真実 3
 手術が無事に終わり、要の小さな命がこの世に繋ぎとめられたのは夜明け前だった。
 もうひとつの、芽生えたばかりの命と引き換えに…。



「要君の手術は成功した! もう大丈夫だぞ!」
「要、助かったのよ! 美凰ちゃん!」 

 その日の昼頃、産婦人科病棟の特別室で深い眠りから目覚め、そう聞かされた美凰は食い入るように自分を見つめている尚隆と文繍には見向きもせず、虚ろな眼差しで呆然と天井を見上げて呟いた。

「わたくしの赤ちゃん…、駄目だったんですね…」
「……」

 閉じられた眦から、涙が伝い続ける。

「要の…、要の身代わりになったんだわ…。神様も酷い…。どこまでわたくしを苦しめれば…」
「美凰…」

 懸命に美凰の手を握り締める尚隆の手の温もりも、今の美凰には虚しいばかりである。

「お願い…。一人にしてください…」
「……」

 美凰は哀しみを胸に抱いたまま、再び深い忘却の眠りに落ちていった。
 文繍は尚隆の憔悴しきった様子にいたたまれず、そっと首を振りながら立ち上がった。

「義兄さん…。あたし、要の方を見てきます…。入院に関する書類は、朱衡さんに渡してあるから…。それに唐媛さんって人が、美凰ちゃんの着替えとか入院の必要なもの、全部準備するって言ってくれてたし…」
「ああ…」
「それに、乍先生にもご挨拶しないといけないし…」

 乍という名に、文繍に背を向けたままの尚隆の肩がぴくりと揺れた。

「文ちゃん…。ドクターには俺から挨拶する…。後で外科病棟へ行くから、文ちゃんは要君の傍にいてやってくれ…」
「……」
「ばあさんだけじゃ心もとないだろうし…。ばあさんも、美凰の様子が知りたいだろう…」
「義兄さん!」

 文繍の表情が少しだけ明るくなった。

 姉が意識を失い流産の処置を受けて入院してから今までの間、尚隆は二人の眼の届く場所に姿を見せないよう、春に厳命していたのだ。

「春に…、ここへ来るように言ってもいいのね?!」
「但し…、俺の不在の時にして欲しい。生憎、俺は今の処…、刑務所で一生を終える気はないんでな…」
「…。解ったわ。有難う、義兄さん…。感謝します…」

 美凰を見つめ続けたままの尚隆を残し、文繍は大急ぎで部屋を出て行った。





『大きな手術が済むと、乍先生は必ず屋上においでなんですよ…』

 看護婦長の言葉のまま、外科病棟の最上階までエレベーターで上がり、それから屋上へ向かう非常階段を、尚隆は重い足取りで歩みを進めていた。
 鉄の扉を開けて外に出ると、冷たい風が憔悴した頬を凪いでゆく。
 厳寒ではあるものの天気どこまでも快晴で、自らの心とはあまりに違う澄み切った青空に、尚隆は重い溜息をついた。
 ぐるりに視線を巡らせると、壁際にいくつかの木製ベンチがあり、その中の一つに目当ての人物である乍驍宗が白衣のまま胸で手を組み、仰向けになって眼を閉じていた。

「……」

 尚隆はそっと近寄ったつもりだったが、こつこつ鳴る革靴の音に驍宗はふっと眼を開き、むくりと起き上がると、近づいてくるタキシード姿の尚隆を認めて眼を眇めた。
 気まずさとぎこちなさ、そして相も変わらぬ嫉妬の心が尚隆の胸にもやもやと湧き起こる。
 最後に対峙してから2ヶ月以上の時が流れているのだから、別に痛むわけではないのにあの時殴られた顔に鈍痛が走った様な気がして、尚隆は思わず頤を強張らせた。
 憮然とした様子の尚隆に、驍宗はふっと笑った。
 嘲笑でも、お愛想でもない、張りつめていた息を抜くかの様な微笑だった。

