真実 5
「今、なんと仰って?」
「……」

 先程まで快晴だった空が急に真っ暗になり、稲光が轟いたかと思うと降りだした雨が勢いよくフランス窓のガラスを打ちつけ始める。
 まるで恐ろしい嵐に襲われた様な、美凰の胸中そのものの様に…。

「あなたが…、盗んだ?」
「…、すまん」
「……」
「君を借金で縛り付けておく為に、俺が部下に指示して盗ませたんだ…」
「……」

 驚愕で見開かれた美しい双眸に、少しずつ涙が盛り上がる。
 この部屋にある数々の思い出の品と同じく『雪月花』を取り戻してくれたのだと思ったのに…。
 この絵は元々尚隆の手許にあった…。
 彼が指示して盗ませた…。
 尚隆が盗んだ…。
 美凰は眼前で悄然としている、美しき脅迫者を見つめながら立ち上がった。
 吐き気がする…。



「ひどい…。あなたという方は…」
「……」
「わたくしを強姦して傷つけ、その上、わたくしを弄ぶ為に泥棒まで…」
「…。美凰…」

 美しい頬に涙が流れ落ちる。

「出て行ってください…」
「……」
「いますぐ出て行って! 顔も見たくないわ!」

 これ以上尚隆を見つめていられず、美凰はくるりと彼に背を向けた。
 非難は覚悟の上だろう。
 尚隆は口許を引き締めながら、震える背中を見つめつつ立ち上がった。

「一生、黙っておく事もできた…。だが…」
「……」
「君を愛しているから、これ以上嘘はつけなかった…」

 美凰は泣き咽びながら激しく頸を振った。

「人でなし! 恥知らず! よくも…、よくもぬけぬけと…」
「……」
「奥さまの…、リンダさんの所へお帰りになったらいかが? わたくしはもうなんのお役にも立てそうにありませんから…」

 動揺して震える美凰に急いで近づいた尚隆は、彼女の身体に手をかけた。

「…。俺の妻は君だけだ。君にそんな嫌味は似合わない…」

 しかし、美凰は身もがきして尚隆の手を払いのけた。

「触らないで! ぞっとするわ!」

 その言葉は尚隆の心を抉った。





 もう何もかもが信じられない。
 滂沱の涙に霞む美凰の眼が、ライティングテーブルの上で無邪気に微笑んでいる継接ぎだらけの雛人形を呆然と見つめた。
 この人形を買ってくれた、あの日の尚隆はもうどこにもいない。
 いや。
 愛し続けた小松尚隆という男は、実在していなかったに違いないのだ。
 幻の男に心を奉げたまま、自分は5年という日々を虚しく生きてきたというのだろうか。

「銀座の…、立浪画廊に連絡をして、絵を売却します…」
「……」
「絵が売れたら、あなたに借金をお返しします。要の…、要の手術代も…」
「美凰…」
「離婚してください…」

 あらかじめ予測していた言葉に、引き攣った表情の尚隆は眼を閉じた。

「離婚はしない。俺は君を愛している…」
「やめてっ!」
「……」
「嘘よっ! 嘘だわっ!…」

 美凰は激しく頸を振り、雛人形を手に取って尚隆を振り返った。

「美凰…」
「あ、愛しているなら…、こんなこと…、こんな酷いこと…」
「…、すまない…。赦してくれ…。どうしても、なんとしても君を失いたくなかった。ずっと君を愛し続けていた事に…、そう気づくまでに俺は…、っ!」

 尚隆の言葉はしかし、美凰の思わぬ行動に遮られた。
 興奮した彼女は手にしていた雛人形を、尚隆めがけて投げつけていたのだ。
 不意の攻撃を甘んじて受けた尚隆の頬に命中したぼろぼろの置物は、そのまま床に落下して見事に砕け散った…。





 この5年の間、唯一の宝物として何よりも大切にしていた尚隆からのプレゼントは、もはや美凰にとっては何の価値もないものになってしまっていた…。

「愛してなんかいないわっ! もう二度と信じないっ!」
「……」

 美凰は赤くなっている尚隆の頬と自らが壊した愛の欠片を交互に見つめ、そのまま両手で花の様な美貌の面を覆うと、もう立っていられないとばかりにその場にしゃがみ込んだ。
 唇を噛み締め、硬い表情のままの尚隆は激しく嗚咽する美凰の傍に寄り、子供の様に泣き咽んでいる彼女の身体をしっかりと腕の中に抱え込む。

