暗闇の中、美凰は呆然と立ち尽くしていた。
下腹部に激痛が走り続け、白い腿の間を少しずつ、命の水が流れ落ちてゆく…。
『命はひとつしか選べない…。ひとつの命には、ひとつの命。命には命をもって贖わねばならないのだ…』
『だ、誰? 誰なの?』
不意に聞こえてくる重々しい声に、美凰は怯えた。
母としての本能が、下腹部の感触に危機を感じているのだ。
『あっ!』
眼の前に閃光が走り、美凰はきつく眼を閉じた。
次の瞬間、美凰の眼の前にぼんやりと、青く輝く星が見えた…。
どこかで見た事のある…、あれは…。
〔バリ島で見た、夢の中の天使! 天使の乗っていた星…〕
今度は、柔らかだが少し物悲しげな声が美凰の耳に響いた。
『いのちにはいのちなの…。ママ…、要を助けたい? それともぼく?』
美凰は驚愕に双眸を見開いた。
『あ、あなたはわたくしの赤ちゃんなの? ああっ…!』
ふわふわ浮いている青い星には赤ん坊という人の形はない。
ただ声が聞こえるのみである。
そして美凰がどんなに懸命に手を伸ばしても、その星には届かないのだ。
『ああ、お願いっ! ママにはあなただけなのっ! お願いだから、どこへも行かないでっ!』
『それじゃ、要はいいの? このままだと…、要は死んじゃうよ?』
『?』
『うしろを見て…』
その言葉通りに美凰が背後を振り返ると、硝子に覆われた手術室が間近に浮かんでおり、酸素吸入されている小さな要の痛々しい姿が見えた…。
〔か、要っ!!!〕
術式中の乍驍宗の額に浮かび上がっている汗を、看護士が懸命に拭っている。
『せ、先生っ! 心拍がっ!』
『くっ! くそうっ! 直接心臓マッサージだ! ガーゼをよこせっ! それから…』
驍宗は焦った様子で手を動かしながら、看護士たちに懸命に何事かを指示している。
嘗てない驍宗の余裕のない姿に、美凰は弟の命の危機を直感した。
『ああっ、要っ! 要ぇぇぇ!!!』
その場に膝をついた美凰は、身も世もなく泣き崩れた。
『先生っ、お願いっ! 要を、要を助けてっ!』
『…。ひとつの命には、ひとつの命なんだよ。ママ…』
『そんな…。どちらかを選べと言うの?』
美凰には選べるはずもない。
要も赤ん坊も大切な、美凰の命より大切な存在なのだ。
美凰はすすり上げながら叫び声を上げた。
『選ぶ事なんかできません! わたくしの…、わたくしの命を差しあげます! だから、要もぼうやも…、わたくしから奪わないでっ!』
『……』
『お願い…。わたくしにはもう…、あなたたち以外、何も残ってはいないの…』
『そんなことはないよ…。ほら…』
再び聞こえてきた声は柔らかな子供の声ではなく、耳慣れた男らしい、そしてセクシーな声だった。
「美凰っ! しっかりしろっ!」
全身を襲う激痛に朦朧としていた意識が、蘇ってくる…。
霞む視線の先に、ただ一人の愛する人が居た…。
「ご主人! このままでは奥さんの命も危うい…。残酷な事を申し上げますが、どうかご決断ください!」
産婦人科医らしい女医が、焦った様子で尚隆に声をかけていた。
「……」
消毒薬の匂いに、母親の本能が危機を察知する。
美凰は懸命に声を出そうとしたが、言葉にならなかった。
〔いやよ! やめて!!! ぼうやを助けて!!! 尚隆さま!!! 尚隆…〕
「先生! 妻を…、妻を助けてください! 子供は…、諦めます…」
「いっ…、いやっ!」
涙を流していやいやと頸を振る美凰を、尚隆は抱き締めた。
「君を失うわけにはいかない! すまん…。選択の余地はないんだ…」
「いや…、いや…、赤ちゃんを、ぼうやを殺さないで…」
「美凰…」
「麻酔の準備をします。ご主人は待合室でお待ちください…」
尚隆は顔を歪めた。
「傍についていてやりたいのですが…」
女医は静かに首を振った。
「残念ながら…。どうかわたしたちに、お任せください…」