「何がおかしい?」
「いや…。申し訳ないが煙草を1本、貰えませんか? 丁度切れてしまって…」

 驍宗が捻り潰してしまっているキャメルの屑に眼をやり、尚隆は胸ポケットからダンヒルの純金製シガレットケースを取り出した。

「俺のは少しキツイぞ…」
「構いませんよ。普段から、手術の後しか喫まないんでね…」

 驍宗が香りの良いピースを1本手にすると、尚隆はケースとセットになったライターの火を差し出した。

「どうも…」

 銘柄名は平和だが、肺にはあまり優しくない煙草を驍宗は深々と味わっている。
 全力を尽くし、脱力している様子の驍宗を尻目に、昨日から煙草にまったく手をつけていなかった事を思い出した尚隆は、驍宗の隣に腰を下ろすと、自らも1本、口に銜えて火をつけた。

「要君を救ってくれて…、心から礼を言う…」
「わたしは医者として当然の事をしたまでです。そして、小さな身体で頑張ったのは要君だ…」
「……」

 そうして二人の男は暫く、ぼんやりと煙を燻らせていた…。



「ゴシップ雑誌、見ましたよ…。結婚したそうですね? 美凰さん、妊娠したと…」
「ああ…」
「相変わらずなんですか? 貴方の態度は…」
「……」
「莫迦な男だな…、貴方は…」

 ふいに低い呟きが漏れ、尚隆は驍宗を見た。

「……」

 驍宗は傍にあった簡易灰皿で吸い終わった煙草を綺麗に揉み消すと、真正面の景色に眼をやりながら静かに言葉を続けた。

「昨年、最後に会ったあのバーで、わたしは美凰さんに3千万円の小切手を渡した…」

 その言葉に、尚隆は双眸を見開いた。

「……」
「借金を清算して、貴方と別れて欲しいと。だが美凰さんはそうしなかった…」
「……」
「別に条件を出したわけじゃない。美凰さんの気が変わってわたしの元に来てくれたらどれほど嬉しかった事か…。だが、未だに金は換金されていないし彼女の気持ちは変わらなかった。勿論…、妊娠した事も…、あったのだろうが…」
「ドクター…」

 驍宗はまだ知らないのだ。
 残酷な運命を受け容れた美凰が、今は産婦人科病棟の特別室に傷心の身を横たえている事を…。

「美凰さんは貴方を愛している…。だからこれ以上、酷い思いをさせないでやって欲しい! 愛しているんだろう? 彼女を…」

 俯いたまま煙草を揉み消している尚隆に向かい、驍宗は叫んだ。

「……」
「貴方だって愛している筈だ! だったら美凰さんをもっと大切にしてやってくれ! 彼女は、誰よりも幸せになるべき人だ! 彼女は…」
「ドクター…」

 驍宗は立ち上がり、堪えきれないように数歩前に歩いた。
 じっとしていられない様子であった。



「美凰さんの背中の傷…。あれは想像を絶する痛みを伴う…」

 尚隆ははっと顔を上げて驍宗を見た。

「……」
「彼女はつましい生活の中で借金の返済に追われ、要君の医療費を捻出する為に自らの治療費と薬代を惜しんだ…。そのせいで自分自身の身体をすっかり弱らせてしまっている…」
「……」
「健常者の我々には考えられない腰椎と背筋の痛みと苦しみ…。SEXが辛く苦しい時もあった筈だ。貴方は…、一度でも気づいてやった、思いやったことがあるのか?」

 驍宗の言葉は、鋭い刃となって尚隆の胸を貫く。
 幾日幾夜、散々思いのままに慰んだ柔らかな身体は、時折微かな呻き声を押し殺して顫えていた時があった。
 その時の尚隆は、単に羞恥と快楽の狭間で女体が身悶えているだけなのだと悦に浸って眺め入り、涙を流してぐったりしている美凰を、もう赦してと懇願し続ける彼女を欲望の赴くままに何度も抱いたのだ。

『あなたは常にご自分の事ばかりなのね…。5年前、傷ついたのはあなただけだとお思いなの? わたくしがどんなに傷つき、どんなに惨めな思いをしていたか…、少しも気づこうとなさらない。そして今…、あの頃以上に苦しんでいるわたくしを見て、あなたの自尊心は癒されまして?』

