愛の苦悩 8 (拒否反応)
「やっ! いやぁっ!」

 小さな悲鳴を上げ、美凰はがばりと起き上がった。
 胸が苦しく、息が詰まる…。
 震える両手で胸元と口許をそれぞれ押さえつつ、美凰は何度も瞬きをした。

〔夢! 夢よ! 落ち着くのよ! 彼を起こしてしまう! 今、触れられたら、わたくしは…〕

 額から滲み出る汗を拭いつつ、美凰は虚ろな眼で隣で眠る尚隆の背中を見つめ、彼が目覚めていない事にほっとすると疲労困憊の裸身のままベッドから滑り出た。
 尚隆が眠っているふりをしているとも気付かずに…。





 震える手つきで香り高い紅茶を淹れた美凰は、リビングのソファーに腰をおろすと温かい飲物を一口すすった。
 大好きなオレンジペコは心身を落ち着かせる助けになる。
 この三ヶ月の間は特にそうだったし、少なくとも今までの美凰にとってはそういう作用を及ぼすものだった。
 巧緻な美貌の面は冷たく蒼褪めている。
 艶やかな絹のナイトガウンに包まれた、小刻みに震える我が身を美凰はそっと抱き締めた。
 このガウンは男に愛されるべき女が身につける夜の衣装だ。

〔わたくしではないわ…〕

 美凰はソファーの上で膝を抱えると子どもの様に小さく丸まって、ローテーブルに置いた紅茶のマグをじっと見つめた。
 胸に淀む吐き気と不快感は少しずつ沈静し始めている。
 恐怖の原因は解っていた。
 三ヶ月前に、愛する男に無理矢理身体を奪われた現実…。
 その時の苦痛と恐怖は、例え相手が愛する男性だったとしても美凰の心に耐え難い傷を負わせていた。
 おそらくは『PTSD』という精神的後遺症。
 そして現在は彼の愛人として苛まれる日々に戸惑いと恐怖、そして苦痛の中に女としての快楽を覚えてしまった現実が、美凰の初心な気質には堪えられない程に精神的圧迫を余儀なくさせられていたのだ。





 一週間前、ヨーロッパ出張から帰国した尚隆は、自分の許可なく電話を切ったという罪で美凰を処断した。
 散々に彼女を辱めた挙句、行為の途中に月のものに見舞われた美凰を淫らに罵り、犯した…。
 そして何度も許しを乞うて拒否の哀願をしたのに、未開の後庭まで彼は自分のものとしたのだ。

〔やっと、あの時の夢を見なくなったばかりなのに…〕

 あの時、驚愕の中で彼は微笑んだ。
 美凰が処女だと知った時、尚隆は彼女を無理矢理貫きながら喝采の声をあげた。
 眼下で悲鳴をあげ、苦痛に泣き咽ぶ美凰を眺め、独占欲と悦楽に我を忘れた。
 その事を決して忘れまいと誓った代償が、自らが悩まされ続けている心的外傷後ストレス障害というもの。
 あれからもう何度となく、不当なSEXを強要され続けているのだろう?
 女の秘部とは違う箇所に彼を受け入れさせられた時の激しい痛みは、一週間経った今でも微かに疼く。

〔もう、死んでしまいたい…〕

 高価なカーテンがひかれた窓をぼんやりと眺めた美凰は、ふとそんな事を思いついていた。

〔最上階から飛び降りたなら、即死は間違いないわね?!〕

 いくら尚隆が自分の事を憎んでいるからとて、自分が死んだ後に妹や弟を酷い眼に遭わせる事はないだろう。
 微々たるものであろうが、残された家族が手にする筈の生命保険の総てを尚隆に支払えば、女としての自分から搾取したものとプラスαで自らの罪は帳消しの筈だ。
 抱えた膝に顎を乗せ直し、美凰は自嘲的にそう考えながらくすくす笑うと再び紅茶の入ったマグを見つめた。

〔罪? わたくしに、一体何の罪があると言うの?〕

 真珠の様な涙が青白い頬を伝う。



 死ぬのは恐い。
 一度死にかけた経験があるのだから、その痛みや苦しみは想像を絶する事を知っている。
 だが、あの時は生きたいと願う気持ち、生きて愛する人に逢いたいという望みがあったからこそ、痛みや苦しみに堪えて生を繋ぐ事が出来たのだ。
 だが、今の自分には何の希望も喜びもない。
 そんな事すら考えるのが嫌で、美凰は少しずつ思考を閉ざし、無口な鳥になって尚隆の籠の中でおとなしく飼われ続けているのだ。
 彼に飽きられる日を心待ちにし、そして心のどこかで彼に飽きられる日が来る瞬間を恐怖しながら…。

〔愛する人…、唯一人、愛する人…。これだけの仕打ちを受けても、わたくしは尚隆さまを嫌いにはなれない…。寧ろ愛は深まるばかり…。なんて情けないことなのかしら…〕

 それでも先程の様に、ストレス障害で心身共に苛まれている状態の時には間違いなく、彼に対して『拒否反応』が作用する。
 その『拒否反応』を理解できない尚隆は、きっともっと手ひどく美凰を懲らしめにかかるのだ。
 そのことが解っているから美凰は歯を食いしばり、尚隆の目の届かない場所でひとり泣き咽ぶ。
 これ以上、恐ろしい夢を見たくないが為に…。





