皇帝円舞曲 3
「きゃっ!」

 ぴしゃりという音が鳴り響き、真っ赤な唇から吐き出されていた毒々しい言葉は小さな悲鳴にかき消された。
 周囲の眼も気にせずに喚き散らしていた夏蓮は叩かれた頬を手で押さえ、吃驚したように眼を見開いて、尚隆より一歩先に振り返って自分をぶった目の前の弱々しい女を見返した。
 先代の会長夫人と現会長夫人の争いを遠巻きに眺めていた招待客たちの中から、ざわめきの声が漏れた。

「あ…、あんた…、ぶったわね! こっ、このあたしを!」

 夏蓮はぶるぶる身体を顫わせ、自分を殴った美凰を睨みつけた。
 しかし美凰は怯まず、毅然とした態度で哀しげに夏蓮を見つめ返した。

「なんと醜いことを…。ご自分が恥ずかしくはないのですか? 亡くなられた方のことまで、そのような暴言を! それに出自が一体、何に関係すると仰るの? 詳しい事情は存じ上げませんが、例え先代の夫人でいらっしゃるあなたであろうと、尚隆さまや、亡くなった尚隆さまのお母さまのことを悪し様に言う権利などございませんわ! 非礼を詫びて撤回なさって!」

 唖然となった尚隆は怒りも忘れ、自分と自分の母の事を庇う凛然とした美凰を見つめていた。
 今までこんな態度で反撃された事がないのだろう。
 夏蓮は怒りの余り、支離滅裂に喚き出した。

「なっ、何よっ! こっ、この女っ! 何様のつもり! ちょっと綺麗な顔してるからって生意気言うんじゃないわよ! さっきの尚隆の話が本当なんだったら、処女を餌にベッドで尚隆を誑しこんだだけなんでしょ! こ、この子は母親の血を引いてすれっからしだから、あんたの処女の演技がかえって新鮮で、ちょっと嵌り込んじゃっただけなのよ!」

 声を震わせて涙を流し始めた夏蓮の態度に、呆然となった美凰の肩を尚隆はそっと支えた。

「行こう…。この女の戯言にはもううんざりだ!」

 促された美凰は尚隆に身体を預けた。



 吐き気がする…。

「ねえ尚隆、そうなんでしょ! あ、あたしを差し置いて、こんな小娘と結婚だなんて! あんたは騙されてるの! あ、あたしを抱いてみれば解るわ! こんな小娘、ベッドでは所詮マグロよ! マグロ! 今は物珍しいだけで、直に飽きちゃうに決まってるんだから…。あたしのベッドでのテクニックを味わえば…」

 尚隆はうっとおしげに舌打ちをし、醜く顔を歪ませながら縋りついて来ようとしている夏蓮に軽蔑の眼差しで一瞥をくれた。

「これ以上あんたにショックを与えたくないんだが。妙な誤解を吹聴されても困るから言っておく。俺と美凰とのベッドでの相性は最高でね…。あんたの貧相で下卑た想像なんか及びもつかない、最高のエクスタシーを毎日、体感してるんだぜ」
「……」

 恥ずかしげもなく堂々とそう言うと、尚隆は美凰を庇うようにしてその場を立ち去った。



〔相も変わらず、莫迦な女だわい! アソコの具合が良いだけが唯一のとりえじゃ…〕

 泣き崩れる夏蓮を小松直人はやれやれという目で見つめ、そしてその視線を自らの背後のカーテンの奥へと向けると、そこに立っている人物に軽く目配せをした。
 カーテンの奥から今までの様子をじっと見つめていた人物は、にやにやと口許を緩めながら外聞を構わずに泣き喚いて、侍女達に身体を支えられ宥めすかされている夏連の腰廻りをちらりと眺め、そして尚隆に護られて遠ざかってゆく美凰の肢体を注視しつつ、舌なめずりをしていた…。

