結婚 1
『あんな、どこの馬の骨ともわからぬ男と結婚するだと?!』
『失礼な事を仰らないで、お父さま! 尚隆さまはご立派な男性ですわ!』
『お前はまだ子供だから、みてくれに惑わされているのだ。…。まさかと思うがお前、お父さまに顔向けできない恥ずかしい身体にされてしまったのではないだろうね?!』
『! なんて事を仰るの! 尚隆さまはそんな破廉恥な方じゃありませんわ! 第一、きちんとご挨拶を申し上げにいらっしゃったあの方に、お父さまもお母さまも、そして春もあのようなご無礼な態度をお取りになられて…。恥ずかしいとお思いになりませんの?』
『絶対に赦さんっ! 例えあの小松財閥の血縁とはいえ、妾腹のはみ出し者にお前をくれてやるわけにはゆかん!』
『お父さまっ!』
『美凰、我が家にはお前しかいないのだ! 血筋も家柄もよい財産家と結婚してお父さまを…、皇族に連なるこの花總家を護る義務が、お前にはあるのだよ…』
『お父さま?!』
『お前ほどの類稀な美貌、その上男を知らぬ処女であれば市場価値は倍増だ。いくらでも金を出すという男は大勢居る。なぁに…、相手が少々年寄りであろうが安定した贅沢な生活を、この花總家にもたらしてくれるのであれば…、結局はそれがお前にとって、女にとって一番の幸せなのだ…』
『なんて事を…。わたくしは品物ではありませんわ!!! お父さま方の人形では!』
『美凰!!!』
『わたくしはあの方を…、尚隆さまを愛しているの!!! あの方の傍へ行きますわ!!!』

 ボストンバッグを片手に、尚隆が待つ成田空港へ向かおうとした娘を追いかけて、その腕を掴まえた父と義母。
 揉み合う親娘の眼前に大きなクラクション音が響き渡り、一瞬の衝撃の後はなにも解らなくなった。

『行かなきゃ…。空港へ…。あの方が、きっと待っていらっしゃる…』

 その一筋の思念が、苦痛から解放される死の淵から美凰をこの世に繋ぎとめたというのに…。







「お嬢さま、バルコニーは冷えます…。あのう…、お、お身体に障りますから…」

 物思いに耽っていた美凰は、はっとなって声の主である春を振り返った。

「ごめんなさい、ばあや…。少しだけ外の風にあたりたかったの…」
「……」

 春は、沈んだ様子の美凰を暗い表情で見つめた。
 大切に慈しみ育ててきたお嬢さまの口から三日前に聞かされた言葉は、春の想像を絶するものであった。
 突然の入籍、そして妊娠…。
 妊娠10週目に入る母体は予断を許さぬ状態で、その上、子供の父親はあの男だという。
 小松尚隆…。
 驚いた事に5年前、自分が『妾腹の野良犬』と蔑んだ男は、思いがけない幸運を手にしていた。
 世界有数の財閥、小松家の後継者となっていたのだ。
 だが、あれ程恋焦がれ慕い続けた男と結婚し、医者には不可能といわれた妊娠まで成し遂げたというのに、美凰は少しも幸せそうでない。
 問い質しても美凰は頑なに口を閉ざしているが、再会を喜び合い誤解が解けての婚姻でない事は火を見るより明らかである。

〔お嬢さまのご不幸は、あたしの…、あたしのせいだ…〕

 罪の意識が春の胸に漸く芽生え始めていた…。



「ばあや、何かご用だったのではないの?」

 項垂れていた春は、美凰の声にはっと顔を上げた。
 見ると美凰はバルコニーの窓を閉め、室内に戻ってきていた。

「ああ…。申し訳ございません。あの…、お客さまがお見えになられて…。だ、旦那さまがお嬢さまをお呼びして来る様にと…」
「……」

 尚隆のことを『旦那さま』と呼ぶ春の沈んだ様子に、美凰は溜息をついた。

「ねえ、春…。もう何度も同じ事ばかり言うけれど、尚隆さまに対してのわだかまりを解いて早く打ち解けて頂戴。5年前の事は、あなたに反省して貰わなくてはならない事が沢山あるのよ…」
「……」

 乳母の苦悩を知らぬ美凰の言葉に、春の身体はびくりと震えた。

「生まれに貴賤はないのよ…。春はずっとお父さまを見て暮らしていたから、ものの見方や考え方がお父さまそっくりだわ。その心の有り様を改めない限り、後悔する事ばかりの人生になってよ?」
「よく…、解っております…」
「……」

 いつもならすぐに反論して噛み付いてくる、頑固でへそ曲がりな乳母だというのに…。
 美凰は自分の悩みもさる事ながら、いつもと様子の違う乳母を訝しげに見つめた。








 美凰のきちんとした回復を待ちきれず、医者の反対を押し切って、とにかく歩けるようになった彼女を自家用ジェットに乗せてバリ島から東京へ緊急帰国した尚隆は、その足で即日『世田谷区役所』へ向かい、婚姻届を提出した。
 年末の休館日を目前に慌ただしい役所のロビーで総てが記入され、尚隆の署名捺印が済んだ婚姻届が車椅子に座った美凰の眼前に置かれると、ペンを持つ白い指先が揺れる。
 躊躇う美凰を尚隆は強い声で促した。

「早くしろ! 窓口が閉まるぞ!」
「……」

 美凰は言われるままに、震えながら署名捺印をした。

「おめでとう! 小松夫人…。一情婦から総帥夫人の座を掴み取るとは、大した出世だ?! 腹の赤ん坊に感謝するんだぞ。俺の妻になれたのも、その子のおかげなんだからな!」
「……」

 彼は婚姻届をひらひらとかざして美凰に嫌味を述べると、不機嫌そうに届けを窓口に提出した。
 受理してくれた女性職員の祝辞も、美凰の耳には虚しく聞こえる。
 無言のままで俯いている彼女の哀しげな様子に、尚隆の苛々は募った。
 そして法律上、美凰は尚隆の妻になったのだ。
 二人は成城のマンションにそのまま落ち着き、美凰にはいつもの主治医江月梅と看護婦長の山城がつけられて静養を厳命された。
 翌日、帰省ラッシュも慌ただしい最中に大阪から春と要が、そして都内のマンションからは文繍が美凰を訪ねてきた。
 美凰の家族に尚隆との結婚を知らせたのは、朱衡であった。



「やっぱりねぇ〜 こないだ帝国ホテルで会った時からなんとなくピンときてたんだ! そっかぁ〜 美凰ちゃん、小松さんと秘密裡に付き合ってたんだ〜!!!」
「小松さんはとてもご立派な方だもの…。姉さま、良かったね! ご結婚おめでとう…。どうかお幸せにね…」

 文繍は納得がいった様な表情でにこにこ頷き、要は驍宗の事で何か言いたげな様子ではあったが、それでももじもじと姉に向かって祝辞を述べた。
 美凰が強張った微笑を作っている事に気づかず、和気藹々と義兄になる尚隆と会話している文繍と要を尻目に、ただ、春だけが硬直していた。
 先程、改めて紹介された小松尚隆はにこやかな表情とは裏腹の冷たい眼差しで春を見つめ、不敵に笑っていた。
 どうだ? お前が昔『野良犬』と呼んだ馬の骨は、お望みどおりの資産家になったぞと言わんばかりの目つきで…。
 5年前よりも、より一層磨き上げられた男ぶり…、堂々たる風格…。

〔あたしは…、間違っていた…。良かれと思った事は、すべて間違いだった…〕

 春は、自らの罪と対決する時が来たのだという事を本能で悟っていた。
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