 膝に顔を埋めて嗚咽していた美凰の肩に、温かいものが触れた。

「!」

 胸がどきりと顫える。
 誰の手であるかは一目瞭然だったが、美凰は顔をあげることが出来なかった。

「何をしている?」
「……」
「風邪をひかれては困る! さっさとベッドへ行け!」

 そう言うと、尚隆は美凰に背を向けると豪華なキャビネットからウイスキーを取り出し始めた。
 彼もこの所、夜中によく目覚めては強い酒を口にする。
 そしてベッドへ戻ってくると、酒臭い息を吐きながら蕩ける様な愛撫で女の身体を翻弄し、快楽の極みへと美凰を誘うのだ。
 恐ろしい行為で美凰の身体を責め苛む時とは比べ物にならない程の優しさをもって…。

「……」

 泣いている理由を問い質されたり、からかわれたりされないのはとても不思議な事だった。
 美凰は素直に立ち上がり、子どもの様に手の甲で涙を拭いつつ無言で寝室へ向かった。







 弱々しい女の背姿を無言で見送った尚隆は、綺麗に磨かれたクリスタルのグラスに年代物のウイスキーを注ぐと、臓腑に染み渡る強い酒を口にしつつカーテンのかかった窓辺へ歩み寄った。
 男の冥い双眸がロックされている窓の鍵を何度か確認し、ぞくりと強張り続けていた背中から緊張を解きほぐすかの様に深い溜息を硬い口許から吐き出す。

〔…。美凰は一瞬、ここから飛び降りる事を考えていた…〕

 美凰が『PTSD』に苛まれている事を知らぬ尚隆ではなかった。
 その原因は総て、自らが彼女の心と身体に与えた苦痛なのだから。

「……」

 自らをコントロール出来ないのがもどかしい。
 先週の、あの狂気の様なSEXがその証拠だ。
 女に対してあんな酷い行為を施したのは初めてだったし、あそこまで行為をエスカレートさせるつもりなど決してなかった。
 自分を愧じた尚隆はこの1週間、美凰とのSEXを自重した。
 そして今夜が久しぶりの同衾だったのだ。
 何をされるのか解らないといわんばかりの恐怖に怯えた眼を見た尚隆は、無言で美凰を抱いた。
 持て余した禁欲の日々を取り戻す為の…、男の欲望を満たすだけの乱暴でそっけない交わり…。
 その行為は干からびた女心を完璧に打ちのめした様子であった。
 SEXが終わった後、美凰がバスルームで苦しそうに嘔吐している姿を尚隆はベッドの中で認識していた。
 そして…、ここ暫く眼にすることのなかった心的ストレスによる悪夢に魘される美凰の拒否反応を、彼はまざまざと垣間見たのだ。

〔彼女にはもう充分、復讐を果たした筈なのに…、なぜ俺はここまで美凰に拘る? つまらない道義心に駆られ、申し込んだ結婚をにべもなく断られたからか?〕

 喉を灼く琥珀色の液体に秀麗な面が歪められる。

〔いや、違う。愛のない結婚をしたくないと美凰が拒否したのは当たり前だ。俺には…、俺には美凰に対する愛がない…〕

 心の中でそう呟いて、その言葉が虚しく響くのは何故なのだろう?



〔美凰は…、本当に、もう俺の事を愛してはいないのだろうか…〕

 子どもの様に膝を抱え、声を忍ばせて泣いていた女。
 その姿を見た瞬間、尚隆の胸は締めつけられる様に軋んだ。
 彼女がそういう風に涙を流すのは、一度や二度ではない筈だ。
 あの日の恐怖に怯えた美しい双眸が、黒曜石の瞳に盛り上がった涙を忘れた日は一日もない。

〔ただ、俺は無心に喜んでいた。美凰が誰にも触れられていなかった事実を本能で喜んでいたんだ。それが、罪だというのだろうか…〕

 尚隆はウイスキーの残りをぐいっと煽ると、紅茶のマグが残されたままのローテーブルに空のグラスを置き、唇を引き結んだままベッドルームへ足を運んだ。





 温かなルームランプの灯りが美しい花顔を仄かに照らし出している。
 尚隆はベッドへ歩み寄り、美凰の傍に腰をおろした。
 涙の雫が黒々とした長い睫毛の付近に微かに散っている様が痛々しい。

「もう、二度と…、あんな酷い事はしない…」

 感情が昂ぶれば、守れるかどうか定かでない口約束。
 それでも美凰が一瞬でも自殺行為を考えたのならば、それは自分の罪だ。
 彼女に死んで欲しいなど、一度たりとも思ったことはないのだから。

「だから…」

 尚隆の手が白い喉許を優しく愛撫する。

「俺を、拒否するな…」
「……」

 ひくく囁く尚隆の声は、愛と絶望の狭間で苦しむ美凰の耳には届かない。
 そして尚隆は、心底深くに燃え続けている美凰に対する激しい愛を自覚する事を頑なに拒否し続けていた…。

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