「どこでここの情報を聞きつけたのか知らんが、とにかく君の処遇に関してはきちんとした筈だが?」
ギリシアにある二十九階建ての自社ビル最上階のオフィスで、尚隆は椅子ごと身体の向きをくるりと変えて背もたれに寄りかかり、背後の女性には興味はないといわんばかりの態度で窓から広がる紺碧のエーゲ海を見つめた。
「ナオタカ…」
真っ赤に塗られたマニキュアに陽光が反射する。
ヨーロッパ各都市を出張中の小松尚隆が、今日ここに姿を現すと知って彼を訪ねて来た美貌のイタリア人女性。
ルイーザ・ベルトリッチはつややかな黒髪をかきあげ、妖艶な仕草で尚隆の肩に手をかけた。
「この春、イタリアで過ごした素敵な休暇の時には、そんな事仰っていらっしゃらなかったのに!」
「……」
「秘書の方からお電話を戴いた時は信じられなかったわ! あなた、アメリカへ戻られる直前にアパートメントを用意するって…」
「そんな事を言ったかな? 俺は考えてもいいと言っただけだと思うが?」
「まあ! 冷たいお言葉ね…」
休暇で訪れたヴェネチアの最高級ホテルで、自分の美貌とセクシーさに1週間も溺れていた男。
世界でも指折りの大富豪の上、ハンサムで性技にも長けている最高のセレブ…。
絶対に逃したくない相手だ。
あわよくば小松財閥総帥夫人の座とて夢ではないのだから。
尚隆の妻になれば世界中の豪華なパーティーに参加できるし、最高級の宝石やドレスは湯水の如く買って貰える。
そして、最高の特典は性の歓び…。
尚隆とベッドを共にしたことのある女性は口を揃えて彼ほど素晴らしい恋人はいないと言うし、実際に自分はそのテクニックに溺れ、蕩けた大勢の中の一人なのだから…。
「ナオタカ…」
ルイーザがぼんやりと海を見つめている尚隆の足許に跪き、彼の股間に巧みに手を伸ばした瞬間、オーダーメイドである極上ジャケットの胸ポケットから携帯電話のメロディーが鳴り響いた。
尚隆はルイーザの手をぎゅっと握って彼女の行為を阻止したまま、取り出した携帯の通話ボタンを素早く押した。
「もしもし」
『…。美凰です…』
「ああ。君か…」
液晶画面を見た瞬間から、誰がかけてきたのかなど解りきっている。
『御用がおありだと、朱衡さんのご伝言を伺いましたので…』
消え入りそうに沈んだ声が忌々しい。
何故、もっと嬉しそうな声を出さないんだ?
「勘違いではないのか? 俺は何も言ってはおらんぞ!」
『そ、そうですの…。そ、それではわたくしの聞き間違いですのね。し、失礼いたしました…』
明らかにほっとした様子で電話を切ろうとする美凰に、尚隆は舌打ちをした。
朱衡に伝言させたのは間違いなく自分である。
何の用事もないのだが、ただ声が聞きたかったのだ。
自分を裏切った女への復讐を果たし、美凰を愛人にしてから3ヶ月が経つ。
レイプ同然に処女を奪い、それからは調教に近い日々を過ごさせていた。
自分の性的能力に尚隆は自信を持っている。
それは彼自身が所有するものの中で、最高に秀でているものの一つに過ぎないのだが…。
誤解が一部解け、何を血迷ったのか結婚まで申し込んだものの、彼女の返事はノー以外の何物でもない。
性の奴隷である事に甘んじている…。
〔美凰はどうして溺れない? いや、溺れてはいる。だが、それはセックスをしている間だけだ。そして行為が終わり、思考能力が回復すると彼女は愧じ入る…。俺を責めるのではなく、自分自身を…〕
どうにかしてあの表情をなくしたい!
何故素直に欲望に身を任せない?
男と女はセックスが総てだ。
他には何もない!
