カーテンの隙間から夕日が差し込んでいる。
時計を見ると、夕方の五時を廻った頃だった。
豪華な居間の机の前に立たされた美凰は、優しく利広に見つめられてどぎまぎとした。
「Une femme bien-aimee(最愛の女よ) 君と結婚したい…」
美凰は双眸を見開いた。
信じられない突然のプロポーズに驚きの余り、声も出せない。
「……」
「わたしの国においで。君の為にプリンセスの様な御殿を建ててあげる。最近掘り出した油田の権利もあげよう。君に相応しい生活はmaitresse(愛人)じゃなくreine(王妃)だ。わたしは複数の妻を持つ権利を捨てて、君だけを心から愛する事を誓うよ」
「殿下…」
利広は机に置いてあったダイヤモンドのネックレスを取りあげた。
頭上に載せられた素晴らしいティアラや、それ以外のダイヤは全てこれとセットで作られているものなのだろうジャスミンの花を象った、眩いばかりの豪華な煌き、ソウナン王国の国花を模した美しいネックレス…。
「わたしが祖母から譲り受けた『Noor Jahan〔ヌール・ジャハーン〕』。お察しの通り、君の全身につけているダイヤは全てこれとセットで作られているんだよ」
良家の子女として幼い頃から価値あるものの見る眼を養われた美凰には、それがただの宝石でない事を知らしめる。
恐ろしさの余り、美凰は頸を振った。
『世界の光』などという大それた宝石を身につけているだけで空恐ろしい…。
「いけません! このような大変なものを、わたくしなどに…」
「貰えないって言うのなら、今の所は貸すだけ。わたしの連れがダイヤに溺れていないなんておかしいもの!」
「もう…、充分に溺れておりますわ…。ですから…」
「いいからいいから! 君のその奥ゆかしい所がわたしにプロポーズを促していると思わないの?」
「……」
もう何も言えず、美凰は困った様子で俯いた。
そんな美凰の頤に利広はそっと指を這わせ、美しい花顔を仰のけさせた。
「返事は今すぐでなくてもいい…。よく考えておくれ。それからわたしの事は利広と呼ぶんだよ…。そうしないと…」
「そんな…、殿下…」
「罰を与える…」
そう言うと、利広は美凰の唇にちゅっと軽くキスをした。
「!」
驚きに後じさった美凰の身体をやんわりと抱き締めると、利広はくすくすと笑った。
「思った通り、なんて柔らかな唇なんだろうね…。まったく、尚隆って本当にお莫迦な奴だよ…」
悪戯っ子の様な瞳をキラキラさせている利広の口から尚隆の名が紡がれ、美凰ははっとなった。
その時…。
「お待ちくださいませ! 只今殿下にお取次ぎを…」
「煩い! 急ぎの用だ! 通らせて貰うぞ!」
大きな物音と共に慌ただしい足音が聞こえ、ノックもなく無遠慮に扉が開かれた。
美凰と利広が振り返ると、開け放たれた扉の前に立っている尚隆の姿が眼に飛び込んできた…。
「あっ…」
美凰は利広の腕から逃れようとしたが、肝心の腕が緩まない。
寧ろ緩やかだった抱擁は少し強くなったようだ。
「で、殿下…」
「あっ! また言った!」
利広はにっこり笑うと、美凰の中高の鼻の頭にちゅっと軽くキスをした。
扉から漂ってくる、凄まじいまでにどす黒い瘴気をものともせず…。
「尚隆ってば! どういうつもり? 案内を無視してドアを開けるなんてさ! いくら友人だからって少し礼を失していると思わない?」
「……」
利広はゆっくりと美凰の身体を解放すると彼女の手を無理矢理引っ張って机を巡り、白い手を握ったまま椅子に腰掛けた。
「少し、焦っていた…。例の書類の事だ。今日中に手続きをせんと色々と困るのだ!」
つかつかと室内に入ってきた尚隆は美々しく着飾られた美凰に視線を這わせたが、彼女は尚隆の方を見ようともせずに黙って俯いたままである。
書類の封筒を握っていた手に力がこもった…。
「朱衡君に持たせてって言ってたと思うけど?」
「朱衡は別のプロジェクトで忙しい。この俺がわざわざ来てやったんだぞ! うっとおしい莫迦大臣どもとの会食も滞りなく終えてやったんだ! ぐだぐだ言わずにさっさとサインしてくれ!」
尚隆の機嫌が悪いのはそのせいでない事を手に取るように知っている利広は、くつくつと笑った。
「悪かったよ! でもしょうがないでしょ! 何度も言うけど石油が欲しいのは君達の国なんだからさ! 供給する側であるわたしの我侭が通るのは当然じゃないの?」
「…。一国を担う者がそんな態度でいいのか? 原油は無尽蔵ではないのだぞ…」
ぽんっと机に投げ出された封筒を、利広はやれやれという眼で見つめた。
「まあ、君の言う通りなんだけど、わたしは所詮風来坊の次男だし…。国を担っているのは父上と兄上だからさ、あんまり難しい事は考えたくないんだよね…。あ、美凰…」
「は、はい…」
か細い返事に尚隆ははっとなる。
〔何故俺を見ない?! 美凰…、お前はもう…〕
美しいブルーグリーンの民族衣装を着た美凰は、当に異国の貴婦人であった。
エキゾチックな衣装を身に纏った利広の傍に立てば、彼の妃であると言っても過言ではない。
尚隆は、昼からずっと抱いていた後悔の念に全身を抉られる思いで拳を握り締めた。
「書類を机に並べてくれる? 尚隆が煩いからさっさとサインするよ。そうしたら出かけよう」
「……」
美凰は無言で封筒から書類を出して机の上に広げ始めた…。
「出かけるなら一緒にどうだ? リムジンで来ている」
尚隆の言葉に、金色のペンでさくさくとサインを続けていた利広は興味深そうに顔をあげた。
「へぇぇぇ〜 珍しい! わたしに気を遣ってくれるなんてね。でも尚隆。君、仮装してないよ?」
「後で着替える。つまらんパーティーだが、仕事上是非もない…」
「まあね。その気持ちはよく判るよ。で、パートナーは見つかったの?」
その言葉に美凰はぴくりと繊肩を揺らし、その反応を尚隆は見逃さなかった。
黒い自尊心が少しずつ蘇ってきた。
「ああ。勿論だとも! リムジンの中に待たせてある」
その声に、決して見まいと決めていた尚隆を、美凰はちらりと見てしまった。
上質なタキシードに逞しい身体を包んだ尚隆は、喩え様もなくハンサムで男らしい。
舐める様にこちらを見つめる尚隆の熱い視線に、美凰は身体の芯がざわめいた…。
「あっ! その眼!」
利広はにこにこと微笑みながらサインを終えた書類を纏めて封筒に入れると、立ち上がって美凰の肩を抱いた。
その親密そうな様子に、尚隆の眉間に皺が寄る。
「駄目だよ、尚隆! 今はわたしが美凰を口説いているんだからね」
「で…、り、利広さま…」
焦った美凰は口を差し挟もうとするが、利広がそれを許さない。
「君が美凰のamant(愛人)である事は承知の上だ。だが法的には何の束縛もない。だからわたしの行動はなんら非難される謂われもないと思うんだけど? 美凰はfemme mariee(人妻)ではないんだからね!」
「…。その通りだ。だがお前は間違っている。その女は稀に見る淫乱な…」
利広は楽しげに笑い出した。
「やだなぁ〜 わたしはこう見えてもフランス人の血を引いてるんだよ! La femme qui est de la debauche l’aime!〔淫蕩な女は大好きさ!〕」
「貴様…」
「さあ、美凰! 遠慮しないでつけるんだ。こればっかりは命令だよ…」
「利広さま…」
尚隆の憤怒をものともせずに利広は美凰をじっと見つめつつ、彼女の繊頸に固辞されていたダイヤの首飾りを優しくつけた。
白い頸筋にキスせんばかりに唇を近づけながらネックレスの留め金を弄っている利広に対し、嫉妬の念を抑えることが出来ない…。
尚隆は叫びたくなるのを懸命に堪えた。
「天蓋つきのベッドに真紅のカバーをかけるよ。君の為にバラの花で部屋を埋め尽くす。夜空を飾る黄金の三日月だって取ってこよう。君がわたしの為にその美しい身体と清らかな心を花開かせる瞬間を夢見てね。わたしが帰国するまでに返事をおくれ。Ma femme bien-aimee!〔我が愛しき女よ!〕」
「……」
美凰が俯いて小さく頷く様子を目端に入れた尚隆は、吼える様に二人に声をかけた。
「…、時間に遅れる。行くぞ!」
その声は、いつになく覇気を失っていた…。
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