真実 4
 3月が近いとはいえ風はまだ冷たい。
 美しく煌いている海と眼下の街の風景を一望出来るバルコニーから、薄着のままの美凰はぼんやりと彼方の景色に眼を向けていた。
 要の手術、そして思いがけない流産から1ヶ月近くが過ぎた今、彼女は芦屋の高台にある院白沢・唐媛夫妻の邸で心身ともに療養の日々を過ごしていたのである。
 子供のいない白沢と唐媛は美凰の人柄に傾倒し、すっかり親気取りの様子で親身になって彼女の面倒を見てくれていた。
 美凰が退院して程なく、文繍は仕事が多忙の為に東京に戻り、社宅と称して与えられていたマンションには春が一人で留守居を勤め、阪大病院に入院している要の世話に通い詰めている。
 美凰が5年の間、必死になって守り抜いてきた家族は一度バラバラになり、それぞれの生活を見つめ直しながらゆっくりと穏やかに再構築されつつあった。

〔尚隆さま…〕

 苦悩する黒曜石の双眸が手の中にある女性週刊誌をじっと見つめ、それから背後を振り返って自分に与えられている豪華な居間を眺めやる。
 そこには、毎日の様に懐かしい品物の数々が所狭しと運び込まれていた…。
 信頼していた仲介業者に持ち逃げされた筈の父の絵や、大切にされていた稀少な骨董品たち…。
 亡くなった母から譲り受けていた数々のアンティークジュエリーや陶磁器のコレクション、皇族の降嫁により生まれ、何不自由ない華族の姫君だった祖母の形見のビスクドールの数々…。
 箪笥の中には嘗て二束三文で売却した筈の友禅の振袖や辻ヶ花の訪問着、西陣の帯などが次々に買い戻されている。
 行方の追跡不能な品物に関しては、おそらく春に詳細を確かめているのであろう。
 大変酷似した新しい物を尚隆がオーダーメイドして作らせ、美凰の手元へと次々に届けさせているのだ。
 尚隆は美凰の為に、僅かな金を得る為に彼女が嘗て泣く泣く手離した大切な思い出の品々を、次々と見つけ出しては買い戻してくれているのであった。
 それこそ価値のある父の遺品から、尚隆自身には何の得にもならない古着の着物に至るまで…。

〔わたくしは…〕

 複雑な胸中を吐露するかの様に、美凰は深々と溜息をついた。



 身体が復調した後、退院してからこの芦屋の邸宅へ来て1ヶ月。
 尚隆とは毎日顔をあわせているが、極普通の結婚生活を送っているわけではなかった。
 彼は美凰が寝室として与えられている部屋の隣に起居していたが、決して美凰の寝室に踏み入っては来なかったし、特に用件がなければ、殆ど会話をする事もなかった。
 ただ、どんな時でも朝と就寝の挨拶だけは欠かさず、美凰の体調のことも常に気遣ってくれていたのである。
 そして3日前の土曜日、流産で亡くした赤ん坊の為に優しく心のこもった法要を行ってくれた尚隆に、美凰は心の光明を見出し始めていたのだ。
 それなのに…。
 美凰は再び、手に握り締めていた週刊誌を広げるとそこに写る写真をじっと見つめた。

『世界一のセクシーセレブ、新婚の夢醒めやらぬ中、リッツのスウィートで金髪美女と熱い夜…。お相手は全米ナンバーワンのカリスマスーパーモデル!』

 そう書かれた表紙には、俯いている尚隆の肩に優しく手をかけてしなだれかかっている彼の元妻、リンダの姿があった。

『抱かれたい男ナンバーワン、新妻流産の悲嘆の中でもプレイボーイ魂は健在か?!』
『美貌の新妻は芦屋の豪邸に預け置き?! 子供の産めない女は離婚されても仕方がない?! 小松会長、暗に離婚を匂わせる…』
『寝室は別々?! 結婚1ヶ月で既に冷え切った夫婦仲。ゴシップ名物男、独身に戻る日も秒読みか?!』