「い、…、いやっ!」
「……」

 懸命に男の手から逃れようともがいて身悶える美凰を、尚隆は力の限り抱き締めた。

「離さない! 決して…、離すものか!」

 尚隆は自分から懸命に逃れようと暴れている柔らかな身体を強く抱き締めた。
 年が明けてから今日までの、美凰の弱った身体を思いやっての禁欲に禁欲を重ねた日々。
 直ぐ隣の部屋で美凰が眠れぬ日々を過ごすのと同様に、いやそれ以上に眠れぬ夜を過ごし、寒さ厳しい真冬の折にも係わらず毎日、冷たいシャワーを浴び続けていたのだ。
 それこそ、心と身体の欲望に葛藤しながら…。
 指一本でも触れれば、美凰を抱かずにはいられなくなる。
 そして、大罪を告白せずの無理強いは赦されない状況でもあった。
 先週の法事の時から、漸く美凰の眸が自分に向かい始めている事を敏感に悟り、絵の事を告白してきちんと説明しようと思った矢先にすっぱ抜かれた埒もない週刊誌の記事…。
 しかも匿名で、極少数の者しか知らない美凰の所在宛にご丁寧にも郵送するという手の込んだ事をやられている。
 犯人はおそらく…。
 自らを襲う嵐の様な感情を、尚隆は制しきる事が出来なかった。

「い、いやっ! 離してっ! 触らないでっ!」
「離さないっ! 君は俺のものだっ! 俺だけの…。どんな事をしても俺が護るっ!」
「ううっ…」

 桜色の耳朶にそう囁いて、そのまま喘ぐ朱唇に激しくキスをしながら軽々と女体を抱き上げると、尚隆は大股に隣のベッドルームへと向かった…。





「いやっ! やめてっ!」

 豪華なベッドに下ろされた美凰は、尚隆の手から逃れようと滅茶苦茶に暴れて激しく抵抗した。
 だが、どんなに逆らっても所詮は敵わない。
 布の引き裂かれる音が何度か響き渡ると美凰が纏っていた衣服は襤褸と化し、尚隆が焦がれ続けた珠玉の素肌が男の眼に曝された。

「卑怯者っ! 触らないでっ!」
「何とでも言えっ! 君は俺のものだっ! 愛しているっ!」

 そういうと尚隆は泣き濡れて抗う美凰に躍りかかり、身動き出来ない様に逞しい身体で女体を押さえつけた。

「嘘つきっ! 離してっ! いやっ! ううっ!」

 熱いキスを繰り返され、素肌に触れられる…。
 だがしかし、尚隆はいつもの尚隆ではなかった。
 巧みに美凰を悦楽の極みに翻弄する尚隆ではなかった。
 眼前のご馳走に喰らいつく、只の飢えた虎の様に尚隆は美凰の肉体を貪ったのだ。
 そうして美凰も、思いつく限りの罵りの言葉を口にしてそんな尚隆を拒み続けていた美凰も、レイプ同然に抱かれながら、いつしか男の愛撫を求めて尚隆の背中に爪を立てていた…。



 雨はますます激しさを増し、横殴りに窓ガラスに向かって打ちつけている。
 雷鳴が起こり稲妻が何度も点滅する中、真っ暗なベッドルームで絡み合う傷だらけの恋人達がフラッシュバックの様に浮かび上がった…。
 白い脚が放恣に広げられ、尚隆の巨大なものが遮二無二女体に押し入り、膨れ上がった欲望を強引に柔襞に包み込ませる。

「ああっ!」

 尚隆の手が美凰の腰を掴みながら激しく突き上げ、彼女の甘い喘ぎは彼の激しいキスに塞がれた。
 やがて…。
 久方ぶりに感じる快楽の高波に攫われた美凰は漂い、微かな絶叫と共にぐったりとなった。
 尚隆は激しく痙攣し、喉の奥から自然と湧き起こるしゃがれた叫び声を漏らした。
 例えようもない快楽の呻き声が低く響き渡る…。
 尚隆の痙攣はいつまでも続き、愛欲の塊は解き放たれ、熱く熟れた花弁の最深奥に注ぎ込まれた。
 そして逞しい体躯はどっと美凰の上に倒れこんだ。
 男女の激しい息遣いが漸く落ち着き、ベッドルームに虚しい静寂が訪れたものの、勢いよく窓に打ちつける雨は恋人達の胸中を表わすかの様に荒々しかった。





「あっ!」

 ぐったりと眼を閉じて慄えながら息を整える美凰から一度離れた尚隆は、再びゆっくりと覆いかぶさった。
 力強い掌は張りついた様に豊満な乳房を掴み、濃い薔薇色に染まった膨らみの頂きは尚隆の舌先に捉えられていた。
 官能的な愛撫に美凰の肌はますます火照り、高ぶりを隠せない。
 焦らす様に紅を刷いた膨らみの周りをなぞる尚隆の舌が、やがて桃の蕾の様な乳首を口腔に含んで優しく強く吸った。

「んっ…」
「愛している…。愛しているんだ…」
「……」

 ぼんやりと天井を見つめていた美凰にはどうすれば、どう答えればいいのか解らなかった。
 解っているのは、この愛撫を永遠に続けて欲しいということだけなのだ。
 冥く翳る黒曜石の双眸が、自らが傷つけた男の頬の腫れを見つめる。

