届かない気持ち 4
『お母さん? どうして泣いてるの?』
『悔しいっ! 悔しいっ!』
『お母さん…』
『ああっ! あんたなんか産むんじゃなかった! あの人が正妻にしてくれるって、小松財閥の夫人にしてくれるって約束したから店じまいまでして囲われたのに! あんな新参者の小娘と再婚するなんてっ!』
『……』
『あんたのせいよっ! あんたさえいなければ…』
『お母さん…』
『お母さんなんて呼ばないでっ! あんたなんか大嫌いっ! 顔も見たくないわ! 死んでよ!』





 大嫌いっ! 顔も見たくないわっ! 死んでよっ!


 尚隆はどこからともなく聞こえてくる漣の音に、ふと目覚めた。

「夢…、か…」

 隣を見ると、美凰が背を向けて眠っていた。
 柔らかでしなやかな曲線、その中心に縦列に走る無残に抉れた赤い傷痕…。
 直視に堪えず、尚隆は上掛けをそっとかけてやった。
 いつも思うが、寝息すら聞こえない程に密やかな眠りである。
 時々、息をしていないのではないかと恐くなって口許にそっと手をやると、微かに温かな息を感じるのでほっとする…。
 近頃はこんな事の繰り返しだ。
 感情が高ぶると肩を揺すぶって彼女を揺り起こし、身体を開かせる。
 寝起きの美凰は夢現でうっとりと尚隆の愛撫に身を任せ、陶酔に身悶えて涙を流すのだ。
 快楽の涙なのか、それとも快楽を羞じる涙なのか…。
 尚隆は美凰の頬にそっとキスを落とした後、豪華なベッドからおりると床に落ちていたバスローブを羽織り、煙草を片手にバルコニーへ出た。





 インドネシア・バリ島南部、ブッキ半島の有名なリゾート地ヌサドゥア。
 海岸沿いに立ち並ぶリゾート群を見下ろす小高い丘の上、広々としたカントリークラブに隣接して建てられている豪華なアマヌサヴィラのガーデンスイートバルコニーから、尚隆は夜明け前の薄紫の景色を一望していた。
 傘下の企業が手がけている開発事業視察の為、漸く体力が回復した美凰を同伴し、デンパサール空港から30分程の場所に位置しているこの高級リゾート地に宿泊して3日目になる。
 仕事は2日間で無理矢理終わらせ、今日からはリゾート休暇の腹積もりだった。

〔お袋の夢なんて…、何年ぶりだろう…〕

 銀座の一流ホステスだった美貌の母は金と名声に眼が眩んで父の妾になり、尚隆を産んだ。
 その1年前に正妻と死別していた父は、結婚を餌に母と関係を結んだのである。
 正妻の座を約束されたから愛人になったものの、多情な父の興味は瞬く間に当時評判だった売れっ子女優に移り、母が頭の足りない小娘と罵っていた最年少の愛人が、大勢の女達を押しのけて正妻の座に納まったのだ。
 半狂乱になった母は尚隆が5歳の時に男と駆け落ちをし、苦労の挙句、病死した。
 母親からの愛情など、一片たりとも記憶にない。
 捨てられたという記憶は、幼い頃からのトラウマになっているのだ。
 それ以降、女という生き物に対してシニカルなものの見方をする様になったのだから…。

〔莫迦な女だ…。親父への腹いせに秘書と駆け落ちして苦労した挙句、癌にかかって死ぬなんてな…。我慢して俺を育てていれば、今頃は何不自由ない、贅沢な生活が送れたものを…〕

 尚隆はバルコニーの手すりに凭れかかり、明け染めてゆく美しい空をじっと見つめた。
 その精悍な顔は、傷ついた少年の様な色をなしていた…。





「休戦にしよう…」
「…、休戦?」

 インド洋の水平線と、ゴルフコースを取り巻く緑の林が広がる一大パノラマが見渡せる豪華なレストランで、差し向かいに朝食を取っていた美凰は訝しげに尚隆を見つめた。

「リゾートに来てまで、嫌な思いはしたくない。君だってそうだろう?」
「…、ええ。それは…、そうですわ…」

 美凰はアイスティーのグラスにささっているストローを、手持ち無沙汰にかき廻した。
 氷がかちゃりと鳴り、愁い顔の視線が琥珀色の飲物に集中する。
 尚隆は美凰の白い繊手をじっと見つめた。
 日本を発つ前に贈った薔薇色の真珠は、今は指に填っていない。
 高価な宝石を持ち歩くのが恐いという理由で、美凰は指輪を成城のマンションの金庫に保管してきたのだという。
 尚隆は何も言わず、おくびにも出さなかったが、内心はかなり傷ついていた。

〔俺の贈ったものはユニフォームだが、六太から貰ったものは大切というわけか…〕

 白い頸につけているラリマールと淡水パールの美しいネックレスを、尚隆はじっと見つめた。
 日焼けをすると火傷に近い状態になる程、透き通る様に白くて肌質が弱い美凰は、日傘を差し、日焼け止めを塗ってこの3日間を過ごしていたが、やはりうっすらと薔薇色に染まっていることは否めない。
 鮮やかなブルーのサンドレスは美凰によく似合っていた。
 艶やかな髪は柔らかく結い上げ、バリに来てから買い与えた真珠とトルコ石の髪飾りでまとめてある。