 もう何度も読み返した雑誌を、美凰は再びぎゅっと握り締めた。
 リッツのバーで飲んでいた所を激写されたらしく、匿名希望で大手雑誌社へ写真と記事の投稿があったのは3週間前の事だという。
 女性週刊誌など読まない美凰の元に、何故かこの雑誌が匿名で今朝方郵送されてきたのである。
 ここに美凰が居住している事は、一部の者を除いては守秘されている筈であった。
 それなのにこの雑誌には、まるで尚隆と美凰の夫婦生活が総て知られている様な内容で文章が書かれているのだ。

〔ここには白沢さまと唐媛さま、それにもう30年近くお勤めの執事の方とお手伝いの方々しかいらっしゃらないし、口さがない噂話をなさる様な方々は一人もいらっしゃらない…〕

 傍近くで世話になっている人々の顔を一人一人思い浮かべ、美凰はそっと頸を振った。
 誰もが彼女の、美貌に正比例した心栄えの美しさに深く心酔してしまっているのだ。
 疑わしい人は一人としていない。
 そうなると尚隆がリンダとよりを戻す為に、匿名と称して自らの私生活を語って聞かせている可能性もあるのではと、心に生じた疑惑の念を美凰は払拭する事が出来ずに悶々としていたのである。

〔いいえ…。あの方はそんな方ではないわ…。確かに今までの仕打ちは残酷で心ないものだった。でもあんな卑怯な事をなさったのは、総てを誤解していたから…。ご自分の傷ついた心を癒そうとしてわたくしを痛めつけたかったからだわ。真実が解った今、あの方はとても穏やかに、昔以上に優しくわたくしに接してくださる…。寝室の事も、一度として要求された事はないわ…〕

 そう。
 美凰の身体の不調もさることながら、尚隆はこの1ヶ月の間、一度として彼女にSEXを強要した事がなかった。
 その事をほっとする反面、心のどこかで彼を欲しいと思う気持ちを彼女は否定出来ないでいた。
 ここの所は妙な妄想ばかりが浮かんでは消え、肌寂しく眠れぬ夜を過ごす美凰だったのである。
 直ぐ隣の部屋には、夫と呼んでいい存在の尚隆が居る。
 それなのに、あまりに簡単に越え得る筈の垣根は美凰にはとてもぶ厚く、重い鉄の壁の様に思えた。

〔あの方がこんなに長い期間、女性を欲しない筈がないもの…。彼は…、リンダさんと関係なさったのに違いないわ…〕

 芙蓉の様に美しい唇をぎゅっと噛み締め、美凰は胸に渦巻く黒い情念を必死で抑えつける。
 嫉妬する資格など、皆無に等しい。
 自分は尚隆の妻としての役割を、何一つこなしてはいないのだ。
 子供の為だけの、愛のない偽りの結婚…。
 妻という立場は名ばかりの、そしてこの雑誌の記事にある通り、美凰は今度こそ子供の望めない身体になってしまった…。
 唯一のつながりだった身体の関係すらなくなってしまった今、美凰が尚隆にしてあげられる事といえば、彼を自由にしてやる事くらいだったのだ。

〔あの方は、わたくしへの哀れみと自分の犯した罪の償いから離婚を言い出せないでいる…。生涯、わたくしの面倒をみなければという義務感に囚われておいでなのよ…。早く解放して差し上げないと…〕

 美凰からの手紙を総て読み終え、どこへ行くにも常に持ち歩いている尚隆に反して、彼女は自分に宛てられた彼からのエアメイルを一通も開封していなかった。
 読みたくないのではない。
 寧ろ読みたくてたまらなかった。
 ただ、1通でも読んでしまえば蓋をして押し籠めてしまっている尚隆への愛が再び息を吹き返し、今度こそ愛されていない惨めな境遇を我慢してでも、身も心も総て奉げ尽くしてしまうであろう。
 そして、そんな自分の為に尚隆は己の心を犠牲にして美凰との生活を続けようと努力するに違いないのだ。
 これから先、尚隆の前途ある人生をそんな風に過ごさせるわけにはいかない。

