーティーも一切なし! 尚隆は貴女の事を心から愛していながら、裏切られた腹いせと貴女の事を忘れられない寂しさのせいで、誰でもいいから手近な女と一緒になっただけ。それがたまたまあたしだった…。同居していた間、意識のはっきりしている時はともかく、SEXの時も…、眠りの中のうわ言でさえ、貴女の名前ばかり…」
「……」
「どんなに愛しても…、報われなかったわ…」

 その言葉に、尚隆は複雑な感情の色をそのハンサムな顔に浮かべた。

「……」
「そしてあたしにも、モデルとしての野望があった。だから別の男の愛人になって『トップモデル』へのチャンスを掴む事にしたわけ…。その頃には尚隆にも新しい女が出来てて…、離婚はあっさりと済んだわ…」
「……」
「彼は、貴女を忘れる事に必死だった…。どんなに色んな女を抱いても、刹那の快楽は楽しめても、この絵の中の貴女を消す事は誰にも出来なかった…」
「その絵の中の女は…、もう居ません…」

 美凰の強張った声音に、リンダは美しい眉宇を顰めた。

「居ない?」
「その、絵のモデルは…、死にました。理由は…、尚隆さまがよくご存知ですわ…」
「美凰…」

 頑なな美凰の言葉に対して溜息をつく尚隆を尻目に、リンダは意地悪な問いかけをした。

「そう…。じゃ貴女、尚隆がいらないのね?! もう愛していないってわけ?!」

 リンダの言葉に美凰は喉を詰まらせ、俯いた。
 尚隆と美凰のぎこちない様子を眺めていたリンダは、鼻先で笑った。

「ふぅん…。そうなの?! 何があったのかは知らないけど、貴女が彼の愛をいらないと言うのなら、あたしにもチャンスがまだ残ってるってわけね?!」

 その言葉に美凰はぴくりと繊肩を顫わせた。

「いい加減にしろっ! リンダ! 俺はものじゃないぞ!」

 うんざりした様子の尚隆は、ふてぶてしく笑っているリンダを睨みつけた。

「あら?! いつも女を物扱いしているくせに、自分がそうされるのは嫌なのね?!」
「……」

 リンダは吸い終わった煙草を灰皿にぎゅっと押し付けると、しなやかな仕草で立ち上がった。

「いいわ! ならいつまでもそうやって意地張ってなさいよ! 貴女は尚隆に愛されているのよ! お互いに愛し合っているのにつまらない意地を張るのは莫迦をみるだけだわ! あたしのせいでもあるけれど、そうして5年もの月日を無駄にしたんでしょ?! ねえお嬢さん、貴女があと何年生きるのか解らないけれど、後悔したままの人生を過ごす気なの?」
「……」
「後悔のない人生を送る人間なんて、普通じゃないわ。でも人は誰でも過ちを起こし、そして後悔し、やがて立ち直る。忘却は人間だけに与えられた唯一の生きる術よ。かといって、総てが忘れられるものじゃない…」
「リンダさん…」
「貴女…、これから先の尚隆と貴女自身に後悔だけの人生を与える気なの?! それが、レイプされた貴女の復讐なの?」

 美凰は吃驚したかの様にリンダを見つめた。



 復讐…。

〔そんなこと、考えもしなかったわ…〕

 思いがけない言葉に戸惑っている様子の美凰に、リンダはほっと息をついた。

「気の毒だったとは思うけど、子供なんて代わりはなんとでもなるわ。もし産めない身体になっていたとしてもね。でも愛する相手はそうじゃないんじゃなくって?!」
「……」
「レイプだって言うけれど、相手が尚隆じゃなかったらって考えた事ある?! もし、あのアセンとか言う悪魔の様な男だったら…」
「リンダ、よせっ!」

