届かない気持ち 3
 うつらうつらしていた美凰がふと目覚めると、視界に尚隆が映った。
 ぼんやりと時計を見ると4時を指している。
 帰宅には早過ぎる時刻であった。

「お、お帰りなさいませ…」

 美凰は慌てて身を起こした。途端に眩暈がしてくらくらとなる。
 万が一、妊娠しているかもしれない身体のことを考えて、月梅が処方した薬は嚥むふりをして隠してしまった為、あまり熱は下がっていないのだ。

「起きなくてもいい。寝ていろ」
「……」

 美凰は擡げた頭を再び枕に置いた。
 尚隆はナイトテーブルに置かれたまま、蓋の開いた宝石箱の中に納まっているマリンブルーの石と淡水パールのネックレスを莫迦にしたように眺めていた。
 帰宅と入れ替わりに帰って行った月梅から、六太の来訪と思わぬプレゼントに美凰が大層喜んでいたという話を聞いたのだ。

「六太が来ていたそうだな?」
「はい…。海外からお帰りになられて偶然…。随分日焼けなさって、相変わらずお元気なご様子でしたわ。先程お帰りになられたのですけれど…」

 六太から貰ったマリンブルーの玉を、美凰は掌の中でそっと握り締めた。
 そうしていると何故か安心し、心が落ち着くのだ。

「それもこれも六太の土産だそうだな? 余程気に入ったみたいだが?」
「ええ…。とても…」

 尚隆の心に嫉妬の灯が点滅し始める。
 例え六太相手とはいえ、他の男から貰った品物に喜んでいる美凰の姿を見たくなかったのだ。

「こんな安物の石に、よくそんな嬉しそうな顔が出来るな。君は小松財閥のトップの女だという事を忘れているのか?」

 尚隆の傲慢な言葉と態度に、美凰の表情は曇った。

「お値段のことなど関係ありませんわ。ただ、六太のお気持ちが嬉しいのです…」
「……」

 美凰は『小松財閥トップの女』という言葉を敢えて聞き流した。

「すみません…。お呼び出しを受けましたのに…、わたくし…」

 尚隆は不機嫌そうに肩を竦めただけだった。

「もういい。投薬はして貰ったんだろう?」
「はい…」
「ならすぐにも熱は下がる。それに…、俺が欲しくなれば、病気だろうが熱があろうが関係ない。君には役立って貰うさ…」
「ええ…。そうでしたわね…」

 尚隆は嫉妬の余り、心にもない嫌な言葉を美凰に浴びせかけた。

「近頃の君の身体の反応は、一段と凄いからな。身体が弱っていようが、すぐに反応して娼婦の様になるんだから…。俺が欲しくて欲しくて堪らないんだろう? えっ?」
「……」

 男の残酷な言葉に、美凰は深々と溜息をつくと静かに眼を閉じた。





『心の奥に隠された怒りの感情を鎮め、自己の間違った観念の束縛から解放される様に力を与えてくれるといわれ、持つ人に変わらぬ平穏と友情を授け、労わりの気持ちを持って物事に対処出来る様に導く力があるといわれるんだってさ…』

 六太の明るい声を思い出し、美凰はぎゅっと掌中の石に祈念した。

〔もう少しだけ、わたくしが我慢できます様に…。どうか…、どうか…〕

 とにかく、妊娠していない事を祈るばかりである。
 大阪に移り住んで間もなく、生理の周期の異変と下腹部の痛みに婦人科で検査して貰った際、美凰は回診を受けた医師に残酷な言葉を淡々と投げかけられたのだ。

『交通事故の際、子宮にも損傷を受けたご様子ですね。どうしてちゃんとした検査と治療をお受けにならなかったんですか? 残念ですが花總さんの身体は子供さんを望めません。どうぞお力落としの無いように…』

 その言葉を信じていたから、何の予防もしていなかったのだ。
 尚隆はといえば美凰にプロポーズをした際、彼女の妊娠に対する無防備を詫びていた筈なのに、それから以降も、一度として避妊をしてくれた事はなかった。
 美凰がプロポーズを断り、結婚の責任から逃れられて喜んでいるのなら、もっと注意してくれてもいいものを…。
 そして自分自身も注意しておくべきだったのだ…。

〔まさかこんなことになるなんて…。いいえ! 環境のせいよ…、きっと…。きっと身籠ってなんかいないわ…〕

 それなのに美凰の中のもう一人の美凰が、そっと囁くのだ。

〔でも赤ちゃんが出来ていたら、どんなに嬉しいかしら?! 尚隆さまに捨てられても、あの人の形見はわたくしのものになるのよ!〕

〔でも、赤ちゃんを取り上げられてしまったらどうするの? あの人は子供にとても優しい人だわ。愛はなくても妊娠の責任を気にして結婚すると言ったくらいなのだもの…。それに、あの人は庶子としての人生を大変な傷を背負って歩んでこられた…。自分の子供に、そんな思いをさせたい筈がないもの…。おっ、堕せだなんて恐ろしい事だって、決して仰しゃらない筈よ。わたくしの事は憎くても子供にまで…〕

