皇帝円舞曲 1
「なんてお綺麗なんでしょう!」
「本当に…。もううっとりですわ! 会長もきっとご満足なさいますよ!」
「……」

 真っ赤になった李花と明霞に誉めそやされ、支度がすっかり整い、ドレッサー前のスツールに腰掛けていた美凰は、鏡の中の自分をぼんやりと見つめながら、機械的に仕上げの香水を手頸から耳朶にそっと移すと、溜息をついて静かに眼を閉じた。
 ここは唐媛のエステティックサロンの特別室。
 間もなくサロンがある同じホテル内の孔雀の間で、小松尚隆と花總美凰の入籍披露パーティーが始まるのだ。
 招待客は小松財閥関係の主だった面々であった…。



 年が明けて一週間後、要の新学期を機に美凰は単身、大阪に戻った。
 正月の三ヶ日以降、尚隆とは殆ど顔を合わせていない。
 仕事が多忙との事で、美凰とお腹の子供の体調や食事などには随分と気遣ってくれていたが、年末の夜以来、寝室に訪れる事もなくなった。
 ともすれば会話すら詰まりがちな様子の尚隆の態度に、美凰は一つの結論を導き出していた。

〔わたくしは、飽きられたのだわ…〕

 美凰への深い愛を自覚した尚隆が、己を愧じる余りぎこちない態度を取ってしまっている事に気づかないまま、美凰は己の殻に閉じこもり、次第に尚隆を避けるようになっていった。

〔わたくしにはもう、あなただけ…〕

 肩も胸元も背中も露わな黒いドレスに身を包んだ美凰は、珊瑚色の口紅が美しく刷かれた艶やかな唇を噛み締め、まったく目立たない腹部をそっと撫でた。
 自ら選んだフランスの一流デザイナーズブランドのドレスは、シルクとレースで仕立てられた恐ろしくセクシーなロングドレスであった。
 トップはファンデーションなしで身につけることが出来るので、下着として着用しているものは黒レースのショーツとガーターベルト、それに黒い絹のストッキングのみである。
 背後が絹リボンの編み上げになっているので、背中の傷が見え隠れする事に美凰は一瞬躊躇したが、明霞が髪を結わずに梳き下ろしたままのヘアスタイルで上手く傷隠しを出来る様にアレンジしてくれた。
 乳房の膨らみがカップから今にも零れ落ちそうな程、白い胸の谷間が強調されたトップ。
 柔らかなヒップから腿にかけてのぴったりとしたボディラインは、男という男のSEX願望を刺激せずにはいられない程に性的魅力を露わに魅せている。
 頸許と耳朶には、東京で尚隆から買い与えられたダイヤのネックレスとイヤリングが燦然と光り輝いていた。
 このドレスを選択した際、唐媛と桂英は口を揃えて美凰を諭したが、彼女は頑なに頸を横に振った。

「ご結婚の披露パーティーなのですから、少しおとなしめのドレスになさった方が…」
「いいえ。これにします…。尚隆さまはきっとお喜びになりますわ…」
「……」

 身体だけの存在である自分には、身体を強調したドレスが相応しい。
 美凰は鏡の中の青白い顔に向かって、自嘲の笑みを洩らした。
 黒い絹の長手袋を嵌めている最中にドアがノックされ、尚隆の声が聞こえた。

「支度は整ったか?」

 李花が扉を開くと、黒いタキシードに身を包んだ尚隆がつかつかと室内に入ってきた。
 美凰はゆっくりと立ち上がり、尚隆を振り返った。

「!」

 尚隆は美凰の姿に息を呑み、凍りついたかの様にその場に立ち尽くしてしまった。

「…。なんて…、格好をしている?」

 美凰の姿を上から下まで凝視した尚隆は、一瞬、生唾をごくりと飲み込んで瞠目したが、やがて拳を握り締めると肩を震わせ始めた。
 頤を強張らせて硬い表情をしている尚隆の後ろには、唐媛と桂英が、やはりという表情でおろおろと立っている。
 尚隆の顔色に気づかず、美凰は化粧台の上に置いてあったビロードの宝石箱から、豪華なエンゲージリングを慎重に取り出すと左手の薬指にするりと嵌めた。

「? 支度は整いましたわ…。手袋の上からではマリッジリングは嵌りませんの。エンゲージだけでよろしいかしら?」
「美凰…」
「こんなに豪華なダイヤモンドなのですもの。マリッジリングがなくてもこれ一つであなたのお立場と、小松財閥の対面は保てますでしょう?」
「よせ…」
「ネックレスとイヤリングで充分着飾ってますし」
「やめろっ!」

 搾り出す様な怒りに満ちた男の声に、美凰が不思議そうに尚隆の顔を見た刹那…。
 開け放っていたドアが突然『だんっ!』と大きな音をたてたので、美凰は一瞬、びくんと肩を顫わせた。
 尚隆が握り締めていた拳が力任せに扉を殴りつけたので、戸板は見事な凹み傷を負っていた。

