足の治療の最中、騒動が収まった安堵の余り、美凰はその場でぐったりと気を失った。
再び正気づくと、豪華な室内のふかふかのベッドに寝かされていた。
掛けられた羽根布団の下は下着だけになっている。
嗅ぎなれた紫煙の香りに美凰が頸を廻らせると、煙草を口に銜えて窓辺に佇んでいる尚隆が居た。
シャワーを浴びた後なのか、バスローブ姿である。
驍宗に殴られた跡が数箇所に青黒い痣を見せているが、精悍な面差しは美凰の心臓を波打たせる。
常の冷静さは取り戻している様子であった。
「あっ…」
胸元を覆いながら起き上がった美凰は、足首の疼痛に呻いた。
「気がついたのか…」
尚隆は敏く気づき、すたすたとベッドサイドに歩み寄ってきた。
「…、ここは?」
「とりあえずホテルのスイートを準備させ、気を失った君をここに運んだ」
「し、朱衡さんたちは…」
尚隆は顔を顰めつつ、煙草を灰皿で揉み消した。
「バーで乱闘の末、随分と物を壊したからな。ホテルの支配人と損害賠償の件で交渉中だ」
「……」
美凰は唇を噛み締めた。
混乱の余り、何をどう話せばいいのか解らない。
悄然と肩を落としている美凰の様子に、尚隆はぐっと拳を握り締めた。
やっと抑え込んだ嫉妬の炎が揺らめき昇る。
彼女が驍宗の事で思い悩んでいるのだと思ったのだ。
「あの医者は帰ったぞ…」
「ええ…」
朧げながら覚えている。
捻挫をした足に治療を施した後、驍宗は朱衡の丁寧な対応に見送られてホテルを後にした。
いつも自信に満ち溢れた男性の、哀しい背姿が美凰の胸を衝く。
だが、どうする事もできないのだ。
〔わたくしは…、尚隆さまを…、愛しているのだもの…〕
「今夜は熱が出るかもしれんからと、薬を置いていったぞ。嚥むか?」
美凰はゆっくりと頸を振った。
「いいえ…。それよりも、お願いしたい事がございますの」
「……」
「どうか、香蘭さんを解雇なさるのはおやめになって…」
申し訳なさで一杯だったが、今の美凰には驍宗の事よりも香蘭の方が気がかりだったのだ。
香蘭の存在は、自分の逃亡を防ぐ為だけのものだと思っていたのに…。
世界的な財閥を率いる尚隆には、様々な苦労や困難があるのだろう。
だが、それにしても…。
〔わたくしにボディガードなんて…。例えわたくしが危険な目に遭ったとしても、尚隆さまにしてみれば愉快なことであれ、わたくしを助けようなんて思わない筈だわ。だって、尚隆さまはわたくしを憎んでいらっしゃるのだもの…〕
「お願いです。わたくしがここで乍先生にお逢いしていた事は、香蘭さんには何の関係もありませんし、彼女に罪はありません…。どうか解雇だなんて、酷い事を仰らないで…」
「香蘭は君があいつと逢う事を承知していたのだろうが!」
「それは…、弟の病気のことでお話をしていただけですわ。あなたが思っていらっしゃる様な、ふしだらな事はなにも…、あっ!」
尚隆の両手が、剥き出しの美凰の繊肩をがくがくと揺すぶった。
「嘘をつくなっ! あいつと何を話していたんだ! 朱衡が余計な事をあいつに吹聴した事は解っているんだぞ!」
「い、痛いわ…」
「さあ! 言うんだ! これ以上俺を怒らせるな!」
「……」
尚隆の勝手な言い分に涙が滲んでくる。
だが、自分の為に窮地に立たされた香蘭を救う為には、なんとしても尚隆を説得しなければならなかった。
「お願い…。香蘭さんをクビにしないで…。どうしても、彼女を辞めさせると仰るのなら…、わたくしもあなたの傍から去りますわ…」
尚隆の双眸が驚愕に見開かれる。
