結婚 5
 慌ただしい一日が漸く終わった。
 明日は新年である。

〔わたくし…〕

 ぼんやりと目覚めた美凰が頸を廻らせてサイドテーブルの時計を見ると、午後の8時を過ぎていた。
 上掛けの下はきちんとナイティを纏っている。
 淫らなひとときの後、二人でシャワーを浴びた所までは朧げに覚えているのだが…。
 尚隆は意識が朦朧としている美凰の濡れた身体を拭い、素肌にナイティを着せ掛けてくれたのだ。
 美凰はそっと起き上がると、傍に散らばっていたローズピンクのセクシーな下着を掻き集めながら気怠げに枕に背中を凭せ掛け、がっくりと項垂れた。

〔羞かしい…〕

 尚隆に翻弄され、おめおめと辱めを受けてしまう自分自身が情けなくも恥ずかしい…。
 何よりも辛いのは、愛する尚隆に愛情の欠片を求めてしまう自らの弱い心、その心を裏切って隅々まで満たされている自らの身体である。

〔どうすればいいの? 偽りの愛の言葉に縋ってしまうわたくしは…。〕

 不意に人の気配を感じ、尚隆かと思った美凰は上気した花顔を更に赤らめて身構えた。
 しかし、ベッドサイドに遠慮がちに立っていた影は、小さな弟だった。

「要…」

 美凰はほっと胸を撫でおろした。

「姉さま…、ごめんね。起こしちゃった?!」

 美凰は優しく頸を振り、静かに微笑むと弟に向かって手招きをした。

「ううん、いいのよ…。こちらにいらっしゃい…」

 要はもじもじとしながら、それでも嬉しそうに姉の傍に近づいた。

「小松さ、ううん…。義兄さまに、姉さまはお加減がお悪いから寝かせておいてって言われたんだけど…」

 美凰は要の小さな手を握り、綺麗にカットされた黒髪を優しく撫でた。

「大丈夫よ…。ごめんね、要…。この頃ずっと傍に居てあげられなくて…。それに、夏休みからずっと約束していた『ディズニーランド』にも連れて行ってあげられなくなって…」

 要は頬を染めてにっこり微笑んだ。

「大丈夫だよ。あのね、実は六太さんがね、東京にいる間に連れて行ってくれるってお約束してくれたの…」

 美凰は驚きに双眸を見開いた。

「まあ! 六太が? 本当に?」
「うん。李花さんと明霞さんもご一緒だって…」

 六太の温かい心遣いが、美凰に幾分の落ち着きを与えてくれる。

「そう…。よかったわね…。姉さま、約束を破り続けている事がとっても気がかりだったから…。本当に嬉しいわ…」

 美凰のほっとした様子に、要は少しだけ哀しそうな表情を作った。

「でも僕…、本当は姉さまと行きたかったんだ…」
「……」

 この夏からずっと、弟には寂しい思いをさせ続けていた。
 尚隆には『過保護過ぎる』といつも嫌味を言われていたが、美凰にとっては愛しい弟である。
 独占欲の強い尚隆は要にまで嫉妬しているのだ。

〔わたくしは…、わたくしたちはこれから一体、どうなっていくのかしら…〕

 心臓に持病を持つ要にまで、辛く寂しい思いを強いらせている。
 美凰の思い悩みは尽きなかった…。

「ごめんね、要…。姉さま、元気になったらきっと要と行けるようにするから、もう少しだけ我慢してね…」
「うん…。でも赤ちゃんが産まれるまでは駄目なんでしょ? それに…、赤ちゃんが産まれたら、姉さまは赤ちゃんに夢中になって、ぼくの事、忘れちゃわない?」
「まあ! 要ったら、何を言うの!」
「だって姉さま、赤ちゃん大好きでしょ…。ずっとお世話してあげなきゃいけないし、そうしたらまたぼく…」