 尚隆と朱衡が慌てる様子に、美凰はこの場にまったく関係のない人物の名前に双眸を瞬いた。

「ア、セン…?!」

 何のことか解らず、戸惑いを隠せないでいる美凰の様子にリンダは信じられないという表情で尚隆と朱衡に視線を移した。

「呆れた! まだ何にも知らされていないのね?! まったくもう! これだから男って本当に…。大体、皆して彼女を甘やかしすぎだわ! どうして真実を話さないの? いくらSPで周囲を護衛してるからって油断しちゃ駄目じゃないっ! 最低限の護身術くらいは自分で学んでおかないと…」
「い、一体…、なんのことですの?」

 リンダの怒りは収まらず、攻撃の矛先が尚隆と朱衡に向かった。

「知ってて防御するのと、知らないで防御するのではまったくスタンスが違うでしょうにっ!」
「今の美凰に…」
「リンダ様…」

 尚隆と朱衡が同時にそれぞれ弁明しようとするが、リンダは頸を振りつつ呆然としている美凰を指さした。

「勿論知ってるわよね?! アセンとかいう男の事。貴女の亡くなったご主人の異母弟とかいうあの変態! あいつは貴女の事を、貴女の身体を狙ってるのよ!」

 その言葉に、美凰の美しい花顔が蒼白になったのは言うまでもない。

「あ…、阿選さんが?!」

 リンダはあの日の、身震いする様な毒々しいSEXの光景を思い浮かべ、気分が悪そうに美しい顔を歪めながら今ひとつ、自らの危機にぴんときていない美凰の様子に苛々とした声をあげた。

「莫迦ね! あんな変態に『さん』なんて丁寧に言うもんじゃないわよっ! 調子狂うわねっ! まったくっ! そうよっ! 二度と尚隆に逢えない身体にしてやるって! 自分のものにするって、貴女達の結婚披露パーティーの夜に言ってたの、あたしはっきり聞いたんだからっ!」
「……」
「それで、あのゴシップ写真を撮られたバーで尚隆に注意を促してあげたのよ。暫く身辺を警戒したほうがいいって…」

 リンダを見あげる美凰の双眸が揺らめいた。

「それでは…、あなたはそれを知らせる為にわざわざ…」

 リンダはぷいとそっぽを向いた。

「バーで飲んでたのは確かだけど、尚隆以外にこのハンサムな秘書もいたし、SPも大勢いたわ。ゴシップ雑誌は買わせる為に色々な尾ひれをつけるものなのよ。特にこの人はそういう立場の人だから…。世俗の事に疎そうなお嬢さんには解らないだろうけどね…」

〔なんて…、なんて素晴らしい女性なのかしら?! この方は…、尚隆さまを愛している…。心の底から、まだ愛していらっしゃるのだわ…〕

 聞かされた真実に恐怖という実感が未だ湧かない美凰は、目の前にいる美しく完璧な女性を深い感動と尊敬の念をもって見つめつつ、やがて意識が遠のくのを感じた。



〔阿選さんが…、わたくしの事を…〕

 あの日の、阿選の淫らな息遣いが、おぞましい手の感触が蘇る…。
 沢山の香華の奉げられたばかりの隼人の遺体が眼前にあるというのに、彼の異母弟は亡くなった異母兄をせせら笑いながら、義姉である美凰に無体な行為を施そうとしたのだ。

「美凰! しっかりしろっ!」
「……」

 尚隆の力強い声が遠い…。

〔そして…、そして尚隆さまは…、リンダさんを愛してご結婚なさったのではなかったのね? 連絡が取れないわたくしに裏切られたと思い込まれて…、寂しくて、つらくて、ご結婚なさったのだわ…。そして…、こんなに愛されていらっしゃるのに…、別の女性に眼を向けて瞬くのに離婚なさった…〕

『幾つまで生きるのか解らないけれど、ずっと後悔したままの人生?』

 心の中でリンダの言葉を反芻しながら、美凰はそのまま暗い闇の中に意識を失った…。
_84/95
[ +Bookmark ]
PREV LIST NEXT
[ NOVEL / TOP ]
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -