届かない気持ち 6
「あぁぁぁっ!!!」

 深夜、美凰は下腹部の激痛に叫び声を上げて目覚めた。
 傍で彼女を抱き締めて眠っていた尚隆は、突然上がった悲鳴に飛び起きた。

「どうした?! 美凰、どうしたんだっ!!!」
「おっ、お腹…、っ! ううっ! ああっ!!」

 身を丸めて呻いている美凰の様子に驚愕した尚隆は、上掛けを捲って愕然となった。
 シーツが血塗れになっている。
 美凰は夥しく出血していた。

「一体…、何が…?!」

 美凰は泣き濡れた顔で必死に尚隆を見つめ、絞り出すような声で訴えた。

「お願い…、あなた…、赤ちゃんを…、助けて…」
「なんだとっ!」

〔赤ちゃん?! 赤ん坊だとっ?! 俺の?!〕

 美凰の身体はぶるぶる戦慄している。
 激痛に気が遠くなりそうだった。

「死なせないで…、赤ちゃんを…」

 尚隆は上掛けで全裸の美凰をくるみこむと、急いでバトラー室のブザーを押し、ヴィラ中に轟くような叫び声をあげた。

「オースマンっ!!! オースマン来てくれっ!!!」
「赤ちゃん、たすけ…、わたくし…、いいから…」

 美凰の意識はそのまま混濁し始めた。

「美凰っ! 美凰っ! しっかりしろっ! 美凰っ!!!」

 尚隆の悲痛な声は、美凰の耳には既に届いていなかった…。







〔痛い…、痛いわ…。助けて…、わたくしはいいから、赤ちゃんを助けて…〕

〔しっかりしろっ! 美凰っ!〕

〔わたくしは死んでもいいから、赤ちゃんの命だけは助けて…〕

 夢の中で、青い羽根の天使が星に乗っていた。
 星はいずこかへ、飛び去ろうとしている…。

〔いかないで…。わたくしの赤ちゃん…。尚隆さまの分身はわたくしだけもの…〕

「赤ちゃん…、助けて…」
「心配するな。赤ん坊は無事だ…」

 尚隆の声が聞こえ、声のする方を振り返った瞬間、美凰は星に乗った天使を見失った…。





 美凰が目覚めたのは翌朝であった。
 ヴィラから急報を受けた救急車に乗せられ、デンパサール市内の国立病院へ運ばれた美凰は、適切な処置を受け、容態が落ち着いた身を特別室のベッドに横たえていたのだ。
 身体中を激痛が走りぬけ、美凰は腹部の痛みに呻きながら目覚めた。

「わたくしの…、赤ちゃん…」
「心配するな。赤ん坊は無事だ…」

 夢の中の天使の行方を気にしつつも、美凰は心から安堵した。

「……」

 傍には不精髭面の尚隆が腕組みをして椅子に腰掛け、ぼんやりした視線を天井に這わせたままの美凰をじっと見つめていた。

「まさか、妊娠していたとはな…」
「ごめんなさい…。わたくし…、5年前の事故で、子宮にも傷を受けて…」

 尚隆の眼が眇められた。

「……」
「妊娠出来ない身体だと、お医者さまに言われていましたの…」
「……」
「だから、あなたに避妊を勧める事なんて、思いつきもしなくて…」
「もういい!」

 尚隆は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

「どうして黙ってたんだ? 俺に隠れて堕すつもりだったのか?!」

 蒼白の頬を涙が伝い、ゆっくりと頸が振られる。

「あなたにどうやって説明すればいいかずっと悩んでましたの…。わたくし、赤ちゃんが欲しいの…。でもあなたに堕胎しろと命令されるのが恐くて…、借金で買われている身の上なのに…、あなたの要求にお応えする事が出来なくなり…」

 買われているという言葉に、尚隆の我慢の緒も切れた。

「なんてことだ! もう有無は言わせんぞっ!」
「……」

 尚隆は憎々しげに美凰を振り返った。

「結婚だ!!! 俺の子供が婚外子になる事は断じて許さんっ!!!」
「……」

 婚外子…。
 その言葉は父のゲーム感覚の欲望の結果としてこの世に誕生し、一片の愛情を受ける事もなく母に見捨てられた尚隆の最大の不幸であり、屈辱の源であったのだ。

『あんたのせいよっ! あんたさえいなければ…』
『お母さん…』
『お母さんなんて呼ばないでっ! あんたなんか大嫌いっ! 顔も見たくないわ! 死んでよ!』

 ふいに母の声が蘇り、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた尚隆は美凰の傍らにつかつかと戻ってきた。

「産みたいんだろう?! なら俺と結婚するんだ!」
「そんな…!」

 ぐったりしている美凰の双眸に涙が浮かんだ。
 こんな風になる筈ではなかったのに…。





 尚隆は肩を竦めた。

「愛だの恋だの、莫迦莫迦しい女子高生みたいな夢を見るのはやめろっ! 現実を直視して俺の子供を無事に産むんだ! どうしても俺が嫌だと言うなら、子供が生まれた後に離婚してやるっ! 俺は子供がまともな結婚で産まれてさえくれれば、君の事なんかどうだっていいっ!!!」

 尚隆は涙を零している美凰の乾いた唇に、噛み付くように激しいキスをした。

「…、うっ! あっ、はふっ…」

 男の顔に、久々に黒い微笑が浮かんだ。

「愛してると言えばいいんだろう? 百回でも千回でも言ってやるさ。どうせ言葉なんて虚ろなものだ! どうだっていいことさ。それにお前の身体はもう俺から離れ難くなっている筈だぞ!!!」

 酷い辱めの言葉に美凰の心は抉られる。

「……」
「うなる程の金に、情熱的なSEXを存分に与えてやるさ。…、いいか! お前は俺と結婚するんだ!!!」

 尚隆の眼に、美凰の頸につけられたままの黄金色の真珠が眼に映った。
 憎々しげにネックレスに手をかけると、尚隆は力任せに勢いよく糸を引きちぎる。

「あっ!!!」

 真珠は淡い輝きを煌かせながら四方八方に飛び散り、多数の珠が床に転がり落ちて地面を弾んだ。
 美凰の頸には、留金と糸によって出来た痛々しい赤い線が無残に痕った。

「くそうっ!」

 尚隆は手に残った糸くずを投げ捨て、奮然とした様子で病室を出て行った。

「待って…、あなたっ!」

 引きとめた美凰の声は、ばたんと閉まった扉に拒絶された。



 後を追いかけたくても今は身動きすら出来ない。
 縮まったと思った尚隆との距離はまた離れてしまい、より一層遠い存在になってしまった…。

〔お腹より、心が痛いわ…。心が痛い…〕

 美凰は絶望のあまり、腹部を押さえながら嗚咽した。
 ばらばらになった真珠の粒と同じような涙を零して…。

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