世界の光 6
 アラブ様式も美しいサウジ大使館の庭は、まるでかの有名なアルハンブラ宮殿の様な造りだった。
 ひんやりとした夜風が肌をさす中、美凰は涙を拭いつつジャスミンの花の香に包まれながら闇雲に中庭を突き進んだ。
 やがでライオンが象られた脚に支えられた見事な噴水の前に辿り着いた美凰は、大理石の淵にそっと腰を下ろすと、泉の水をそっと覗きこんだ。
 金色の月が、水面で揺れていた…。

「利広を…、篭絡した様だな?」

 尚隆の声に美凰はがっくりと項垂れた。
 今日はもう、誰とも言い争いたくない。
 そっとしておいて欲しい。
 だが、自分の願いは叶えられない事を美凰は本能で理解していた。

「…、殿下は…、ご冗談がお好きなだけですわ」

 絹のハンカチを取り出し、涙を拭う。
 泣いている顔を見られるのは嫌だった。
 美しい青いタイルが張られた柱の影から、姿を現した尚隆はつかつかと美凰に歩み寄ってきた。
 輝く月光がインドの皇妃と黒尽くめの砂漠の盗賊を煌々と照らす。
 二人の姿はまるで、恋に落ちた皇妃を浚いに来た冥界の王を思わせる。
 眩いばかりに煌いている美凰の姿を上から下まで舐める様に見つめていた尚隆は、手にしていたグラスを彼女に差し出した。

「水だ…。乾杯のシャンパン以降、何も口にしていない筈だ。喉が乾いただろう?」
「あ、有難う、ございます…」

 何のためらいもなく、美凰はグラスを受け取って水を飲み干した。
 乾いた喉に冷たい水が沁み通る。
 美凰は水に餓えていた事を知った…。



「『世界の光』か…。たった一人の女を熱愛して国政を省みなかった皇帝の…」

 尚隆は豪華なダイヤの首飾りに触れ、美凰の肌に指を這わせた。
 その指先と肌の接触が官能を顫わせる。
 そして、喉の渇き以上に尚隆の温もりに餓えていた事を美凰は感じた。

「君は…、こんなものに眼の眩む女ではない」
「ええ…」
「……」
「手を…、お放しになってくださいませ。ソウナン王国の国宝とも言うべき大切なネックレスですわ。わたくしはお借りしているだけですから…、万一の事がございましたら…」

 鎖骨をなぞっていた尚隆の指が止まった。

「…。借りている?」
「殿下のパートナーとしてパーティーに出席するのに着飾って貰わねば困ると言われて、ドレスも宝石もお借りしておりますの…」

 その言葉に、尚隆の心に火がついた。

〔借り物…。俺と同じというわけか…〕

「利広が、哀れだな?」
「……」
「君に袖にされる…、利広がな…」

 尚隆の確信に満ちた言葉に息を呑む。

「…、でも…」
「でも?」

 美凰はゆっくりと眼を閉じた。

〔愛の言葉には、眼が眩む…。どんなに欲しても与えられない美しい愛の言葉…。あなたからの愛の言葉…。たった一度でいいの…。利広さまが口になさった様な愛の言葉を囁かれたなら…、それだけでわたくしは…、命を捧げる事とて厭わないでしょうに…〕

 尚隆の指が再び動き出し、豊満な胸の谷間をかすめる。
 美凰はぴくりと顫えながらそっと眼を開けた。

「でも?」

 再びの問いかけに、美凰は微かに頸を振った。 

「…。いいえ…。なんでもありませんわ…」
「……」

 美凰が静かに立ち上がった瞬間、彼女が手にしていたハンカチをもぎ取った尚隆は柔らかな女体を抱き寄せた。

「あっ!」

 無抵抗の美凰を強く抱き締めた尚隆は、芙蓉花の様な唇をハンカチでぐいぐいと拭い始めた。

「尚…」
「黙っていろ!」

 珊瑚色のグロスが剥げ落ちてもなお、尚隆は狂った様に拭い続ける。

「や、やめて!」

 擦れた唇の痛さに思わず顔を背けようとした美凰は、次の瞬間、尚隆の熱いキスを受けていた。





 遠くから風に乗って『Trick or Treat!』の楽しげな声が微かに聞こえる。
 優しさの欠片もない、所有欲剥き出しの熱いキス…。
 息も詰まりそうな貪欲なキスに、美凰は気が狂いそうだった。

