届かない気持ち 1
 珍しく粉雪の舞うその日、毛氈に送られた尚隆は早めの帰宅をした。
 背筋がぞくぞくするし、頭も重い。

〔風邪か? 滅多にないことだな…〕

 朱衡に言えば、鬼の霍乱などと言われるかもしれない。
 尚隆は地下駐車場で毛氈と別れ、エレベーターに乗り込んだ。




 最上階までが随分遠く感じる…。
 この夏にマンションを購入して以来、海外出張以外はほぼ毎日、ここに帰ってきている。
 灯りの灯った部屋には温かい食事が準備され、柔らかな出迎えの声が彼を待つ。
 早くに母をなくし、金や友人、そして女にも不自由しなかったが、愛情や温かい家庭にはいつも飢えていた。
 そんな尚隆が、初めて切実に心から欲しいと思った女が美凰だった。
 だが、彼女は尚隆を裏切った…。



 約束の場所にはついに現れず、連絡をとってもなしのつぶて。
 あの背中の傷を見て、報告書から漏れていた事故の件の再調査の結果、空港に来れない状況で居た事はよく解った。
 だから尚隆は、肉体関係を結んで5ヶ月近くになるというのに、今でも美凰を抱くときに痛々しい背中を見ないようにしているし、美凰も醜い傷を見せないように必死の様子だった。
 だが何故、連絡を寄越さなかった?
 手紙を何度も送ったというが、本当か嘘か…。
 尚隆には一切の連絡は届いていなかった。
 そして尚隆から美凰に差し向けた連絡は、彼女には伝わっていなかったと言う。
 とても信じられるものではない…。
 だが、連絡を貰った所で、俺は美凰の許へ飛んでいってやれたのか?
 裏切られたという思いは深かったし、子供の頃から培われた、女性に対するシニカルな偏見はおいそれとなおるものではなかったのだ。
 挙句、自棄になった尚隆は、ニューヨークで生活を始めて半年もたたぬ間に、モデルをしていた金髪美女のリンダと結婚した。
 愛のない、短い肉体関係…。
 誰でも良かった。
 ただ、孤独な心の隙間を埋めてくれる存在であれば、それで良かったのだ。




〔俺が離婚して程なく、美凰が結婚したとは…〕

 家の借金の為、金の為に他の男と結婚したという…。
 そしてその可哀想な夫もあっけなく病死した…。









〔まるで、ごく普通の夫婦みたいだな…〕

 朦朧とした意識の中で、尚隆はテーブルに並べられている美味しそうな夕食に箸を伸ばしながら、冷蔵庫を開けてサラダを取り出している美凰の硬い表情を眼で追っていた。

〔俺はいつまで、この不毛な関係を続ける気なんだ?〕

 この女を愛してなんかいない…。
 結婚なんてとんでもない…。
 飽きるまで玩具にしてボロ屑の様に捨ててやろうと、この5年、そのことだけを思い続けてきた。
 なのにこの体たらくはどうだ?
 この女に愛されていない…。
 一刻も早くこの関係を清算する事以外、何も望まれていない…。
 金も権力も、この女の前には通用しないのだ。
 そして尚隆は…、美凰がたまらなく欲しかった…。

〔欲しても欲しても…、一体いつになったら飽きるというのだろう?〕



「お食事、お口に合いませんか? あまりお進みでないようにお見受けいたしますけれど」

 美凰は食の進まぬ尚隆を、心配そうに見つめていた。
 尚隆はワイングラスを一気に煽ると、箸を投げ出した。

「食欲がない…」
「まあ…、どこかお具合が? ならお酒はいけませんわ…」

 優しい気遣いがかえって苛々を募らせる。
 美凰の言葉に誠意を読み取ってはならないのだ。
 いつもの様に、余裕で嫌味を返さなければならない。

「なんでもないっ! もう飯はいい…。来いっ!」

 熱を発しているせいで気持ちが不安定な尚隆は、ふらふらとよろけながら美凰の手を掴んだ。
 食事の後のお決まりの行為だ。
 尚隆に脅迫され、そして女として開花させられた欲望を拒否できない美凰は、涙ぐみながら尚隆の欲望を受け入れる。
 最後には屈服し、言いなりになる美凰だったが、それでも彼女は心のどこかで尚隆を拒んでいる。
 それが感じ取れるからこそ、尚隆の心を焦らせるのだ。
 尚隆は乱暴に美凰を抱いた。





 激しい快楽の嵐が漸く収まり、ベッドルームに静寂が訪れた。
 珍しくしつこく迫ってこない尚隆を訝しく思いつつ、美凰はぐったりとしている身体を起こした。
 全身を気怠い感覚が襲っている。
 近頃、あまり体調が思わしくない。
 日中もしょっちゅう眩暈や貧血を起こしているのだ。
 室内時計を見ると、針は9時を差している。

「今日は帰らなきゃ…」

 春は、美凰の身に何が起こっているのか薄々気づき始めていた。
 そして一人で勝手な夢を見ているのだ。
 お嬢様は上流社会の社長とお付き合いして、いずれ社長夫人になるのだと…。
 ステイタスに弱い乳母は、美凰が愛されもせずに男の玩具になっているなどとは知る由もない。
 ましてや相手は、自分が昔、お嬢様には似合わない捻くれた男と蔑んだ尚隆だとは…。

「うっ…」

 美凰は不意にこみ上げてきた嘔吐感に、慌ててバスルームに駆け込んだ。
 吐き気はもう何日も、不定期に続いている。
 ストレスのせいだと思い続けていたが、美凰の中に一つの疑惑が芽生えていた。
 予定日はもう二ヶ月以上廻ってこない。

