結婚 6
「姉さま! お願いだから泣かないで…」

 要は姉の取り乱し様に慌て、啜り泣いている美凰をおろおろと見上げると落ち着かせようと、そっと身体を揺すぶった。

「…っ、…して…、愛して…、るわ…。愛して…、尚隆さま…」
「姉さま…」

 小さな弟の心配げな声と温かい手の感触に、美凰は必死になって嗚咽を飲み込んだ。

〔ああ! いけない…。我慢しなきゃ…。要たちに心配をかけてはいけないわ…〕

「……」
「姉さま、泣かないで…。どうして哀しいのか、ぼくわからないんだけど…。義兄さまを、お好きなんでしょ?」

 そう言って、要がそっと差し出してくれたハンカチを美凰は受け取り、しゃくりあげながら涙を拭った。

「…、ええ…」
「そのう…、愛していらっしゃるのにどうして泣くの? 義兄さまも姉さまを愛していらっしゃるのでしょう? 愛し合っていらっしゃるのなら、泣くことなんてなにもないと思うのだけど…」
「ご、ごめんね…。姉さま…、お腹に赤ちゃんがいるから、時々泣きたくなるの…」

 要は不思議そうに首を傾げた。

「赤ちゃんが、泣けっていうの?」
「ううん…、そうじゃないわ…。赤ちゃんをとっても愛していて、幸せにしてあげたいから色々考えてしまうの。そうしたら、涙が出てきただけ…」
「幸せになりたくて、泣くの? それじゃ、今は幸せじゃないの? お互いに愛していらっしゃるのに、幸せじゃないの?」
「……」

 弟の鋭い言葉に、美凰は強張った微笑をその美しい面に浮かべた。
 答えることは出来なかった…。





〔愛している…? 美凰が…、美凰がこの俺を愛している?!〕

 辛うじて立っているのがやっとの身体を、尚隆はバスルームのドアに凭せ掛けた。
 信じられない…。
 尚隆は双眸を閉じると、眼元をそっと覆った。
 美凰が…、未だに自分を愛してくれていようとは…。
 再会から半年余り。
 数々の非道と酷過ぎる扱いをおいてなお、彼女の愛は自分のものだというのか?
 愛なんかいらない…、身体だけがあればいいとずっと自分に言い聞かせ続けてきた。
 心の奥底では美凰の愛を求めて、狂おしい程の思いを抱き続けていたにもかかわらず、決して認めようと、正面から向き合おうとせず、か弱い美凰に埒もない己の弱さを押し付け続けていたというのに…。
 それなのに…。
 美凰は5年前に離れ離れになった時から、寸分変わらずに俺を愛しているというのか…。

〔なんて…、なんて事だ…。俺は…〕

 家族の為にと脅迫して自分の情婦になる約束をさせた。
 誤解からとはいえ、強姦にも等しい行為で彼女の処女を奪って弄んだ。
 傷ついた己の5年の日々を取り戻す為、蔑みの言葉とSEXで彼女を追いつめ続けた。
 自分の子供を妊娠した彼女を優しく気遣ってやる事すらせずに罵声を浴びせ、彼女の意思に係わらず無理矢理結婚した…。
 そして…、尚隆はもう一つ、決定的な罪を犯していた…。

「要…、姉さま、喉が渇いたわ…。申し訳ないんだけど春にお願いして温かいミルクを貰ってきてくれる? お砂糖を1杯だけ入れてね…」

 美凰の弱々しい声に、尚隆ははっとなってバスルームのドアをそっと開けた。
 だが美凰も要も、尚隆の気配に気づかなかった。

「いいけど…、お一人にして大丈夫? 義兄さまを呼んでこようか? 晩御飯を戴いた後、文姉さまや唐媛さんたちとお喋りしていらしたんだけど…」

 美凰はそっと頸を振った。

「いいのよ…。お喋りのお邪魔をしてはいけないから…。こっそり頼んできてね…」
「…、うん…。わかった…。じゃ、ちょっと待っててね…」

 要は溜息をつきながら、姉の寝室を後にした。
 結婚したばかりだというのに、姉と義兄の間はなんとなくぎこちない。
 義兄の傍に居て、姉が心から笑った表情を見たことがないのだ。
 聡い要は、子供心にそのことをとても不安を感じていた。



 美凰はぐったりとした様子で、雛人形を抱き締めながらそっと仰臥すると、放心した眼でぼんやりと天井を見上げながら、静かに腹部を撫で続けた。
 恐ろしい程に神経がささくれ立っている…。