 産めないと思っていた子供が授かっていたら…、無事に出産できたとしても取り上げられ、二度と逢う事が許されなくなったら…、尚隆が心から愛して妻に迎えた女性が、他の女が産んだ子供を可愛がってくれるのだろうか? 
 様々の不安が脳裡に浮かぶだけで、妊娠していて欲しくないと切望する。
 だが、もう一人の自分は小さな命が宿っていて欲しいと希望しているのだ。

〔どうか…、どうか…〕

 美凰は『ラリマール』のカボションを握り締めたまま、再び眠りに落ちた。

「……」



 尚隆は目まぐるしく思考を繰り返している美凰の哀しい胸中に気づかず、スーツのポケットから美しいリボンでラッピングされた小さな包みを取り出し、六太のプレゼントだというネックレスと、白い繊手が握り締めているオーバル型の玉を交互に眺め、蒼白になっている美しい花顔を食い入るように見つめた。

『お値段のことなど関係ありませんわ。ただ、六太のお気持ちが嬉しいのです…』

 尚隆は唇を噛み締め、包みをポケットに戻すと悄然としてベッドルームを出て行った。





 深夜。
 カタカタと、パソコンのキーボードを叩く音が微かに聞こえ、美凰は目覚めた。
 気分は幾分ましになっている。
 眩暈も頭痛も治まっていたし、火照っていた身体は大分落ち着いていた。
 薬に頼らなくても済んだ事に、美凰は心から安堵していた。

「…、尚隆さま?」

 ゆっくり目覚めた視界の先、バルコニー前の椅子に腰掛けながらノートパソコンに没頭している尚隆を見て、美凰はほっと息をついた。

〔よかった…。いらっしゃったわ…〕

 キーボードを操る素早い手の動き、モニターを見つめる真剣な眼差し、咥え煙草の口許、さらりと額髪をかきあげて煙草を指を挟み、灰皿に灰を落す仕草、総てが美凰を捉えて離さない男らしくセクシーな姿だった。
 そんな姿を心臓がドキドキする程素敵だと思えるようになったのは、彼と深い関係になってからのことだ。
 5年前の清らかな交際の頃には、そんな事に気づきもせず、お嬢様育ちの性格や気質は性的な事柄に関心を抱くのはふしだらなことだと思い込んでいた。
 今でもSEXの事を羞恥する心は変わらない。
 だが、ふしだらなものと思う感情は既になくなっていた。
 身体は心の哀しみを裏切って、陶酔に溺れているのだから。
 もっとキスして欲しい…。
 もっとあの手と唇に触れて貰いたい。
 そして…、あの夢の様な蕩ける心地を何度も感じさせて…。
 美凰は己の激しい欲望に驚愕し、羞恥し、涙する。
 それでも尚隆に抱かれる事を否定できない。
 身体中が彼の愛を欲して疼くのだ。
 そう。
 これが愛に満たされた行為であってくれたなら、美凰はもっと放縦に欲望の中に溺れてそのまま死ぬことすら望んだだろう。
 不意に熱い視線に気づいたのか、尚隆が美凰を振り向いた。

「なんだ? 眼が覚めたのか?」
「あっ…、ええ…」

 美凰は慌てて起き上がった。
 尚隆が立ち上がり、近づいてくる。
 バスローブの袷せから覗く逞しい胸板に、美凰の心臓は波打った。
 欲望を押し隠そうと双眸を閉じて俯くが、尚隆の鋭い眼から逃れる事は出来なかった。

「…、俺が欲しいか?」

 嗅ぎ慣れた尚隆の体臭が微かに鼻孔に漂い、すぐ頭上からセクシーな声にそう囁かれた美凰は小刻みに身体を戦慄させた。

「…、わたくし…」

 握り締めていたマリンブルーの石が、慄える手の中から転がり落ちる。
 そのつややかな石を尚隆は拾い上げ、ナイトテーブルの上にそっと置いた。

「俺は、君が欲しい…。君は?」

 尚隆から先に求めてくれたのは、この上もない救いだった。
 彼は美凰の欲望を見抜きながら、何故かその事で美凰をいたぶらなかった。
 そこに男の愛が確固たる形として息づいていることに、美凰は気づけなかった。
 彼女は自分のことで精一杯だったのだ。

「欲しいわ…、あなたが欲しいの…。抱いてください…」
「……」
「お願い…、抱いて…」

 美凰の哀願が、身体の関係だけだとしても尚隆の傷ついた心に光明を灯す。
 差し伸べてくる美凰の白い手を掴み、尚隆はベッドに崩れる。
 そうして二人は放縦に官能の世界に溺れ、漂った…。