「……」
尚隆は腕の中で泣きじゃくっている美凰から、身を引き裂かれる思いでそっと離れた…。
麻酔が効き始め、意識が混濁した美凰は再び青い星と対峙していた。
『さよなら、ママ…』
身動きの取れない美凰は、両手を星に向かって差し伸べた。
『駄目よ! どうして…、どうしてなの、ぼうや! 待って! ママの処に還って来て!』
『わたくしの命を差し上げます…、ママはそういったじゃない。だから、ぼくが身代わりなんだよ…』
『そんな! そんな…』
美凰はどうしていいか解らず、身悶えながら涙をぽろぽろ零す。
『ママ…』
『駄目っ! それならママも行くわっ! ぼうやと一緒にママも…』
『ママはだめだよ…。ママには…、パパがいるから…』
心優しい柔らかな言葉に、美凰は泣き濡れた双眸を見開いた。
『ぼうや…』
『パパはママをとっても愛しているんだよ。そしてとっても後悔している…。ママだってパパを愛しているんでしょう? お願いだから、パパを見捨てないで…。そうすればぼく、いつかきっとママの処へ還ってこれるんだよ…』
『あっ…』
尚隆を見捨てる…。
考えた事もなかった。
見捨てられているのは自分の方なのに…。
どんなに愛し続けても、決して報われる事はない。
それがこの新年の間に、美凰の中でつけられた哀しい結論であった。
唐突に告げられた彼の愛の言葉は、とてもではないが信じられない。
信じる事が恐い。恐くて恐くてたまらないのだ。
散々酷い目に遭い続けた美凰は、素直に尚隆の言葉を受け入れる事が出来ないでいた。
尚隆を愛し続けることすら、疲れはじめていたのかも知れなかった…。
『…。神さまはそういってたよ。だからぼくはもうしばらく、ねむらなきゃならないの…』
黒々と澄んだ双眸に、新たな涙が盛り上がる。
美凰は嗚咽した。
『ぼうや…、わたくしのぼうや…。わたくしがもっとあなたを大事にしてたら…』
『ちがうよ、ママ。ごめんね…。だれのせいでもないから…、泣かないで…』
『お願い…、ママを見捨てないで…。ぼうやに見捨てられたら…、ママは生きていけないわ…』
『そんなことない…。ママにはパパがいる…。パパのところへ還ってあげて…。パパは、ずっとずっとママだけを、ママだけを求め続けていたんだよ…。これまでも…、そしてこれからも…』
周囲が少しずつ暗くなり、ぼんやり見えていた青い星がゆっくりと遠のいてゆく。
そうして、可愛らしい天使の声もか細くなっていった…。
『いやっ! ぼうやっ!』
『さよなら、ママ…。とっても愛してるよ…。パパには、負けちゃうけどね…』
その瞬間、息が止まりそうな激痛に美凰は腹部を抱えた。
『いやあぁぁぁ!!!』
『命を差し上げます。そう約束したのだから仕方あるまい…』
重厚なその響きは、神という存在の声だったのだろうか…。
青く輝く星に載った小さな命は、両親の前に姿を現さぬまま、永遠の眠りについた…。
遠かった声が徐々にはっきりと自分の耳に聞こえてきて、美凰はうっと声をあげた。
目を開けたくとも、目蓋が重くて開けられない。
「美凰っ! 美凰、しっかりしろっ! 俺が判るか?」
「美凰ちゃんっ!」
「……」
総ての処置が終わり、控室まで戻ってきた美凰の手を尚隆はぎゅっと握り締めた。
「麻酔が切れかけて意識が混濁なさっておられますから、大きな声で呼びかけてください!」
てきぱきと事後処理にかかっている医師や看護士たちにそう言われ、尚隆は文繍と共に何度も美凰に向かって呼びかけを繰り返していた。
「小松さん! 聞こえますか?! 小松さんっ!」
「…、っう、…、はぃ…」
弱々しいがこちらの呼びかけに応じて返事をした美凰の声に、尚隆と文繍はほっとした様子で顔を見合わせた。
