それは10月31日の、ハロウィンの出来事…。
前日から出張同行を命じられて東京のマンションに滞在していた美凰は、尚隆からの突然の呼び出しに香蘭の運転する車に乗って小松財閥所有のオフィスビルへと到着した。
会長室の扉を開けた瞬間、懐かしい人との再会を果たすとは夢にも思わずに…。
「やあ! これはこれは! 花總美凰嬢じゃないか?!」
応接のソファーにどっかりと腰掛け、不機嫌そうに紫煙を吐いている尚隆を無視したまま、懐かしいその人物は端整な顔に柔らかな微笑を浮かべながら、ドアの前で固まっている美凰に向かって近づいてきた。
暫くは誰なのか曖昧であった美凰の脳裡に、ぱっと記憶が蘇る。
「まあ! 櫓殿下…」
アラビア半島のインドに近い場所にあるソウナン国の第二王子櫓利広は、王室育ちらしく優雅な物腰とおっとりした態度で美凰に歩み寄ると、彼女の白い繊手を取ってその手の甲にそっと挨拶のキスをした。
「おい!」
途端に不機嫌そうな尚隆の声が上がるが、利広は無視したままであった。
「随分探したんだよ。君の行方…。結婚したって聞いてがっくりしてたんだが…」
「あのう…」
利広は美凰の左手を素早く確認していた。
「今はどうしてるの? どうしてここにいるの?」
「……」
矢継ぎ早な質問に、端的に答えたのは尚隆だった。
「亭主とは死別した。今は『俺の女』だ!」
『俺の女』という所を強調した男の物言いに、美凰は唇を噛み締めて俯く。
利広は一瞬、綺麗な双眸を眇めたもののすぐに元のおどけた様子になってくつくつと笑った。
「へぇ! J’ai ete surpris!(驚いた!) 尚隆! 女性好きの至高を極めたのかい? 君の好みは恐ろしい程に向上、というより完璧になったね! まるで天国並だよ! 今まで楽しんでた毒々しい美女達はどうしたのさ? 飽きちゃったの?」
利広の言葉はいちいち尚隆の気に触る。
「お前は…。なんでお前がこの女の事を知っている?!」
利広は美凰に視線を這わせたまま肩を竦めた。
「父が昔、彼女のお父上の顧客だったんだよ。リュウコウのセイカン宮殿にある『日本の間』には花總氏の絵が何点かあるんだ。勿論、このレディーの美しい肖像画もね…」
櫓先新は、美凰の父である花總蒼璽の上得意客であったのだ。
美凰の肖像画と聞いて、尚隆の眼が眇められた。
「ねえ! そんな事よりどうして尚隆なんかの言いなりになっているの? ひょっとして脅されてる?」
的を射たストレートな質問に尚隆の苛々度はUPする。
「利広! いい加減にしろ!」
戸惑ったまま何も答えない美凰に、利広はふっと微笑んだ。
「決めた! 今夜サウジ大使館でOPECハロウィン仮装パーティーが開かれるんだけど、是非わたしのパートナーとして一緒に行ってくれないかな?!」
「えっ?」
思わぬ言葉に花顔をあげた美凰は、尚隆がこちらを睨みつけている様子にぞくりとなった。
「ねえ! いいだろう? 尚隆?」
「…、さて、どうしたものかな…」
屈託なく微笑む櫓利広の腹の内は全く読めない。
常に飄々とした態度を崩さぬ石油王の息子は、尚隆が苦手とする人物の一人でもあった。
それゆえ利広に、ましてや美凰に対して彼女に執着している態度を見せるのは絶対に避けたい事項だったのだ。
〔復讐を遂げている俺がこの女に執着していい筈がない! もうすぐだ! もうすぐ飽きる! 利広が現れたのはその前兆だ! そういう事だ!〕
尚隆はそう自らに言い聞かせた。
自分では気がつかぬ程、必死に…。
「ねえ! いいでしょ?! 尚隆は別の女性を連れて行けばいいじゃない! 君のご乱行は社交界でも有名だからねぇ〜 君の言う事だったらどんなことでも聞いてくれるゴージャスな美女は大勢いるでしょう?」
利広の何気ない言葉に、美凰の花顔が青褪めてゆく。
柔らかな唇を噛み締めて哀しげに俯く美凰を眺めた尚隆は、意地の悪い満足感を得ていた。
〔そうだとも! 利広の言う通りだ。お前の様に俺に抱かれる事を愧じて泣いてばかりいるつまらない女と違って、俺には俺の足許に喜んでひれ伏し、縋りつく女達が大勢いる…。俺はその事をお前に知らしめなければならない…〕
尚隆は内心の葛藤を押し隠し、にやにや笑いながら美凰を見つめた。