〔恐い…。心が落ち着かない…。とても恐いわ。何もかもが…。わたくしがこんなに不安定な状況では、赤ちゃんはさぞ辛いだろうに…。わたくしの赤ちゃん…、どうか、どうか無事に育って…。わたくしにはもう、あなただけなの…〕

 美凰は静かに眼を閉じた…。
 ベッドサイドに、音もなく近づいてきた尚隆に気づきもせずに…。







 ホットミルクをお盆に載せて、美凰の寝室に戻ってきた要は瞬きをした。
 眠ってしまった様子の美凰の傍に、尚隆が腰を下ろしていたからだ。
 ハンサムで優しい義兄の表情は見たこともない程、冥い色に満ちている。
 声をかけるにも憚られる様子であった。

「あ…、あのう…。ぼく…」

 黙って食い入るように美凰の寝顔を見つめていた尚隆は、要の存在に気づいて顔を上げた。

「ああ…。ホットミルク…、持ってきてくれたのか?」
「あ…、はい…」

 動けずにいる要の傍に、立ち上がった尚隆が静かに近づいてきた。

「有難う…。要君…」

 要が慎重に持っていたお盆の上から、甘い湯気の立つマグカップを尚隆は受け取った。

「でも姉さま、眠ってしまったみたいだから…。これ、俺が貰ってもいいかな? 姉さまには後でまた俺が作って持って来るよ…」
「…ええ、どうぞ…」
「有難う…」

 要はちらりと美凰に眼をやり、そしてマグカップを持って自分を見つめている尚隆を見上げた。

「あの…、ひとつだけ、うかがってもいいですか?」

 じっと見上げてくる澄んだ双眸は、どことなく美凰に似ている。
 尚隆は膝を折ってしゃがみ込み、要の目線に合わせた。

「なんだい?」
「姉さまを…、姉をお好きなんですよね?」

 尚隆はぴくりと眼元を震わせた。

「……」
「愛していらっしゃる?」

 この穢れを知らぬ子供に嘘がつけるだろうか…。
 尚隆は真摯な表情で静かに頷いた。

「愛しているよ…。心から…」
「義兄さま…、本当に?!」
「ずっと愛し続けていた…。ずっと…、美凰だけを…」

 尚隆の力強い双眸の色に『ずっと』という言葉に引っ掛かりがあったものの、要はほっと安堵した表情でにっこり微笑んだ。

「ごめんなさい。変な事をお聞きして…。なんだか、お二人のご様子がとっても不思議だったから…。あの…、気を悪くなさらないでくださいね…。ぼく、安心しました…」
「……」
「それじゃ、あの…。おやすみなさい…、義兄さま…」
「ああ、おやすみ…。ミルク、有難う…」
「いいえ…」

 要は嬉しそうにぺこりと頭を下げると、静かに寝室を出て行った。





 尚隆はベッドに戻ると、マグカップをサイドテーブルに置いて美凰の傍に跪いた。
 泣き疲れて眠ってしまった美凰の手から雛人形が取り上げられ、尚隆は随分傷みを帯びた人形を手の中でそっと撫でた。
 どうして別々の道を歩んでしまったのか…。
 幼い頃、母を待ち続けて捨てられた傷は、尚隆に誤った選択をさせてしまったのだ。
 勇気を奮って自らの足で真偽を確かめ、そして迎えに行くべきだった。
 そうすれば美凰が辛い思いをする事もなく、自らが孤独に苦しむ事もなかった…。

〔俺の方こそ…、君の様な可憐なお嬢様に愛される資格がないと思い込んでいた。自信がなかった…。君に、愛されていないという真実を確認するのが恐かった…。君は待って待って、待ち続けてくれたのだろうに…〕

 自分の心の弱さを美凰のせいにして、恨み続けたこの5年間は一体なんだったのだろう…。
 待ち続けることの辛さや苦しさは、尚隆自身が一番よく知っている。
 そして答えが帰ってこないと知った時の絶望感…。
 それでも美凰は、変わることなく愛を貫き続けてくれていたのだ。
 あの時、否定していたが、結婚した神宮司の愛を拒んだ理由もおそらくは…。
 恐ろしいまでの後悔の念が尚隆を襲った。

「…。美凰…、俺は君を…、俺こそ君を愛している。心から…」

 尚隆は跪いたまま美凰の白い繊手を取ると、何度もキスを繰り返して頬を寄せた。

「愛している…。俺達、もう一度やり直そう。きっと幸せにする…。君も、子供も…、きっと幸せにしてみせる…」

 尚隆の心からの告白は、眠っている美凰の耳には届いていなかった…。
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