『ばあや…。このたくさんのお手紙はなんなの? これ、姉さまの字だよ。それにこっちは、外国からのお手紙じゃない? どれも封があいていないんだね…』
『ぼ、坊ちゃま! そ、それは…!』
『NA O TA…、KO MA TU?』
『……』
『これ…、義兄さまのお名前じゃないの? ねえ、ばあや。どういうことなの?』
『坊ちゃま…』
『それじゃあ…、義兄さまが…。あのお人形をくださったのは義兄さまだったんだ! だからあの時、ずっと…、ずっと好きだったとおっしゃったんだよ…』
『……』
『姉さまは…、ぼくと文姉さまの為にご結婚をあきらめたの? 貧乏だったから…、姉さまと義兄さまはおわかれしたの?』
『そうじゃないんです! 借金のせいでも、坊ちゃまたちのせいでもないんです! どうか…、どうかお赦しくださいまし! 春が…、この春が悪いんです! 春が間違っていたんです…』
『どうして春が悪いの? ぼくにはわからないよ…。義兄さまはどうして姉さまを見捨てたの? ずっと好きだったのならどうして…。姉さま、ずっとつらかったんだよ…。ぼく、知ってるの。ぼくの病気のせいで姉さま、お背中の傷が痛くてもがまんなさっていた事…。お薬も…、ぼくの為にずっとがまんなさって…』
『坊ちゃま…。小松さんは…、少しも悪くないんです! 春が…、お嬢様と小松さんの間を引き裂いたんです…。お嬢様が身動きできない状態であることをいい事に、こうやって頼まれていたお手紙を投函せずに、小松さんから届いていたお手紙を、ずっと隠していたんです…。お嬢様も、小松さんも、春のせいで愛し合っていらっしゃるのにお別れしてしまったんです…』
『そんなのおかしいよ! お手紙のお返事がなかったら、会いに行けばいいじゃない! 姉さまはぼくたちを育てなきゃいけないから、ごえんりょなさったんだ…。ぼくたちのせいなんだ…。ぼくの…、ぼ…、うっ! ううっ…』
『?! 坊ちゃまっ! 坊ちゃま、どうなさいました? いやあぁぁぁ! 坊ちゃまぁぁぁ!』
尚隆と美凰が阪大病院の救急病棟に到着したのは、心臓外科の世界的権威である乍驍宗執刀による要の手術が始まって、1時間近く経ちかけた時であった。
ICU特別待合室には、悄然とした様子で泣き続けている文繍と春がいた。
「あっ! 美凰ちゃん! お義兄さん!」
「ぶ、文繍! 来てくれたのね…」
よろよろと歩みを進める姉の手を、涙顔の文繍はしっかり握った。
「映画出演の打ち合わせが3時ごろに終わって、羽田から一番早い便に飛び乗ったの…。パーティーには間に合わないけど、美凰ちゃんのお祝いだもん。家族で一緒に過ごそうと思って…。そしたら…」
文繍は、床の上にうずくまってすすり泣いている春を睨みつけた。
美凰は吃驚して、春の傍に歩み寄った。
「春…、なにをしているの?! そんな所に座り込んでいたら冷えるじゃない。ソファーにお座りなさいな…」
しかし春は嗚咽を漏らしながら、首を横に振るばかりである。
「お、おじょう…」
「やめなさいよ、美凰ちゃん! 春なんかに優しくしちゃ駄目だよ! 春なんか、地べたで充分なんだから!」
美凰は、常にない妹の厳しい言葉に双眸を瞬いた。
「文繍! あなたなんてことを言うの! い、一体なにがあったの?」
文繍は憤慨した様子で、自分の横に置いてあった30cm四方の菓子折り箱を手に取ると姉に向かって差し出した。
「文繍?」
「3人で夕食を済ませた後に、要がお饅頭を食べたがって…。たまたまテーブルの近くにあったこの箱の蓋を開けたの…」
文繍は再び、咽び泣いている春を軽蔑するかの様に睨みつけた。