「美凰! 利広はああ言っているが、君はどうしたいんだ?」
「わ、わたくし?…」
不意に声をかけられ、美凰は顔をあげた。
〔な、何故? 何故急にわたくしの意見を求めたりなど…。いつもいつも、わたくしの言葉に耳を傾けないあなただというのに…〕
自分の顔を見つめる、尚隆の双眸に意地の悪い光が宿っているのを確認した美凰は愕然となった。
尚隆は美凰が自分に逆らえない事を知っている。
その上で、美凰に意見を求めているのだ。
意見というよりも、従順な返事を…。
別の男に貸し出され、成り行きで抱かれて来いという指示を従順に受け入れろと…。
〔あなたという方は…〕
心が凍りつく。
ついに、そして唐突にお払い箱になる時が訪れたのだ。
だがそれは自由への道ではなく、更に奈落へ突き落とされる煉獄への道だったのだろうか。
美凰は滲んできた涙を瞬きで堪え、小さく返事をした。
「わ、わたくしは、何事もご命令どおりにさせて戴きますわ…。か、会長がそうしろと仰っしゃるのでしたら…」
「……」
仕掛けた意地悪を美凰が拒否せず、逆に自分に答えを振ってきた事に対して、尚隆の胸裡は再び激しい苛立ちの思いを湧き起こらせた。
〔嫌だと…、言って欲しかったのか? 俺は…〕
利広は相変わらず屈託のない笑顔で尚隆にダメ出しをした。
「ほら! 美凰に異存はなさそうだし。とにかく、さっきゴネた油田提携の書類には全てOuiのサインをするからさ!」
「……」
窓硝子の向こうに視線を逸らしながら、尚隆はゆっくりと煙草に火をつけた。
〔俺は、美凰に執着なんかしていない! その事を証明するのだ! 俺が捨てた女を利広が情婦にするというのもなかなか面白い趣向じゃないか! 利広に抱かれてお前の全てが汚れてしまえばいい! そうすれば、俺はお前に対する関心をなくす筈だ! そして俺は、俺の全てが支配されかかっているという思い込みを修正する事が出来る…〕
「いいだろう! パーティーのパートナーと言わず一晩貸してやろう! 俺のお古で申し訳ないが、かなり開拓は済ませているからお前も充分楽しめると思うぞ!」
あからさまな尚隆の言葉に利広は明眸を大きく見開き、それから楽しそうに声を上げて笑った。
「merveilleux!(素晴らしい!) いやぁ〜 いつも思うんだけど、君って本当に楽しい男だね? 尚隆…」
「……」
俯いたまま繊肩を顫わせている美凰を見ようとした尚隆の視線は、立ち上がって彼女の手を取った利広の背中に遮られてしまった。
呆然としたままの美凰は、利広に手を取られてよろよろと立ち上がる。
その覚束ない足許に一瞬、痛ましげな視線を這わせた利広だったが、次の瞬間は元の飄々たる表情に戻ってふらつく美凰の身体をしっかりと支えた。
「それじゃあ彼の許可も下りた事だし、早速わたしのホテルに行こう! 今夜の支度を色々揃えなきゃね! それに君の話もゆっくり聞きたい…。そうだ! まずはランチを一緒にしよう! フランス料理は好きかな?」
「……」
美凰は俯いたまま返事もせず、顔もあげようとはしなかった。
「おい、待て! 通産省との会食の約束はどうするんだ?!」
慌てて立ち上がった尚隆に対し、利広はどうでもいいと言わんばかりに肩を竦めた。
「面倒臭いなぁ〜 尚隆が適当に流しといてよ。うちの原油が欲しいのは君達なんだからさ!」
そう言うと、利広は美凰の肩を抱いてドアに向かう。
利広の突然の行動に焦った尚隆の頭の中は、いつも通りの煥発さを見せることが出来なかった。
「待て、利広! 書類にサインを…」
「後でホテルに届けさせてよ! 君んとこの優秀な秘書室長、朱衡君だっけ? 彼だったら間違いないでしょ? その場でサインするからさ! じゃ、今夜ね! Au revoir!(さようなら!)」
利広はくつくつ笑いながら、一言も言葉を発しない人形の様になった美凰を抱き寄せつつ、大勢のボディーガードに囲まれて尚隆の許を後にした。
美凰から一瞥も与えられなかった尚隆は、それこそ呆然とその場に立ち尽くしたままだった…。
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