〔わたくし、なんてことを…。かっとなってしまって…、さぞ、痛かったでしょうに…〕

 裏切られた事への怒りより尚隆を望む欲望が勝った事に、美凰はたまらない羞恥心と自己嫌悪を覚えた。

「美凰…」
「……」

 なおも美凰を求めようとする尚隆をなんとか押しのけ、傍にあったナイトガウンを纏ってベッドから降り立つと、美凰はふらふらと居間に向かった。

「……」

 今は彼女を片時も一人にしておけない…。
 尚隆は慌てて起き上がり、手近にあったバスローブを羽織ると美凰の後を追いかけた。





 虚脱した様子の美凰が、自ら丁寧に施した梱包をゆっくりと解いている。
 美凰を自分の手許から離さない為だけに盗ませただけのもの。
 例えどれ程の価値があろうと絵画や美術品に一切の興味がない尚隆は、部下に指示して盗ませたものの美凰に見つからない様にずっと会社のペントハウスに隠しておいただけなので、花總蒼璽の遺作がどの様なものなのかまったく知らなかった。
 知ろうともしなかったのだ。

「!」

 広げられた絵を眼にした瞬間、己の胸にもう何度も繰り返し苦痛を呼び起こしている深い悔恨と愛情が怒涛の様に押し寄せてきた。

〔なんて…、なんてことだ!〕

 舞い散る雪の中、出来上がったばかりの雪うさぎを白い掌に掬い、愛しげに微笑んでいる美少女。
 煌々とした月の下、淡い光に照らされて、うっとりと恋の物思いに耽る美少女。
 清々しい美しさを誇る白梅の木の下に、紅梅模様の振袖を着て佇む美少女は、夢幻の恋人を想っては春風の中に笑顔で佇んでいる…。
 尚隆はゆっくりと絵に近づき、食い入るように絵の中の美凰を見つめた。
 彼が心奪われた、求め続けた愛しい笑顔がそこには具現されていたのだ。

「……」
「ご覧になって、そして後悔なさればいいんだわ…。嘗てあなたが愛して、そして殺した女がここにいるのですもの…」
「美凰…」
「もう二度と、逢うことのない女の姿を…」

 背後で哀しげに呟く美凰の声を、絵から眼が逸らせない尚隆は彼女に背を向けたまま遮った。

「俺が…、俺が買う…。他の誰にも渡さん!」
「いいえ…。あなたには、お売りいたしません…」

 頑なな美凰の声に尚隆は、漸く彼女の方へくるりと振り返った。

「美凰…」
「どうしても買いたいと仰るのなら、条件があります…」
「……」

 ナイトガウンの襟元を握り締めながら、美凰はゆっくりと言葉を紡いだ。

「離婚してください…」

 尚隆は拳を握り締め、頤を強張らせた。

「美凰! その話は終わった筈だぞ」
「いいえ! 終わってませんわ!」

 大股に美凰に近づいて嫋々した肩に手をかけると、尚隆は聞き分けのない柔らかな身体をがくがくと揺すぶった。

「何度言ったら解るんだ! 決して離婚はしない! 俺は君と別れる気はこれっぽっちもないぞ!」
「では…、絵は別の方に売却いたします…」
「美凰…」

 美凰は尚隆の手を振り切り、顔を背けながら脇に逃れた。

「離婚がどうしても嫌だと仰るのなら…、二度とわたくしには指一本触れないで…。結婚生活を続ける条件は…、それだけです…」

 尚隆は顔面蒼白の体で愛する美凰を見つめた。

「……」
「あなたは…、好きになさればいいんだわ…。わたくしでなくとも他の女性とお過ごしになれば…。わたくしは…、いらない…。あなたなんか…」
「他の女はいらない!」

 尚隆の悲鳴の様な叫び声に、美凰の身体はびくんと顫えた。

「……」
「俺が欲しいのは君だけだ! 愛しているのは君だけだ!」

 そう言うと、尚隆は背後から美凰の身体を抱きすくめた。
 離すまいと懸命に抱き締める尚隆から逃れようと、美凰は再び身もがいた。 

「いいえ! もう二度と…、あなたの言いなりにはなりませんわ…」
「美凰!」

 尚隆は美凰の身体をくるりと自分のほうに向き直らせ、逞しい胸板を押しやって逃れようと喘いでいる芙蓉の唇に無理矢理キスを重ねた。

「やめてっ! 離してっ! んっ…」

 男の熱いキスが、いま口走ったばかりの言葉を裏切ろうとしている…。
 美凰は懸命に理性を取り戻そうとした。
 その瞬間…。

「ねえっ! いい加減、現実世界に戻ってきてよ! 一体何度、声をかけさせれば気が済むのっ!」

 苛々した女性の叱責に尚隆と美凰ははっと我に返り、声のするドアの方へ顔を向けて唖然となった。
 傍若無人にドアを開け放ち、胸の前で腕を組んで半裸に近い状態の二人を見つめていたのは、なんと噂の人、リンダであった…。
_83/95
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