「酷いよ、春…。なんでこんな酷い事したの? 美凰ちゃんが5年前…、ううん! 今までどれ程辛い思いをしてたか、知らない春じゃないでしょうに!」
「申し訳ございません…。本当に…、お嬢様…。春を、春をお赦しくださいませ…」
美凰は訳の解らぬまま、呆然とした様子で箱を受け取った…。
「そんな!」
美凰の手から蓋の開いた古びた菓子箱がするりと落下し、床の上に中身が飛び散った。
尚隆は自分の足許に散らばった、封の切られていない手紙の数々を呆然と見つめた。
互いが互い宛に送り続け、絶望と渇望に揺れ動いた愛のシグナル…。
5年前の、とてつもない苦しみや哀しみが二人の心の中に奔流となって蘇った。
尚隆はゆっくりと床に膝を折り、一枚一枚、手紙を拾い上げた。
自らが書いたエアメイル。
そして…、シンプルで優しい色合いをした封筒に書かれた文字は、美しいものもあればミミズが這っているかの様な、ぎこちなく難解なものもある。
〔美凰は…、嘘をついていなかった…。漸くペンを持てる様になった時点で、こんなにつらい文字しか書けないにも係わらず、懸命に俺宛に手紙を…〕
美凰は、もはや立っていられない様子であった。
両手で口許を覆い、柔らかな身体をぶるぶる震わせている。
「美凰ちゃん、真っ青だよ…。とにかく座って…」
姉の心を慮り、文繍は無言の美凰をソファーにそっと座らせると、痛ましげに尚隆を見遣りながらしゃがみ込んだ。
「お義兄さん…。手伝うわ…」
「……」
文繍の言葉に応えず、尚隆は黙々と散乱した封書の回収作業を行った。
「ご自宅宛に届いたお手紙も、かかってきた電話も取り次がない様に誤魔化したのは、あたしです。お嬢様の携帯電話が交通事故で壊れてしまったのをいいことに…。ご自宅のお電話は、留守番電話にして極力取らない様にしている内に、借金取りに権利を抑えられましたから…」
春はぽつりぽつりと真実を打ち明け始めた。
その声は、心からの後悔に満ちていた。
美凰は眼を閉じ、俯いたまま春の告白を聞いていた。
「……」
「お嬢様から承りましたお手紙の総ては、そこにございます。投函した風を装い、一度も…、ただの一度も…」
「……」
脱力したように未開封の手紙の束を見つめていた尚隆は、やがて蹲っている春の胸倉を掴み、引きずり立たせた。
何もかもが誤りだったとは…。
愛する女をいたぶり続けたこの半年間は…、絶望に苦しみぬいた二人の5年間は一体なんだったのだ?
「くっそう! なんて事をしてくれたんだっ!」
「もっ…、申し訳…」
「お前の…、お前のせいで、俺達は…、俺は!」
鬱々とした思いと怒りの持って行き場を失い、理性を失った尚隆は、身を硬くして項垂れている春に向かって手を上げた。
「……」
春は尚隆の視線を避け、当然の報いを受ける事を悄然と受け容れていた。
「やめてっ!」
美凰の叫び声が、暴力を振るいかける大きな手をかろうじてとどめた…。
「お願い…、春を離して…。乱暴しないで!」
「美凰…。この女を許すというのか? この手紙が1通でも届いてくれていたなら、俺達は5年もの間を無駄にせずに済んだんだぞ!」
尚隆の言葉に、しかし美凰はゆっくりと頸を横に振った。
「いいえ、春のせいだけではありませんわ!」
「……」
歳月を物語る様に、少しばかり色あせてしまった封書を美凰はじっと見つめた。
「互いの愛を信じ切れていなかった、あなたとわたくしにも、責任はあるのよ…」
「美凰…」
「美凰ちゃん…」
ソファーから立ち上がった美凰は、真っ直ぐに尚隆を見つめた。
「要の言う通り…、互いに真実を見極める為に、直接相手の元へ訪ねていくべきだったんだわ…。わたくしたちにはその勇気がなかった…。勇気のない者に、愛を語る資格なんてない…」
