心の中を冷たい風が通り抜けてゆく。
どれほど愛していても、尚隆の心には憎しみしかないのだ…。
美凰の全てを打ちのめす為だけの復讐心しか…。
「大丈夫かい?」
「……」
優しい声が耳元で囁かれたのではっとなる。
白昼夢から覚めた美凰は自分が今、利広の運転するルノーに乗せられて移動しているのだと漸く気づいた。
「で、殿下…」
「ショックだった? 尚隆が君をわたしにレンタルした事…」
レンタルという言葉が美凰の胸を抉る。
「…。い、いいえ…」
「彼を…、愛しているの?」
「……」
口を噤んでしまった美凰に、利広は肩を竦めた。
「じゃあ質問を変えよう。君のお父上の絵は? あの絵は僕の為に父が依頼していたものだった筈なんだ」
利広の言っている絵とは『雪月花』の事だ。
美凰の父、花總蒼璽を訪ねてきた櫓先新・利広親子は茶菓のもてなしをした17歳の美凰に一目惚れし、是非とも彼女をモデルとした日本画をと依頼していたのだ。
その依頼を受けて父が描いた絵が『雪月花』であった。
美凰の美貌に惚れこんだ石油王の次男坊が、画と共に彼女を買い取る事を夢見て…。
「申し訳ございません…。破産の際に…、散逸いたしましたの…」
本当の事などとても言えない。
尚隆との思い出のよすがに手元においていたものの、空き巣に入られて盗難に遭ってしまったなどと…。
画の代価を払って貰っていなかった事が幸いだ。
借金で首が廻らない状態であっても決して前金を要求する事はなかった父の矜持を、美凰は初めて有り難いと思った。
「君が今、事情があって尚隆の手の中にある事は知っているよ。調べさせて貰ったからね…」
「……」
利広はウインカーを出し、ハンドルをゆっくりと左に切ってフォーシーズンズのエントランスへ向かった。
「日本には『バージュ・アル・アラブ』がないからね。ここで我慢して欲しい。さあ、到着だ…」
止まったルノーの周囲を黒ずくめのメルセデスが固め、何人ものボディーガードが周囲に眼を配りながら待機し、利広の行動を待つ。
我慢?
最高級の五つ星ホテルに滞在する事を我慢しろと言う利広が、美凰は不思議でならない。
「金でカタのつく事であるならば…」
「…、いいえ!」
「……」
「いいえ。それ以上は、何も仰っしゃらないで…」
「美凰…」
「なにも…」
我慢できずに零れ落ちた涙が白い頬を伝う。
〔まるで真珠の様だな…。あのお莫迦な尚隆が狂愛に陥るのも無理はないね…。わたしだって…、彼女を手にすれば、何も目が入らなくなって狂ってしまうかもしれないもの…〕
利広はふうっと息をつくと、膝の上に置かれた顫える繊手をぽんぽんと軽く叩いた。
「さあ…、涙をお拭き。実を言うとわたしはお腹がぺこぺこなんだよ。美味しいランチを沢山食べて、楽しくパーティーの準備をしよう! 君はもっと華やかに着飾るべきだよ! さあさあ!」
「……」
有無を言わさぬ勢いの利広に導かれ、美凰は彼が滞在する最上階のスウィートルームへと連れて行かれた…。
櫓利広という人物が、共に過ごす上でこの上もなく快適な男性である事は間違いなかった。
穏やかで上品な、それでいて気軽でウィットにとんだ才知豊かな会話、高貴な生まれを表した端整な顔立ち、女性の事を知り尽くしているのであろう洗練されたもてなしぶり…、それらの全てを体感させられれば、女ならば大抵の人が夢中になる、そんな人物…。
眼前にそれ程素晴らしい男性がいて、その人が本当に久しぶりに自分の事を人として、女性として大切に扱ってくれているというのに、美凰の脳裡に浮かんでいる面影はまったく違っていた。
〔尚隆さま…、あなたは今、どうしていらっしゃるの? どんな思いで、わたくしを櫓殿下に…〕