 放恣な愛欲の時が流れ、荒い息遣いが漸く治まった尚隆は、むくりと起き上がってノートパソコンの傍に行くと、置きっ放しにしていた包みを手に取った。
 全裸の美凰は放心状態で気怠げに横臥し、快楽の余韻に浸りながら下腹をそっと撫で、ぼんやりとした視線だけをナイトテーブルの青い石にあてていた。
 不意に視線が遮られ、美凰の眼の前に美しい包みが差し出された。

「? なんでしょう?」
「君に似合うと思って買った…。気に入らなければ捨ててもらって構わん」

 美凰は胸元を覆いながら起き上がり、ゆっくりと包みを開けた。
 ビロードの小箱には、美凰も知っている銀座の有名店の刻印が施されていた。
 中を開けて更に驚いた。
 1カラット以上はある逸品の『コンクパール』の周りを上質のダイヤとルビーで飾った、それは美しい指輪が納められていたからである。

「まあ! 『コンクパール』…」

 美凰の驚愕の声に、尚隆は片眉を上げた。

「知っているのか? 宝石にはあまり興味がない様子だったが?」
「母が…、亡くなった母が嫁ぐ前から大切にしていたという帯止めの一つにございましたの。子供心にとても美しいお気に入りのものでしたわ…。ほら…、あなたに初めてお逢いした時、着ていた振袖の帯にも止めていましたのよ! 覚えていらっしゃい…・」

 そこまで言って美凰ははっとなり、言葉を止めた。
 昔の話をしても、意味のないことである。
 対する尚隆は、昼間のデジャウに納得がいった。

〔帯止めの珠…、そうだったのか…〕

 自分の目の前に不意に現れた、日本人形の様に美しい令嬢の帯に止まっていた珠だったのだ。
 漸く思い出した…。

「その気に入っていた帯止め、どうしたんだ?」

 美凰は微かに肩を竦めた。

「…。もう何年も前に、古物商に売却いたしましたわ…。これは希少価値の高い逸品の真珠でございますから…」
「……」





 指輪は決して与えないと言っていたのに…。
 男の心に一体どんな変化が訪れたのだろうか?
 それとも、これも何かの意地悪の前触れなのだろうか…。
 尚隆は指輪を手に取り、固まったまままの美凰の『左手の薬指』に無造作に嵌めた。
 7号の指輪は白魚の様な指にぴったりと納まった。

「あ、有難う…、ございます…。とても、嬉しいですわ…」
「真珠は君の宝石だからな…」

 指輪を与えられた意味が解らない美凰の、いつも以上にぎこちない礼の言葉に、尚隆はぶっきらぼうな態度でそう言った。

「とにかく早く身体を治せ。二週間後には海外出張だ。今回は君にも同行してもらうぞ」
「…、どちらに?」
「インドネシアだ。今、手がけているバリ島のリゾート開発状況を視察に行く」
「……」

 暫し躊躇した尚隆だったが、やがてきっぱりと言い切った。

「クリスマスは向こうで迎えると思うから、弟には断っておけよ!」

 美凰は観念した様子で頷き、左手の薬指をじっと見つめた。
 海外出張はともかく、彼が要にさえ嫉妬し、美凰が家族と過ごす僅かな時間さえどんどん奪い去っていっている事には気づいていた。
 二人で一緒に過ごした処で、彼との間は刺々しい言葉の押収と狂ったようなSEXしかない。
 共に居ても神経が苛まれ、心から楽しいと思った事は無いに等しい。
 それなのに、魔力にかかった様に美凰は尚隆から離れる事が出来ないのだ。
 何度絶望しても、見失っても、やはり彼を心から愛しているからだった。
 この指輪が別の意味を持って贈られた物だったら、どんなに狂喜した事だろう。
 美凰は尚隆への愛に焦がれ、尚隆の愛を心から欲した。

「では…、お正月はせめて…。夏休みから約束しているディズニーランドの事…。休暇をくださると仰いましたわ…。弟と行かせてください…」
「…、好きにしろ。どうせ俺は新年はアメリカだからな…」
「……」

 その約束すら、本当に守って貰えるのか不安であったものの、美凰はもう一つの不安を解消するべく先延ばしにしていた産婦人科の診察を受ける覚悟を決めた。
 再び腕の中に抱き寄せた柔らかな女体が少しだけ強張ったのを、尚隆は憂鬱な思いで抱き締めるとナイトテーブルに視線をあてた。
 清楚なマリンブルーの石と美凰の左手に嵌められた指輪を見比べる…。

〔手離さない! 俺は絶対にお前を…、美凰!〕

 尚隆は再び、放心した様子の美凰に身体を重ね、心の中でそう呟いた。
 美しい薔薇色の真珠と同じ、稀少な存在の女。
 美凰の身体中の宝石に愛撫を施しながら、尚隆は自らが愛の施しを彼女に乞うている事を否定できないでいた…。

_62/95
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