〔本当に…、俺は自分のことばかりだった…。美凰の言う通り…〕

『結局、あなたはわたくしの事など愛してはいなかったのですわ。わたくしが連絡を取らなかったとあなたはお怒りですけれど…、あなただって、わたくしを迎えに来てはくださらなかった…。ずっと待って待って…、待ち続けていたのに…』

 尚隆は上着のポケットに手を入れ、5年前に手許に届くはずだった美凰からの手紙の束を愛しげに、哀しい思いを胸にそっと撫でた。
 昨夜から美凰に付き添っていた尚隆は、自分宛の手紙の総てを読み終えていた。
 そしてとても手離す事が出来ず、ずっと持ち歩いているのだ。

『お約束の場所に行けなくて本当にごめんなさい…。この文字が読みづらいことで、わたくしの状況をご理解戴きたいの…』
『事故に巻き込まれて、両親が亡くなりました。総てはわたくしのせいです…。でも、わたくしはきっとあなたのお傍に参ります…』
『お願い! どうかお返事をください…。怒っていらっしゃるのは充分承知しております…。でもわたくしの事情も、解って! どうかわたくしに希望をください…』
『お願い! 一度日本に帰っていらして! 待っています…』
『どうしてお返事をくださらないの? もうわたくしの事など、お忘れになったの?』

 どの手紙にも、『愛しています…。あなただけを愛しているの…。尚隆さま…、わたくしのただ一人のあなたへ…』という文字が書き連ねてある。
 最後の方の手紙になると、判別できない文字もあった。
 泣きながら書き綴ったのであろう何通もの手紙…。
 便箋に落ちた涙が、インクの文字を滲ませていたのだ。





「医者として正直に言うが、今の美凰さんの身体では通常の出産は不可能に近い。母体が耐え切れないんだ。辛うじて帝王切開したとして…」

 驍宗の声が尚隆の物思いを打ち破り、彼はぴくりと肩を震わせた。

「ドクター! もうやめてくれっ!」

 悲鳴に近い尚隆の声に、驍宗は押し黙った。

「……」
「美凰は…、美凰は流産したんだ…。要君のことや、色々な事が重なって…、耐え切れなかった…。今、産婦人科病棟の特別室で眠っている…」
「なっ!」

 驍宗は驚愕に双眸を見開いて、頭を抱えて俯く尚隆を見つめた。
 いつも冷静な乍驍宗も、この時ばかりは頭には血が上ることを抑え切れなかった。
 次の瞬間、胸倉を掴まれた尚隆は驍宗の渾身のパンチを頤に受けて、コンクリートの床の上に引っくり返っていた。

「貴様のせいだ! 貴様が美凰さんを!」
「……」

 尚隆の口の端から血が滴り落ちる。
 無様に尻餅をついている尚隆に冷ややかな軽侮の一瞥を呉れた驍宗は、そのままを踵を返してドアへと向かった。
 ドアノブに手をかけた驍宗に向かって、口許を拭うこともせずに尚隆は叫び声を上げた。

「言い訳はせん! だが俺は…、俺のせいだろうがなんだろうが美凰を愛している! もう二度と、彼女を手離す気はない!」

 驍宗の双肩がびくりと揺れた。

「…。ならもっと…、美凰さんを大切にしろっ! 自分本位に彼女を振り回すな!」
「……」

 尚隆を振り向くことなく、驍宗は扉を開けてその場を立ち去った。
 鉄の扉が重く鈍い音を立てて閉まり、その音はまるで尚隆と美凰の間に立ち塞がった壁の様にも聞こえた。

〔美凰…、俺はもう一度、君を傷つける事になるだろう…。それでも俺を赦してくれ! 赦してくれ…〕

 尚隆は握り締めた拳を、何度も何度もコンクリートに強く打ちつけた。
 拳の皮がめくれ、やがて血が滲んで飛び散っても、それでも尚隆は地面を殴り続けることをやめなかった…。
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