豪華なフランス料理の昼食後、華やかなドレスを利広の前で次々と試着させられていた美凰は、そっと溜息をついた。
背中が開いたドレスやベリーダンスの衣装を試着する事を拒み、ぐったり疲労している美凰の様子を気遣った利広はうむむっと考え込んだ挙句、ずらりと並べられた色とりどりの仮装用のドレスの中から鮮やかな青緑色のランガードレスを選び出した。
「真紅も素敵だったが、こちらの色の方が君のその真珠色の肌を引き立たせてくれるだろう。よし! これに決めた! 皆、これに合わせてベールや下着を選んであげておくれ! それからお風呂でたっぷり磨いてあげてね!」
「畏まりました!」
「あ、あのう…」
「さあさ! こちらにおいでなされませ!」
背後でくすくす笑う利広に見送られた美凰は、利広の侍女達に連れ去られてしまった。
唐媛のサロンで、かしずかれて身体に触れられる事も久しいのだが、やはりそういう事に慣れていない美凰に対し、利広の侍女達は有無を言わさぬアラブ流の奉仕をもって、そしてその背中に残っている痛ましい傷には細心の注意を払って美しい女体を香しいジャスミン浸けにしてしまった。
試着を拒んだ肌も露わな衣装に決められなかった事を、美凰は心底ほっとした。
今、鏡の前に映っている高貴なランガードレスとてウエストがちらりと見え隠れするものの、インドの深い湖の色を思わせる青緑色の絹は、白磁の様に艶めく肌を見事に際立たせている。
無論、背中の傷は全くと言っていい程に隠れているから安心だ。
「やあ、仕上がったみたいだね?」
振り返ると、金と白の豪華なインドのマハラジャ衣装で仮装をした利広がにっこりと微笑んで立っていた。
宝石尽くめの白いターバンの下から長い黒髪を垂らした姿は、とてもエキゾチックで本当に美しかった。
「どう? 見惚れてる? アリババと間違えないでおくれよ!」
「まあ…」
「お腹周りを膨らまして、ペルシャの王様みたいに凄い髭をつけようかと思ったんだけど、美しい君と共に過ごす折角の時間なんだから、ご自慢のギャグは引っ込めようと思ってね…」
しかし性格はやはり利広なのだ。
微かに微笑む美凰に利広はゆっくり近づいた。
「君は、もっと…、笑うべきだね…」
「……」
利広は背後に立つ侍従と侍女に合図をした。
侍女がランガードレスと同色の長いベールを綺麗に結われた美凰の頭の上に乗せると、侍従が捧げ持っていた宝石箱の中からジャスミンを象った眼も眩むダイヤモンドのティアラを取り出した利広は、ベールの上からティアラを飾り、ヘッドティカとピンで固定する。
「で、殿下! こ、これは…」
「いいからいいから! 仮装なんだから君も楽しんで!」
そう言いながら雫形のイヤリング、ブレスレッドと楽しむ様に輝くダイヤモンドを美凰の身体に着飾ってゆく。
「少しドレスの裾を持ち上げて…」
その場に跪いた利広の言う通り、少しだけ裾を持ち上げた美凰の両足首にアンクレットを飾る。
素足の足首に男性の手を触れられた事が、羞恥を生む。
そしてその羞恥に、尚隆以外の男性に触れられた事実がプラスされて余計に羞恥と、そして幾許かの嫌悪感を生んだ。
「ふむ…。このミュールでは少し役不足だね。もう少しダイヤが散りばめられた銀のミュールがあっただろう?」
「御意…」
侍女は大慌てで靴を探しにその場を去った。
「殿下…、どうぞもうこれ以上は…」
「駄目だよ! まだ最後の仕上げが残っている…。こちらにおいで…」
そう言うと、利広は美凰の手を引いて居間まで戻った。
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