淡々とした美凰の言葉は、今の尚隆にはあまりにも痛かった…。
「どうしてそんなに冷静でいられる! 君は…、君は悔しくないのか? 俺達は…」
「…。お願い、春を離して…」
尚隆は掴み締めていた春の身体を乱暴に突き放すと、自らの視界から遠ざけるようにくるりと春から背を向けた。
美凰がこの場に居なかったら、春を縊り殺してしまっているかもしれない。
尚隆は唇を噛み締め、拳を握り締めた。
怒りに肩を震わせている尚隆を尻目に、美凰は静かに乳母に近づいた。
「春…」
「お嬢様…」
春は涙で顔をぐしゃぐしゃにして美凰を見つめていた。
懸命に許しを乞うその姿は痛々しい。
だが、今の美凰には彼女を赦せるだけの、心のゆとりがなかったのだ。
「この間言ったわね…。春はものの見方や考え方が亡くなったお父さまそっくりだから、その心の有り様を改めない限り、後悔する事ばかりの人生になると…」
「はい…」
「春にすべての責任を負わせる気はないけれど、あなたはわたくしと尚隆さまの運命を恐ろしいまでに変貌させてしまったわ…。この5年の間の惨めなわたくしを見続けて、春は一度も後悔した事はなかったの?」
「……」
「尚隆さまが小松財閥の跡取りになられた事を知って、どんな気持ちになった?」
「お嬢…」
「わたくしが、尚隆さまと結婚して、大金持ちの仲間入りが出来て、嬉しかった?」
「……」
「再会した二人はなんのわだかまりもなく、めでたく幸せになったと思った?」
美凰の声は尚隆の心を冷ややかに貫く。
堪らなくなったのか、文繍が前に進み出て美凰の肩に手をかけた。
「美凰ちゃん、もうやめて…。それ以上興奮したらお腹によくないよ…」
文繍の制止に、しかし美凰はゆっくりと頸を振った。
先程から下腹部に忸怩(じくじ)たる痛みを覚えている。
哀しい予感は、しかし、悲痛な怒りに押し切られた。
「壊れた欠片を懸命に拾い集めて、糊で繋ぎ合わせても元には戻らない…。壊れた硝子は壊れたままよ。そして…、今のわたくしは懸命に糊貼りするよりも、壊れた部分を見つめながら嘗ての美しかった思い出だけを静かに追憶していたいの…。ひとりぼっちで、誰にも邪魔されずにね…」
その言葉に逞しい双肩はびくりと震える。
尚隆は静かに美凰を振り返った。
「ああ、春! どうしてわたくしの信頼を裏切る事が出来たの? あの時、あなただけが唯一の頼みだったのに! たった1通…、たった1通の手紙を投函してくれるだけで…、事態は変わってくれていたのでしょうに…」
美しい双眸に涙が盛り上がった。
「わたくしは、神様ではないわ…。そして、それ程に心の広い人間ではないの…。暫くはあなたの顔を見たくない! その内、赦せる時も来ると思うけど…、今は駄目…」
そこまで言うと、美凰は腹部を押さえながら文繍に寄りかかった。
「美凰ちゃん? どうしたの! 大丈夫?」
「ええ…」
無言の尚隆は気を取り直したかの様に足早に美凰に近づくと、文繍の肩から妻の身体を抱き取った。
「美凰…」
美凰は唇を噛み締め、尚隆の胸にぐったりとしがみついた。
「あ、赤ちゃんが…」
小さな呟きに、尚隆は床を見て愕然となった。
床には点々と血が滴り落ち、白いドレスの下腹部は見るまに紅く染まってゆく…。
「美凰っ! しっかりしろっ!」
「きゃあぁぁぁ! 美凰ちゃんっ!」
「お嬢様っ!」
文繍と春の悲鳴が同時に上がり、悲愴な顔をした尚隆に抱きかかえられたまま、美凰は意識を失った…。
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