 美凰は哀しそうに涙ぐむ要を、ぎゅっと抱き締めた。

「莫迦な事を心配しないの。赤ちゃんが産まれても、要は姉さまの大事な大事な弟よ。愛しているわ…、とっても…」
「姉さま…」

 甘いいい匂いのする柔らかな胸に顔を埋め、要は久しぶりに大好きな姉に甘えられて、嬉しそうにほっとした表情を見せる。
 その様子を、隣室である尚隆のベッドルームと間でつながれたバスルームの扉の前で、美凰の様子を窺いに来た尚隆が黙って立ち聞きしていたとも知らずに…。



「姉さま…、あのね…」
「なあに?」
「あのね…、乍先生の事なんだけど…」

 思わぬ名前が弟の口から漏れ、美凰は眸を見開いた。

「…。乍先生?」

 小さな形のよい頭はこくりと頷いた。

「姉さまのご結婚のこと…、ご存知でないんでしょう?」
「……」

 要は驍宗のことが大好きなのだ。
 驍宗が姉を愛している事も、子供心に気づいていた。
 彼にしてみれば、義兄と呼ぶのは尚隆でなく驍宗であって欲しかったに違いない。

「新学期には、一緒に大阪へ帰れると思うから、今回の定期健診は姉さまが一緒に行くわ…」

 要は不安そうに顔を上げた。

「でも…、無茶しちゃだめだよ…」
「あら…、行く先は病院なんだから、大丈夫よ…」

 姉の軽口に、要は可愛い顔を顰めた。

「姉さまったら…、ちっとも可笑しくないよ! その冗談…」

 美凰はくすくす笑い、それでも神妙な顔つきになって要に頭を下げた。

「そうね。悪ふざけはいけないわ…。ごめんなさい。でも姉さまが同伴するわ。…、先生に会って、お返ししなければならないものがあるの…」
「?」

 何かを思い起こしているかの様な姉の表情に、要は頸を傾げた。



「そうだ! はい、これ…」

 ふいに要は、手にしていた美凰のお手製の巾着袋からごそごそとあるものを取り出した。

「お電話でおっしゃってたもの、持ってきたよ…」
「まあ…」

 要が美凰に差し出したものは5年前、尚隆からプレゼントされたディズニーの雛人形であった。
 美凰にとって、唯一の宝物である人形はこの夏の空巣騒動の為、女雛の首の部分がもげてしまい、要が接着剤で綺麗に修繕してくれていたのだ。

「でも…、小松さ…、ううん。義兄さまとご結婚なさったのに…、いけない事じゃないの? これ、姉さまが前にご結婚のお約束をなさった人からいただいたんでしょ?」

 弟の訝しげな問いかけに、美凰は接着されたデイジーダックの継接ぎ部分をそっと撫でながら、ぼんやりと呟いた。

「そうね…。随分、お変わりになられたわ…。もう、わたくしが好きだった方はどこにもいらっしゃらない…」
「姉さま? 誰の事をおっしゃってるの?」

 美凰は哀しい微笑を口許に刷いた。

「ううん…。きっと最初から間違っていたんだわ…。姉さまは勝手な夢を見て、幻を愛し続けていたのね…。だってあの人が、十八歳の世間知らずを愛してくれる筈がないんだもの…。あの人にはシャネルの口紅が似合う、セクシーな…、リンダさんの様な美しい大人の女性でなければ、いけないのに…」
「姉さま?」
「結局、お父さまや春は…、間違ってなかったのね…。身体だけ…。わたくしは身体だけの存在なんだわ…」

 黒曜石の様に美しく輝く双眸から、涙が零れ落ちる。

「……」
「指輪も、ドレスもいらない…。パーティーもうんざり…。わたくしには…、このお人形をくださった幻のあなただけ…。わたくしの真心を奉げられる人は、もうどこにも居ない…」

 美凰は呆然としている要の眼前で、人形に頬刷りしながらか細く嗚咽し始めた。

「姉さま! いったいどうなさったの?! 泣かないで…。お願いだよ…」
「……」

 両手で花顔を覆ってひっそりと泣き咽ぶ姉の様子に、要は必死になって声をかけ続ける。
 バスルームの扉の取っ手にかかった手が、辛うじて留まった…。
 大きなその手は小刻みに震えている…。
 尚隆は呆然とした表情のまま、その場に立ち尽くしていた。
_70/95
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