〔もしあの方が本当に愛する女性と…、一緒になりたいと願った時にわたくしの存在は邪魔になるだけ。そして相手の方にも辛い思いをさせてしまう…〕

 美凰の脳裡に、北京で初めて眼にしたリンダの完璧な姿が浮かび上がった。
 美貌の面差しに完璧なスタイル、総てが尚隆に相応しい女性だった。

〔やっぱりかねてから考えていた通り、離婚を申し出よう。土曜日の法要の件で、わたくしの心にもあの方の愛をもう一度信じたいという思いが芽生えかけていたのは事実だわ…。でも、どのみちうまく行くものではなかったのよ。赤ちゃんはあの方の子供でもあったのですもの。父親として水子になった子供の魂の為に祈ってあげようと考えるのは親として当然のこと…。尚隆さまのことだから、なかなか首を立てにお振りにならないだろうけど、何とか説得して…。そしてわたくしは…〕

 ガードマンが正面の門を開ける音が微かに美凰の耳に響き、彼女ははっと身を硬くしながら眼下に眼差しを落とした。
 見慣れた白銀のメルセデスが静かに車寄せへと進んできているのを見た美凰は、慌ててバルコニーから室内へと戻り、フランス窓を静かに閉めると純金製の室内時計に眼をやった。
 まだ白昼だというのに、何故尚隆は戻ってきたのだろう?





 美凰は目立たぬ様に雑誌を裏返しにして、継接ぎだらけのディズニーの雛人形を飾っているライティングテーブルの端に置くと、ソファーに腰掛けて先程まで眼を通していた資料を掻き集めると、慌てて机の引き出しに一式放り込んだ。
 彼女は最近になって准看護婦の資格を取るべく、尚隆には黙って勉強をし始めていたのだ。
 離婚後の自らの将来の事を憂えた美凰は色々と考えた結果、看護婦の資格を手にして幾つになっても働けるだけの力を身につけようと考えていたのである。
 軽いノックの音が聞こえ、美凰はライティングテーブルの引き出しを閉めると慌てて振り返った。

「はい…」
「美凰様…。会長がお戻りになられました…」

 執事の声の後に扉が開き、尚隆が室内に姿を現した。

「……」

 日々憔悴し、面窶れしていく近頃の尚隆の姿に美凰は居たたまれない思いで一杯だった。
 愁い顔の彼の姿を見ただけで、美凰の胸はせつなさに顫えるのだ。

「お、お帰りなさいませ…」
「うむ…」

 今朝出勤して行った時に比べて、とても顔色が悪い。
 どこか身体の具合でも悪くしているのだろうか?
 美凰が体調の不具合を問いかけようとした瞬間、尚隆は美凰の対面のソファーに腰掛けながら少し厳しい口調で言った。

「美凰、3月間近だとはいえ、寒さは厳しいぞ。バルコニーに出るならもう少し暖かい格好をしろ」

 目ざとい尚隆は車の中から、美凰がバルコニーに居たことを確認していたのだ。

「す、すみません…。ほんの少しだけ、風にあたりたかったんですの…」
「……」

 子供が叱られた様な心持ちに美凰は俯いて尚隆に詫びたが、再び気を取り直して顔を上げた。
 見ると尚隆は、苦しそうな表情で美凰をじっと見つめている。
 穴があくという言葉は、こういうときの為に存在するのだろう。
 こちらが羞かしくなる程に見つめられ、美凰の全身は我知らず尚隆の愛を求めて顫えた。

「具合はどうだ?」

 セクシーな声が美凰の欲望を刺激する…。

「じ、順調ですわ…」

 美凰は居たたまれず、花の様な面に血を昇らせて薄っすら頬を染めながら小さく呟いた。

「あの…、どうかなさいましたの? そんなにじっとわたくしの顔をご覧になられて…。それに随分お顔の色が…。どこかお加減が宜しくないのでは?」
「……」

 尚隆は無言のまま立ち上がり、美凰が立ち尽くしているライティングテーブルの傍に近寄ると裏返しにされた女性週刊誌を目端に確認し、驚愕に眉根を寄せながら雑誌を手に取った。