「?」

 美凰以外のその場に居た全員が、小松財閥最高権力者の激怒を肌で感じ取り、竦みあがったのは言うまでもない。

「一体…、どう、なさいましたの?」

 美凰はといえば、夢から醒めたような表情で唖然と立ち尽くしていた。

「……」

〔怒っていらっしゃる…? どうして? 一体、何がお気に召さなかったのかしら…?〕

 尚隆の怒りの理由が、美凰にはまったく解らなかった。

「尚…」
「唐媛! お前のセンスの良さには全幅の信頼を置いているというのに! この格好は一体なんだっ! 俺の妻はコールガールではないぞ!」

 尚隆の常軌を逸した怒声に、唐媛は深々と頭を下げた。

「申し訳ございません! 会長…」

 呆然としていた美凰は、反論せずに詫びている唐媛の態度にはっとなって前に進み出た。

「待って! 待ってください!」

 しかし美凰の言葉は、尚隆の吼えるような声にかき消された。

「すぐに他のものに着替えさせろ! こんなセックスシンボル然とした姿であのハイエナどもの前に出すわけにはいかん! もっと新婚の花嫁らしい、結婚披露に相応しい清楚なドレスがあるだろうが!」
「これは唐媛さんが選んだものではありませんわ! わたくしが自ら選びましたのよ!」

 艶麗な唇から凛然と放たれた言葉に、尚隆は息を呑んで双眸を見開いた。

「…。君が…、選んだ?」

 美凰は溜息をつきつつ静かに頷いた。

「唐媛さん達は反対なさいましたけれど…、わたくしがお願いして、このドレスを選びましたの。だ、だって…、あ、あなたのお気に触るとは、思ってもいませんでしたもの…」
「……」
「あ、あなたは、いつでも肌の露わな、こういう装いをお好みでいらっしゃいますし…。以前から、女学生みたいな装いはやめろと…」

 真っ赤になって狼狽した美凰は、ベッドルームでの尚隆の嗜好を淡々と告げた。
 今まで誤解を発端に彼女を嬲り、翻弄し続けた尚隆の意地悪の結果を、美凰は他意なくそのまま投げ返してきているだけなのである。
 呆然と、言葉を失った様子の尚隆に、唐媛は宥めるように声をかけた。

「会長、ご安心くださいませ。きちんとしたドレスを他にご用意しておりますので、大至急お召し替え戴きます。少しばかり、お時間を…」

 尚隆は逞しい肩を落として、悄然とした体で美凰に背を向けた。

「…。あいつらを待たせておくぐらい訳もない。すぐに支度に取り掛かってくれ…」
「畏まりました…。さあ…、美凰様」

 美凰は解らないという表情で、ハンサムな顔を歪めている尚隆を見た。

「あなたのお望みどおりにしているだけなのに、どうして怒っていらっしゃるの?」
「……」

 美凰の問いかけに尚隆は答えず、ばたんと扉を閉めて部屋を出て行った。





『会長は美凰様を飼い殺しになさるおつもりですか? このままでは美凰様は言葉も知性も忘れた、只のお人形さんになられておしまいですよ。心をなくした美しい』

 ふいに朱衡の言葉が頭をよぎり、尚隆はサロンの入口まで歩みを進めると、脱力したように傍にあったソファーに腰を下ろした。

〔俺のせいだ…。美凰は…、俺の美凰は人形になり始めている…〕

 尚隆は両手で頭を抱え、がっくりと項垂れた。
 胸に巣食う悔恨は日増しに大きくなってゆく。
 嘗て愛し、今も心から欲している女の心は崩壊しつつある。
 弱々しいお嬢様に見えて芯は意外としっかりしている、流されているように見えて自己の信念ははっきり持っている美凰の筈だった。
 外面の美しさだけに心惹かれたのではない。
 類稀な彼女の心栄えの美しさと知性の輝きが、孤独な尚隆を虜にしたのだ。
 それなのに…。

〔俺は…、何故言えないんだ?! 簡単な事じゃないか? 君を愛している…、君だけをずっと愛し続けてきた。過去の事なんかどうでもいい。今までの仕打ちを、どうか赦してくれと…〕

 不思議そうに尚隆を見つめていた黒曜石の様な美凰の双眸からは、理知の輝きは喪われていた。
 痛々しいばかりに哀しみを露わにした瞳の色。

〔俺を愛してくれているようには、とても見えない。あれは俺に恐怖し、怯え、嫌悪している眸だ〕

 あの眼の色を見て、なお告白する勇気など尚隆にはなかった。
 どんな事も恐れず、時には強引なまでに自信に満ちた行動を取る尚隆であったが、恐かった。
 愛する美凰の拒絶が、ただ恐かった…。
 そして、こんなに心を痛めているというのに、彼女のあの黒いドレス姿に身体中が性的欲望の虜になってしまう自らの本能を、尚隆は蔑んだ。

〔美凰が欲しい…。あの身体も、あの心も、総てが欲しい! 俺は一体、どうすればいい…〕

 呻き声を洩らすまいと唇を噛み締め、尚隆は上着の内ポケットから小さな桐の木箱を取り出した。
 蓋を開けて中身を確認する。
 昨日からもう何度、同じ事を繰り返した事だろう。
 苦悶する尚隆は、木箱の中をじっと見つめ続けていた。
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