〔俺の可愛い蝶々さん…〕

 それは狂気の様な、濁った眼差しであった。





 皇帝円舞曲が華麗に演奏され、幾組かのカップルが広々としたダンスフロアーで踊る中、尚隆と美凰も流れるように、そして優雅にステップを踏んでいた。
 ダンスは久しぶりだし、身体に障ることを考えた美凰は固辞したのだが、お披露目として一曲は踊らないと体面が保てないという言葉に従い、仕方なしにワルツの音楽に身を任せていたのだ。
 先程の夏蓮との対面で、美凰は殆どの気力を使い果たしていた。
 とにかく、静かに横になりたかったのだ。

「お願いです。このダンスが終わったら、もう…。わたくし、とても辛くて…」

 美凰の弱々しい声に、尚隆も頷いた。

「客の見送りは朱衡たちに任せる。あと少しだ。最上階のスウィートを取ってあるから、このダンスが終わったら休め。月梅たちも来ているし、新しく産婦人科の女医も雇い入れた。なかなかよさそうな医者だから、安心して身体をいとうといい…」
「……」

 先程、夏蓮から投げつけられた言葉は、美凰に少なからぬ衝撃をもたらした。
 あの会話から察するに、義母である夏蓮は後継者争いの際、尚隆の後を推したのだ。
 恐らくは彼の愛を、その肉体を自分のものとする事を交換条件に…。
 美凰は無言のまま、自分の身体に廻されている逞しい腕に視線を這わせた。
 今、自分を抱き寄せていこの腕は、あの美しい義母の身体を抱いたのだろうか?
 目的の為には手段を選ばぬ尚隆の事、大胆にも父の妻を盗むという言語道断な仕儀に及んだとて、今更驚きはしない…。

〔驚きは…、しないわ…〕

 美凰は朱唇を噛み締め、双眸を閉じた。
 嫉妬と不貞に対する嫌悪に、身体が小刻みに震える。

〔いいえ! やっぱり駄目っ!〕

 突然、美凰はその場に立ち止まった。

「…。どうした? 気分が悪くなったのか? 震えている…」

 尚隆は美凰の顔を覗きこみ、双眸を見開いた。
 美しい頬に涙が伝っている。
 驚きに尚隆が手を離した一瞬、美凰は彼の身体を軽く押しやった。

「ごめんなさい。少しだけ、ひとりにして…」

 そう囁き、嗚咽を抑えながら美凰は早歩きで専用の庭園に続くバルコニーに向かった…。
 美凰の哀しげな声に、尚隆は呆然としたまま動く事が出来なかった。



「あらあら! 結婚披露パーティーで花嫁さんを泣かせるなんて…。相変わらず罪な人ね?」

 聞き覚えのある声に背後を振り返った尚隆は、眸を眇めた。
 そこには真紅のデザイナーズブランドドレスを纏った金髪美人、嘗ての妻リンダが強張った微笑みながら立っていた。

「リンダ! 何故ここに!」

 リンダは剥き出しのほっそりとした肩を軽く竦めた。

「貴方のご招待客のパートナーとして来たのよ。こそこそ潜り込んだわけじゃないわ…」
「……」

 リンダは、憮然としている尚隆に手を差し伸べた。

「北京では随分お世話になったわね? 一曲踊ってくれる?」
「悪いが、君を相手にしている時間はない…」

 リンダを無視し、尚隆は美凰を追いかけようとした。

「なによ! 折角の結婚披露パーティーで、前の妻に大騒ぎされて、あの女に余計な心労を与えたいわけ?」

 尚隆の歩みが止まった。

「……」
「さっきの騒動、聞いてたわ。彼女、かなりダメージ受けてるわよ! 次はあたしが騒動を起こしちゃっていいのかしら? まあ、周囲の人たちは楽しんでくれると思うけど…」
「……」

 尚隆は舌打ちをしつつ、香蘭とSPが美凰の後を追いかけている事を目端で確認すると、くるりと振り返り、差し伸べられているリンダの手を取った。

「曲が変わった…。一曲だけだぞ…」
「……」

 リンダはにっこりと笑った。
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