お前は俺の…。
〔俺の、何だというのだ?!〕
そこで尚隆の思考は停止する。
その先は考えてはならない事だと自分を戒めているからだ。
尚隆は強がる様にくつくつと笑った。
「聞き間違い? 俺の声が聞きたかっただけではないのか?」
『……』
日本語で話している為、ルイーザには尚隆が何を言っているのかさっぱり解らない。
尚隆はルイーザの手を振り解くと椅子から立ち上がり、窓辺に寄った。
「こんな昼日中にまたテレフォンセックスをご希望ですか? 俺の可愛い雌猫ちゃんは!」
電話の向こうで息を呑む音が微かに聞こえた。
そう。
一昨日も真夜中の通話中に、テレビ電話でのテレフォンセックスを強要したのだ。
ほんの少し、脅すだけで美凰は涙ぐみながらも尚隆の言いなりになる。
1週間前に命令した時は『今は自宅だから許して…』とすすり泣いた様子に欲情して無理矢理いう事を聞かせた。
あの密やかな喘ぎ声がたまらなく尚隆をそそる。
そして彼の総てを美凰だけに縛りつけるのだ。
そのせいで尚隆は他の女を欲する事が出来なくなってしまった。
美凰との肉体関係が始まってから、いや、彼女に再会したその瞬間から尚隆の身体は美凰以外にいう事を聞かなくなってしまったのだ。
世界中に自分の事を欲する女はごまんといる。
今、目の前にいるイタリア屈指の美女もその一人だ。
だが、美凰の代役にすらなれない。
〔代役だと? 俺は何をつまらない事を言っている? どういう事だ?! 俺は一体、どうなってしまった?!〕
背中からしなだれかかってきた柔らかな肢体に尚隆ははっとなった。
するりと伸びてきた手に触れられた股間は、痛い程に硬くなっている。
〔なんて事だ?! 電話の向こうの声にもう欲情している! 俺は青臭い餓鬼ではないんだぞ?!〕
「ナオタカったら! もうこんなに硬くなって…。やっぱりわたしを…」
勘違いしたルイーザは美しい眼を輝かせてご機嫌宜しく、尚隆のものを弄り始めた。
「Stop it! Louise!」
「You are my thing! You are very wonderful!」
受話器を通して耳に入ってきた女性の声…。
甘く、魅惑的な科白…。
美凰の心臓はぎゅっと鷲掴みにされた。
他の女性と一時を過ごしている最中に、尚隆はわざと電話をかけさせたのであろうか?
あの時と同じだ。
やっとの思いで電話をかけたあの時、リンダの意地悪と尚隆の言葉に絶望したあの時と同じ…。
尚隆がルイーザを乱暴に振り払ったのと同時に、美凰のか細い声が耳に響いた。
『も、もう、切りますわ。す、すみません…。ど、どなたかとお過ごしとは思いませんでしたから…』
「美凰!」
しかし電話は空しく切れてしまっていた。
「……」
尚隆の頭にかっと血が昇った。
〔この俺からの電話を切った?! これで二度目だぞ!〕
今まで見たこともない不機嫌な形相。
精悍でハンサムな面が恐ろしい色を刷いている事に、ルイーザは震え上がった。
「ナオタ…」
理由が解らずにおろおろしているルイーザを冷たく一瞥すると、尚隆はインターコムを乱暴に押し、秘書室長のアレックスを呼んだ。
「ルイーザ! 君には十万ドルの小切手を用意する。1週間のバカンスのお相手料にしちゃ弾んでいると思うぞ?」
「ナオタカ…」
信じられないといった様子で呆然としているルイーザを尻目に、尚隆は携帯を再び鳴らし始めた。
だが、美凰は応じてくれない。
長々と続く呼出音に、ますます怒りが募ってゆく…。
〔代役でもなんでもいい! 何故他の女に欲情出来なくなってしまったんだ?! 俺は…〕
こわごわドアをノックして入室してくるアレックスの声を耳に、電話を切った尚隆は素早くメールを打ち始めた。
「お呼びでございますか?」
「一番早い関空行きを準備しろ! 俺は日本へ帰国するぞ!」
「し、しかし、まだ2カ国程ご視察旅程が…」
「喧しい! 後はフランスに滞在している帷湍に任せる! 六太も合流させればいい!」
「会長!」
「さっさと準備しろ! それからこの女に十万ドルの小切手を渡して帰らせろ! 俺の許可なしに二度とここへは通すな!」
「は、はぁ…」
今までの態度とは全く違う上司の姿にアレックスは戸惑いの色を隠せず、呆然とした状態のルイーザを眺めやった。
飛び抜けた美女の訪問には、アポなしフリーパスが世界各国の秘書室長暗黙の了解であったというのに…。
【奴隷の分際で俺の電話に出ないとは! お前のその強情さを一から矯正しなければな! 明日の昼には伊丹に着く。お望み通り、たっぷり可愛がってやるから今夜はよく眠っておく事だ!】
メールを送信した尚隆は、泣き出して彼に縋りつこうとするルイーザを冷たく無視したまま、煙草に火をつけた。
〔あの女とのセックスはどんな風だったか? それすらもう覚えていない…〕
警備員に宥められながら連れ出されたルイーザの、シャネルの残り香に尚隆は顔を顰めた。
アパートメントを持たせるといったくらいなのだから、相当いい思いをした筈なのに…。
今は何も思い出せない。
脳裡に浮かぶのは、自分の奴隷だと言い聞かせてやまない薔薇の様な女の事だけ…。
「囚われたのはお前ではなく、この俺なのかもしれんな…」
尚隆は携帯の液晶画面を飾る、隠し撮りされた美しい面影をじっと眺めやりつつ呆然と立ち尽くしていた…。
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