〔美しい…。本当に美しい…。俺のものだ…〕

 誰もが振り返り溜息をつく程の巧緻な美貌は、この上もなく愁いに満ちている。
 ここ1週間ばかりは、ますますひどく懊悩している様子が窺える。

〔俺との関係を憂えているというわけか…。いつまで続くのかと…〕

 心から笑えば、その美しさは譬えようもないに違いないのだが…。

〔笑顔が見たい…。美凰の笑顔が…〕

 自分が彼女の笑顔を奪っている事を棚に上げて、尚隆は身勝手な望みを抱く。

「普通に観光して、海で遊んで、美味いものを食って…。どうだ?」
「…、あなたが、そうお望みなら…」

 いつも戻ってくる同じ答えに、尚隆は押し黙った。



 あなたが望むなら…。
 だが、美凰が尚隆の本当の望みを叶えてくれる事はないのだ。
 そして尚隆の望みとは…。

「…、望んでいるんだ。…、それとも、君は命令されないと何も出来ないのか?」

 不機嫌そうにふいとそっぽを向く尚隆に、美凰は慌てた。
 彼は、少なくともここにいる間は穏やかに過ごそうと言ってくれているのだ。
 尚隆の意図は解らないが、美凰とていがみ合って過ごすのは本意ではない。
 そしてこの3日間、美凰は気を紛らわす事も出来ずに退屈していた。

「そうではありませんわ! あ、あなたがそんな風に威圧的に仰らなければ…」
「……」
「わたくしだって…、こんなに美しい所に来てまで、あなたと言い争いばかりしていたくありませんもの…」

 涙ぐむ美凰の様子に、尚隆は自らの短気を反省し溜息をついた。
 さんざん苛められている彼女にしてみれば、突然の休戦宣言は疑問以外のなにものでもないだろうから。

「どうも短気が過ぎるな。君の言う通りだ。こんなに美しい所に来てまで、揉めたくはない…」
「……」

 ヴィラの筆頭バトラー(執事)であるオースマンが恭しく寄ってきて、飲物と果物の追加をテーブルに置いたので、重い会話は一旦中断された。
 美しい美凰が涙ぐんでいる様子に、オースマンはおろおろと慌てた。
 気のいいフランス系混血のバトラーは、滞在当初から美しく優しい美凰に好感を抱いていたのだ。

「マダム! 何かお気に召さない事でも?! 本日のご朝食がお口にあいませんでしたか?!」
「いいえ…。なんでもありませんのよ…。オースマンさん、ごめんなさい…」

 オースマンはやれやれと肩を竦めると、縋るように尚隆を見つめた。

「ムッシュー、マダムをもっと遊ばせて差し上げなくては…。折角休暇にいらっしゃったのに、ムッシューのお仕事がお忙しい上、お一人での外出は禁じられているからと仰せになって、この3日間はうちのアミナを連れてお庭の散策なさるか、プールサイドで読書をなさるかしか…」
「オ、オースマンさんっ!」

 美凰は、彼女の休暇の過ごし方に不満を抱いているバトラーの告げ口に慌てた。
 アミナとはオースマンの妻で、気立ての良い美しい中年の女性であった。
 尚隆は救われたような気持ちになって一流バトラーに向かい、真面目な顔をして謝った。

「君にも君の奥さんにも気を遣わせてすまないな。仕事はすませたから、今日からは休暇を満喫するさ。今、その打ち合わせをしていた処なんだ。なあ…、美凰…」
「えっ、ええ…。そうなんですの…」

 美凰は無意識に腹部を撫でさすった。





『おめでとうございます! 妊娠2ヶ月ですね!』

 産婦人科の医師と看護婦の優しげな笑顔に、美凰は曖昧に頷いた。

〔ああ…、やっぱり…〕

 喜びと不安が恐ろしいまでに交錯する。
 子供が持てる喜びは、言葉では言い表せないくらい途方もないものだった。
 愛する尚隆の子を身籠る事が出来たのだ…。
 だが…。
 望み、望まれた妊娠ではなかった。
 夢にまで見た幸せではなかった。
 産みたい…。
 だが尚隆は赦してくれるだろうか?
 妊婦となれば、愛人としての彼の要求は殆どと言っていい程、機能出来なくなる。

〔わたくしは身体だけの存在なのだから…〕

 蓄えも殆どない自分に、無事な出産と育児は望めるのだろうか?
 もし堕胎をしろと言われたら?
 そして婚外子となる我が子は、幸せな人生が送れるのだろうか…? 
 尚隆と別れた後の事まで、よく考えなくてはならないのだ。
 だが、今は何も考える事が出来ない…。



 病院の待合いには幸せそうな妊婦達が楽しげにお喋りしている。
 入口付近に、付き添いであろうか、ぐったりした妻の手を握り締めて椅子に座っている優しそうな若い夫の姿もあった。

〔羨ましい…〕

 誰にも相談できないということは、ただ苦しく、切なく、そして哀しかった。
 思考が固まってしまった美凰はカシミヤのコートを羽織り、腹部を護るようにして病院を出た。
 バリ島に来る3日前の事だった…。

_63/95
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