「…、たのか?」
「……」
「利広に…、抱かれたのか…?」

 離れた唇が問いかけた言葉に、美凰はそっと頸を振った。

「いいえ…。お解かりで…、いらっしゃるのでしょう? なぜその様な確認を…、なさいますの?」

 美凰を抱き締める腕に力がこもる。

「だが…、キスをしていた…」
「…、ええ…」
「何故だ?」
「あなたがそれを…、お訊ねになるの?」
「……」
「わたくしを…、お払い箱になさったのは…」
「お前が嫌だと、言わないからだ!」
「そんな! あんな風に言われて…、わ、わたくしに…、否やが申せる筈が…」
「お前は魔女だ!」

 思いもかけぬ尚隆の言葉に、美凰は美しい明眸を見開いた。

「……」
「あの医者といい、利広といい、男を手玉に取る魔女だ!」
「……」
「そしてこの俺を…」

 噛みつくようなキスが、再び美凰の唇を塞ぐ。
 キスと共に身体中が熱くなる。
 尚隆の愛撫が欲しくてたまらなくなり始めている。
 この感覚には覚えがあった…。
 日毎夜毎の秘め事の中、無理矢理に口にさせられた妖しげな媚薬…。
 自らの欲望を満たす為、思いのままに女体を翻弄すべく使用されるものをいつの間に…。



〔まさか…、こんな所で…! あっ! では先程の…〕

「や、やめて…。だ、誰かに見られでもしましたら…」
「解っているのだろう? さっきの水だ…」

 美凰はぎゅっと眼を閉じた。

〔ああ…、やはり…〕

 尚隆は荒い息を吐きながら、美凰の身体を弄り始める。

「抵抗はよせ。もう俺が欲しくて…、仕方がなくなっている筈だ…」
「あっ…」

〔なんという事…。媚薬なんて使わなくても…、あなたがたった一言、『心から愛している』とさえ仰っしゃってくださったら…、わたくしは、どんな事でもあなたの思うままだというのに…。尚隆さま…〕

 深い哀しみを押し隠し、美凰は喘ぎながらか細く声を絞り出した。

「…。随分と…、用意周到で、いらっしゃるのね…」
「そうだとも! 俺は出し抜かれるのは嫌いだからな!」

 そう言うと、尚隆は美凰を抱き上げてすたすたと歩き出した。

「…、どちらへ…、いらっしゃるの?」
「どこでもいい…。二人だけになれる所だ!」

 頭が朦朧とする。
 視界には尚隆しか見えない。
 そして、肉体的に彼を欲する欲望に全てが支配されてゆく。
 閉じかけの思考が不意に笑いを呼び起こした。

〔今日一日の、わたくしの憂鬱は…、一体なんだったのかしら…〕



「何を笑っている?」

 腕の中でくすくす笑い始めた美凰を、尚隆は訝しげに見つめた。
 その笑顔は無防備で、それでいて尚隆の心を狂わせ、捕らえて放さない魔女の微笑だった。

「可笑しくて…。あなたの…、女優さんは…、どうなさるの?」
「凌丹の事など、どうでもいい!」
「でも…、彼女も呼んで、三人で楽しめばあなたも嬉しいかと思って…」
「黙れ!」
「それじゃ、殿下もお呼びして楽しまれたら如何? あなたはわたくしを辱めるのが大好きなのですもの…」
「黙るんだ!」
「……」
「お前は俺の、俺だけのものだ! 誰にも触れさせはしない! 決して手放しはせん!」

 そう言い放つと、我慢も切れたのか尚隆は庭の一隅にあった東屋の陰に美凰を連れ込むと、周囲に眼を配る事も忘れて、その場に彼女を押し倒した。



 黒い盗賊が高貴な貴婦人を犯す…。
 美凰は無抵抗のまま、寧ろ嬉々として尚隆を受け入れ、快楽の叫び声をあげた。
 嵐の夜になるというには余りにも美しく、そして静かな月光の中で…。

_59/95
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