〔まさか?! そんなこと…、ありえないわ?!〕

 嗽をした後、着替えようとベッドルームに戻った美凰を出迎えたのは、高熱を発して唸っている尚隆だった。





「病人の世話には慣れているんだな? 死んだ亭主もこんな風に子供みたいに扱ってたんだろう?」

 美凰は尚隆の嫌味を相手にせずに解熱剤を嚥ませた後、甲斐甲斐しく世話をし続けていた。
 自宅には、既に連絡を入れてある。
 春は渋々ながら美凰の外泊を認めてくれた。
 いずれ春にも正直に話さなくてはならない…。
 美凰は尚隆にナイトガウンを着せ掛けながら、そっと呟いた。

「あの方はあなたの様な我侭な病人ではありませんでしたわ。それに…、隼人さまの事、そんな言い方なさらないで…」

 尚隆は荒い息を吐きつつ、ベッドに横になるとふんっと鼻を鳴らした。

「なぜだ? 死んだ亭主は死んだ亭主じゃないか! 可哀想な中年男だよな。折角若い美人妻を手に入れたものの、お預けを食らったままあの世行きとは…」

 美凰の表情に翳りを浮かんだ。

「……」

 女の哀しげな姿が、尚隆の嫉妬心を煽り立てる。

「どうした? なんとか言えよ」
「…、そうですわ。あの方はお亡くなりになりました。わたくしはあの方の、たった一つの希望すら叶えて差し上げる事ができませんでしたわ…」

 美凰はそっと自分の下腹部を撫でた。

〔あなたを愛していたから、あの方を受け容れる事が出来なかった…。そう、あの頃から今も変わりなく…。こんなに辱められても、わたくしはあなたを愛している…〕

「……」
「ご満足のいく返事になりまして?」

 尚隆の眼差しは、ぼんやりと天井に向いていた。

「…、愛していたのか?」

 美凰の肩がぴくりと慄えた。

「肯定すれば、それとも否定すれば…、どちらがあなたは嬉しいの? あなたのお望み通りにお答えしますわ…」
「…、独りにしてくれ」

 尚隆の希望通り、美凰は黙ってベッドルームを出て行った。
 涙が溢れて止まらなかった。





〔どうして、あなたには解らないの? わたくしが愛しているのは…〕

 暫く泣き続けていた美凰だったが、気を取り直してテーブルの後片付けをし、夕食を摂っていなかった尚隆の為に粥を煮ていると、尚隆がふらふらと寝室から出てきた。
 美凰は慌てて火を止め、尚隆の傍に駆け寄った。

「ウイスキーをくれ」
「なにを仰っていらっしゃるの? こんな時にお酒だなんて…」
「呑みたい気分なんだ。放っといてくれ! 指図されるいわれはないぞ!」

 豪華なキャビネットから酒瓶を取り出している尚隆に、美凰は頸を振って止めようとした。

「いけません。喉が渇いていらっしゃるのなら、せめてお茶かお水になさって…」
「煩いっ!」
「あっ!」

 乱暴に突き飛ばされた拍子に転倒し、美凰はソファーの角に頭をぶつけて失神してしまった。





 次に目覚めると、衣服を脱がされて下着姿でベッドに横たわっており、心配そうに美凰を覗き込んでいる尚隆と眼があった。
 軽い脳震盪をおこしていたらしく、後頭部がずきずきする。
 額には濡れたタオルが乗せられていた。

「気がついたか?」
「はい…」
「すまん。乱暴するつもりはなかった…」

 尚隆の声はいつものいたぶる様な調子でなく、心底申し訳ないように聞こえた。

「…、嘘ばっかり…」

 美凰は静かに微笑んだ。
 それは普段、尚隆が眼にしている取り繕われた微笑ではなかった。

「……」
「…、お床を占領してしまって申し訳ありません。あなたがお寝みにならなくてはいけませんのに、これではあべこべですわね。さ、もうお寝みなさいませ。そうそう、お腹はお空きじゃございません? お粥を炊いていたのですけれど…」

 ベッドから抜け出して立ち上がろうとしていた美凰を、尚隆は押し留めた。

「いや、いい! 美凰…」
「?]
「行かないでくれ…」
「尚隆さま?」
「傍に居てくれ…、抱かせて欲しい…」
「……」

 美凰は真っ赤になって戸惑いの表情を浮かべた。

「そんな意味じゃない。ただ、抱くだけだ…。それすら嫌か? そんなに俺が嫌いなのか?」

 尚隆の熱に浮かされた眼差しが一瞬、涙を浮かべている様に美凰には見えた。

「…尚隆、さま?」

 子供がぬいぐるみを抱いて眠るような恰好で尚隆は美凰の背中を抱き締め、ベッドに倒れ伏した。
 背中が温かい…。
 熱い身体に背中から包み込まれる。

「…、痛かったろうな…」
「…、あなた?」

 ふいに尚隆の指が傷をそっと撫でると、美凰は驚いた様に吐息をついた。

〔わたくしの醜い傷は、お嫌いな筈なのに…〕



「美凰…、なぜ俺を捨てた?」
「……」

 返事をしようとしたものの、尚隆の熱に浮かされた寝息に美凰はそっと涙を零した。

「捨てられたのは、わたくしでしょう?…。あの日々を、わたくしがどんな想いであなたを待ち続けていたか…、あなたはなんにもご存知でいらっしゃらない…」



 どうすれば、この切ない想いはあなたの胸に…。
 複雑に交錯する想いは、いつになったら互いの胸に届くのか?
 舞散る雪の中、寄り添い眠る恋人達の夜は静かに更けてゆく…。 

_60/95
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