「なんだと…」
「中古品ですけれど、驍宗さまはそれでも構わないと仰ってくださいましたの…。あなたへの借金も総て清算してくださると…」
搾り出すような涙声に、尚隆の手が美凰の肩から離れていった。
「…、それで?」
〔まるで脅迫だわ…。わたくしは、なんて醜い女なのかしら…〕
美凰はすすり上げながら、それでも自分を見おろす尚隆を見上げると、剥き出しの肩から静かにキャミソールの紐を落とし、繊細なレモンイエローのレースのブラジャーを外した。
10日ぶりに眼にする焦がれた裸身…。
アメリカ出張中に何度も夢見た美しい乳房が、誘うように尚隆の眼に沁みる。
「……」
「わたくしに…、まだ飽きておいででは、ございませんでしょう?」
震える声音に、尚隆は美凰の意図を悟った。
「…、俺を脅す気か?」
裸の上半身を尚隆の眼に曝し、美凰はか細く囁いた。
「…。脅されているのはわたくしですわ。ずっと脅され続けているのは…」
「……」
尚隆は突然、くるりと美凰に背を向けると不快そうにドアへと向かった。
男の反応に、美凰が呆然となったことは言うまでもない。
〔拒絶…、拒絶なさった…。わたくしは…〕
尚隆はドアを僅かに開けると、隙間からノックの主に声を掛けた。
必死の嘆願をしていた美凰は気づいていなかったが、会話の最中に何度もドアをノックして声を掛けてきたのは朱衡であった。
「ホテルの支配人と総ての話を済ませて参りました…。会長、香蘭の件ですが…」
「…。香蘭は現状のまま、美凰のガードを勤めさせろ…」
その言葉に、呆然としていた美凰の双眸が見開かれる。
「だが…、次はないと伝えるんだ。いいな!」
「はい。畏まりました…」
「さがれ…。今の俺は、途方もなく不機嫌なんだ!」
「……」
言いたいだけ言うと尚隆は朱衡の鼻先で扉を閉め、バスローブを乱暴に脱ぎ捨てながらベッドサイドに戻ってきた。
美凰は美貌の花顔を赤らめつつも、逞しい裸身にうっとりと魅入られずにはいられなかった。
焦がれる心に胸がドキドキする。
「お前の勝ちだ…」
不機嫌さに満ち満ちた尚隆の声は、美凰を現実の世界へと呼び戻す。
〔勝ち…。一体、何に勝ったと仰るの?…〕
それでも美凰は、素直に礼を言った。
「…、あっ、有難うございます! 香蘭さんを赦してくださって…。あっ!」
尚隆はベッドに腰をおろし、呆然と自分を見つめている美凰の裸身を押し倒した。
「但し…、二度目はないぞ! 俺が飽きるまではお前は俺の女だ! 誰にも指一本触れさせるものか!」
そう言うと、尚隆は柔らかな裸身を愛撫しながら美凰の唇にキスを繰り返した。
久方ぶりの蕩けるような刹那の快楽…。
後には虚しさだけが残るSEXだったとしても、美凰には拒絶できない誘惑であった。
「……」
勝手なもので、望みが叶うと次の愁いが女心を苛む。
「アメリカでは…、沢山の女性と、楽しい夜をお過ごしだったのでしょうに…」
哀しげな表情で涙ぐんでいる美凰に、尚隆は今までのお返しとばかりに意地悪く囁く。
「…、勿論だとも…」
だが、その声音に、美凰は幾分ほっとしていた。
彼は嘘をついている…。
直感で、美凰にはその事が解った。
尚隆は清らかな身のまま、自分の許に帰ってきてくれたのだ…。
一筋の細い糸に縋るような思いが、我知らず美凰の心に微かな光明を灯した。
美凰は疼痛の走る足の事も構わずに、尚隆のなすままに愛欲の海に溺れた…。
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