「誰がこんなものを?! 美凰、どこでこれを手に入れたんだ?!」
「か、買い求めたのではありませんわ…。今朝、郵送でわたくし宛に届きましたの…。さ、差出人は不明です…」
「……」

 苦々しげに唸り声を噛み殺している尚隆に向かい、美凰は思い切って口火を切った。

「あ…、あの、わ、わたくし…、お話がございますの…」
「俺も…、俺も話がある!」
「あの…」
「俺の話をまず聞いて欲しい…」

 真摯な眼で自分を見つめてくる尚隆に美凰は逆らえなかった。

〔リンダさんとの事、理解して欲しいと仰るのかしら? それとも、見え透いた言い訳をなさるおつもりなのかしら?〕

「わ、解りましたわ…」
「座れ…。君が立ったままじゃ、話も出来ん…」
「……」

 美凰は言われるままにソファーに腰掛けた。
 その間に尚隆は近くにある電話を取り、1階の内線番号を押した。

「すまんが毛氈に上がってくる様に言ってくれ…」

 電話を切ると尚隆は美凰の対面に、改めて腰掛けた。

「美凰、この雑誌に書いてある記事はまったくのデタラメだ!」

 尚隆の真剣な眼差しを受け止めきれず、美凰は視線を逸らして俯いた。

「……」
「今朝、社にも同じものが届いてな。朱衡に命じてS出版を訴える準備を進めている…」
「で、でも…、ここに写っていらっしゃるのは、あ、あなたと…、リンダさんだわ…」
「…。確かにリンダと逢った事は認める。しかしバーで飲みながら色々と厄介な話を聞かせて貰っただけで、やましいことは何もしていない! 本当だ…。信じてくれ!」
「……」

 何をどういえばいいのか、美凰は口ごもってしまった。
 まさか尚隆が、リンダとの関係を完全否定するとは思ってもみなかったのだ。

「あの…」

 美凰が口を開こうとした瞬間、ドアがノックされた。

「毛氈か?」
「はい…、会長…」
「入れ…」

 扉が開き、毛氈が一礼をして室内に入ってきた。
 脇にはなにやら大型で薄手の梱包物が大切そうに抱えられている。

〔父の遺品を買い戻してくださったのね…。また絵画かしら…〕

 毛氈が尚隆の眼前に置いた茶紙にくるまれた品物に何気なく視線をやって、美凰は愕然と双眸を見開いた。
 見覚えのある梱包物…。
 高額に売却可能と絶対の自信を持っていたものの、長年手離す事が出来ずにいた恋する乙女の青春の輝き…。
 昨年の夏に自らが大切に梱包し、東京の立浪画廊のオーナーに引取りに来て貰う予定だったにも係わらず、無残な初体験の翌日に留守にしていた自宅から空き巣に奪われた亡き父の遺作『雪月花』。
 美凰は両手で口許を覆い、叫びたくなるのを懸命に堪えて立ち上がった。
 ソファーに品物を立てかけた毛氈が、哀しげな表情をして一礼すると静かに室内を出て行った。

「せ、雪月花? わたくしの、わたくしの絵を…、絵を取り戻してくださったの?!」
「……」

 感動の余り、美凰は身体中の血が逆流しそうであった。
 闇取引によって好事家の手に渡れば、殆どと言っていいほど生涯、人の眼に触れる事はないのだ。
 もしそうなっていたら、二度と眼にする事もなかった『雪月花』。
 尚隆に対して感謝の思いで一杯の美凰は、絵の前に跪きながら嬉しそうに尚隆の顔を見上げた。

「ああ! 尚隆さま! わたくし…」

 しかし次の瞬間、あまりに残酷な言葉が尚隆の口から漏れ、美凰の心は瞬時にして凍りついてしまったのである…。

「すまない…。この絵は俺が命じて数名のSPに盗ませた…。君の家に空き巣が入ったのは、俺の指示によるものなんだ…」
_82/95
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