「もう大丈夫ですよ。今、お部屋のご準備を整えてますから…。あともう少し処置をしましたら、直ぐに特別室のほうへお移り戴きますね」
「……」
「ご家族の方には色々と入院手続きのお話がございますので、待合室の方でもう暫くお待ちください」
「妻の傍から離れたくないんです。ここにいてはいけませんか?」
担当の看護士は憔悴していてなお、ハンサムな尚隆の様子に顔を赤らめた。
「で、でも…」
戸惑う看護士に向かって、声をかけたのは文繍だった。
「お願いします。義兄を姉の傍にいさせてあげて…。入院の事とか、手続きの事はあたしが聞きますし…」
「文ちゃん、すまない…」
「いいのよ…。あたし、手続きの事とか聞いたら、一度要の外科病棟に行ってきます。春も…、気を揉んでる事だろうし…」
春の名前が出た途端、尚隆の顔は強張った。
「あの女の名前は言わないでくれ…」
「義兄さん…」
「……」
哀しげな文繍の声に尚隆は詰めていた息を静かに吐き出し、視線を美凰に向けた。
眼下の美凰は時折、うっ、うっ、と痛々しい呻き声をあげている。
額に浮かんでいる脂汗をそっと拭ってやりながら、尚隆は叫び出したい思いを懸命に堪えていた。
誰のせいでもないことは解っている。
そして一番、悪かったのはこの自分である事も…。
美凰は、事故のせいで子供の産めない身体だと思い込まされていた。
奇跡の様な妊娠は、本来なら女としての喜びと幸せを美凰に与えるべきものだった筈なのに…。
尚隆のせいで美凰は素直に喜びを表わす事も出来ず、戸惑い、苦しみ、そしてこんなに無残な状況の中で子供を失うことになってしまった…。
折角芽生えた命を…、二人の子供の命を、尚隆は摘み取る事を選択しなければならなかった。
美凰があれ程『わたくしの赤ちゃんを殺さないで!』と懇願し続けていたにも係わらず…。
〔赦してくれ、美凰! だが、俺は…、今度こそ君を失うわけにはいかなかったんだ…〕
望んで身籠った子供でない筈なのに、美凰は子供の事を心から愛していた。
自分への愛に絶望している美凰の唯一の支えが、お腹の子供にあると知った時、尚隆の悔恨はますます深まったのだ。
もう、彼女の愛をこの手に取り戻す事は不可能なのだろうか?
「もう朱衡たちが到着している筈だろうから、事情を説明してやってくれないか。金の事は何も心配しなくていい。要君の手術の事も一切、俺が面倒を見るから…。安心して任せてくれ…」
「解ったわ。義兄さん。感謝します…、有難う…」
沈んだ声音のまま美凰から視線を逸らさない尚隆にそっと頷き、文繍は静かに踵を返したものの、扉に手をかけた瞬間、思いなおした様に今一度、義兄となった人を振り返った。
「義兄さん、赦してやってとは言わない。あたしが美凰ちゃんの立場だったら、もっと酷い事言ってると思う…。でも春はどんな時でも美凰ちゃんに対しては忠実だったわ。無論、あたしや要にも」
「……」
「義兄さんと美凰ちゃんにとってはどんな事をしても、取り戻せない5年だけど…、あたしと要は…、あの時、美凰ちゃんが居なかったら生きていけなかった…。春だけのせいじゃないわ。あたしと要にも責任はある…」
「……」
「ごめんなさい…。本当にごめんなさい…」
文繍はこみ上げてくる涙を懸命に堪えながら、返事のない尚隆を残して応急処置室を出て行った。
〔美凰…、すまない…。愛している…。君だけを愛している…〕
尚隆の双眸に熱いものがこみ上げる。
祈るように握り締める白い繊手が、点々と濡れた。
「美凰…」
遠い子供の日、母が自分の許に永久に還ってこないと知った時以来である。
裏切られたと思い込み、ひとりぼっちでニューヨークに飛び立った時すら、乾いたままだった尚隆の眸から悔恨の雫が落下し続けた…。
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