耳がおかしくなったのではないだろうか?
あれ程に自分の事を罵り、蔑み、そして玩具にし続けてきた尚隆が、愛していると言った。
とてもではないが信じられない。
彼の心に変化があったとはとても思えないのだ。
美凰にしてみれば、尚隆がまた何か意地悪を思いつき、それを実行しようとしている風にしか見えなかった。
先程、夏蓮の暴言から庇ってくれた事も、それに関係しているのかもしれない。
尚隆に対して疑心暗鬼になってしまっている美凰には、素直に彼の言葉を受け容れるだけの余裕はなかったし、彼に対抗するだけの気力も残ってはいなかった。
「やめて…。お願い、やめて…」
頸を振って後じさりする美凰の手を、尚隆は逃がすまいと掴みしめた。
「美凰…」
「お願い! 今まで受けた仕打ちの中で一番酷い言葉だわ…。これ以上酷い嘘はつかないで…。愛してなんかいないわ…。愛の言葉を使ってわたくしを嬲りたいのなら、身体を玩具にする時だけになさって」
「頼む! 信じてくれ! 俺は君を…、君だけを愛し続けてきたんだ!」
余裕を失い追いつめられてしまった美凰は、尚隆の懇願を聞くことが出来なかった。
「やめて…、いやっ…、嘘よ…、聞きたくないわ!」
「美凰っ!」
揉みあっている二人の前に、不意に香蘭が現れた。
「お、お取り込み中失礼致します! 美凰様! 美凰様、大変でございます! か、要様が!」
美凰は尚隆に対する抵抗をやめ、香蘭を見つめた。
「たった今、春さんから連絡があって、要様が!」
「要? 要が一体どうしたと? こ、香蘭さん!」
尚隆のことも構わず、美凰は我を忘れて香蘭にしがみついた。
香蘭は哀しそうな様子で美凰を見返している。
「お夕食の後、急にお倒れになられて、救急車で阪大病院に搬送されたそうです…。心拍がかなり弱っていて…」
美凰は美しい双眸を張り裂けんばかりに見開いた。
「あっ! いや…、いやぁ、要ぇぇぇ!」
気違いの様な叫び声を上げた美凰の身体は、ぐらりと揺れた。
「美凰っ! しっかりしろっ!」
気絶しかけた美凰を、尚隆が背後から支える。
「香蘭! 急いで車を廻せ! 美凰、しっかりしろ!」
「ご準備は出来ております…。すぐにエントランスへ…」
尚隆の声に美凰は意識を失うまいと踏ん張り、よろよろと歩みを進めた。
しかし、ショックな事が続いたせいか、足がもつれてしまい、前に進めない。
美凰は両手で花顔を覆ってすすり泣き始めた。
「ああ、どうすればいいの…、動けないわ…」
尚隆は震える美凰を軽々と抱き上げると、大股に歩き始めた。
二人の周囲を、香蘭を筆頭にSPがガードする。
「俺と美凰は直ぐに病院に向かう! 白沢と朱衡に状況を説明してパーティーの事後処理にあたれと伝えろ!」
「畏まりました…」
SPたちがそれぞれの職務に散ってゆき、人々の好奇心剥き出しの眼差しの中、エントランスに到着した尚隆は、メルセデスの後部座席にそっと美凰を座らせ、自分は反対側から乗車しようと美凰の身体から離れかけた。
しかし美凰は、尚隆の上着を掴み締めたまま、懇願するように彼を見上げた。
「ああ! あなたお願い! あの子を…、要を助けて…。なんでもいう事をききます。どんなことでもしますから、あの子を助けて! 手術を、乍先生の手術を受けさせてやって!」
「美凰…」
「手術には、一千万円かかるんです。でも絵は盗まれてしまって、わたくしたちにはそんなお金はどこにもないの。絵が売れたら、あなたに借金を返して、残金で要の手術をして戴く予定だったんです。どうかお願い! あの子を助けて。代わりにわたくしの命を差し上げます! あなたの望みどおりにします。どんなことでも…」
「……」
こんなに惑乱した状態の美凰を見るのは、初めてだった。
そして尚隆は、自分が犯した罪の深さに、改めて恐れおののいた。
「美凰…、落ち着け…」
「要に万一のことがあったら、わたくしはひとりぼっち。文繍はもう一人でやっていけるようになってくれたわ。でも要は…」
「……」
「五年前のあの時、あなたとの愛に絶望したわたくしは、自殺を図ったの…」
尚隆は静かに眼を閉じる。
心の傷が叫び声を上げて、爆発してしまいそうだった。
「でも…、あの子達の声に呼び戻されて死ねなかった…。わたくしが居なくなってしまったら、何の苦労も知らない文繍と要は…。そう思うとあの子たちを置き去りにすることは、出来なかったの…」
「……」
うっと喉を詰まらせ、美凰は再びすすり上げ始めた。
「会長、美凰さまのお腹にこれを…」
背後から香蘭が美凰の体調を気遣い、暖かな膝掛けを尚隆に手渡す。
尚隆は車内の美凰の身体をそっと抱き上げて奥の座席へゆっくりと座り直らせ、下半身を膝掛けでくるんでやると、自分もすぐ隣に座って彼女の身体をしっかりと支えた。
「いいぞ、出発しろ! 急げっ!」
尚隆は震え続ける美凰の身体をしっかりと抱き締めたまま、メルセデスの出発を促した。
毛氈が真っ青な表情で車をスタートさせる。
車は瞬く間に、大阪の混雑した道から吹田に向かって加速を始めた。
「大丈夫だ…。要君には最高の治療を受けさせる。きっと助けてやるぞ!」
「……」
安心させる様に、尚隆は美凰の身体を優しく愛撫し続け、美凰はただ尚隆の胸にすがり付いていた。
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