美凰の心を表すかのように、外は急な雨が降りだしていた。
地下鉄の入口までは徒歩で十五分程かかる。
溜息をつき、意を決して足を踏み出した美凰の眼前に、見計らったかの様に白銀に輝くメルセデスが停車し、運転席からぱりっとしたスーツ姿の若者が現れて、立ち尽くす彼女に向かって傘を差しかけてきた。
「どうぞ、お乗りください」
美凰は戸惑った。
「あの…」
「会長のご命令です」
「命令? 会長って一体どなたのこと…、あっ!」
後部座席のウインドウが静かに下り、スモークガラスの奥から覗いた顔は尚隆であった。
「乗れ!」
ドアが開けられると、呆然としていた美凰は運転手に肩を押され、伸びてきた尚隆の手に手首を掴まれて無理矢理、車内に引き込まれた。
手頸が折れそうな程に強く握られる。
恐怖に脅え、美しい双眸を見開いて声も出せずにいる美凰を繁々と眺めながら尚隆は「そう簡単には逃がさんぞ…」と呟く。
最新のメルセデスは、エンジン音も静かに出発した。
「手を…、手を離して…、あっ!」
脅えた美凰の声が耳に心地良いらしく、尚隆は握り締めた手にますます力を込め、彼女の身体を引き寄せる。その拍子に美凰の持っていたハンドバックや紙袋が革シートの上に散らばった。
車内は防音壁で仕切られていて、後部座席は運転席から完全に遮断されている。尚隆はインターフォンのボタンを押して行き先を告げた。
「毛氈、地下駐車場の専用エレベーター前に停めろ」
「…、畏まりました」
インターフォンを切ると完全に二人だけの密閉された空間である。
「お願い…、痛いわ…」
美しい双眸に涙が浮かんでいる。
「……」
尚隆は漸く美凰の手首を離した。
ロックされた車内から逃げることも出来ず、美凰は慄えながら散らばった荷物を掻き集め、出来るだけ尚隆から離れた。といっても人一人分程度の空間を空けて、後部座席の隅に硬くなった身体を沈めただけである。
「なんてこと…、一体どういうことですの?」
美凰は激痛の走る手首をさすりつつ、小さく囁いた。
「脅える事はない。今から君を新しい職場に案内するだけだ」
尚隆は悠然とした仕草で煙草に火をつける。
「あっ…、新しい職場ですって? たった今、わたくしを首になさったあなたが…?」
「……」
美凰はまじまじと尚隆を見つめた。
雨は激しさを増しつつあった。
車窓の景色を滲ませてスピードをあげるメルセデスの車内は、無言のままであった。
尚隆は何本目かの煙草に火をつけ、書類を読むふりをしながら、身を硬くしてシートの隅で慄えている美凰へ再び視線を向けた。
「何を考えている? 言いたい事があるんじゃないのか?」
「…、あの、今からそこへ参らねばなりませんの?」
「金に困っているんだろう? 仕事を失いたいのか?!」
「……」
尚隆の冷たい物言いに美凰は俯いた。
未だに忘れられない愛しい人との突然の再会。理不尽な職場解雇と投げつけられる冷たく淫らな眼差しと言葉…。衝撃のあまり頭痛がし、背筋を悪寒が走る。
五年前の事故以来、余り丈夫でない美凰の身体は先程から続くショックな出来事のせいで変調をきたしていた。
「君の事はすべて調査済みだ。素直に言うことを聞いていた方が身の為だぞ」
「解りましたわ…」
発熱しているのかも知れない…。痛むこめかみを押さえつつ、美凰は尚隆の視線を避ける様に顔を背けて黙り込んだ。
車はオフィス街を走りぬけ、やがてとある高層ビルの地下駐車場に到着した。
「どうぞ…」
毛氈という若者にドアを開けられ、美凰はおずおずと車外に降り立った。
「あっ、有難うございます…。毛氈さん?」
「…、いいえ」
尚隆のお抱え運転手になって三年、今まで様々な美女を乗せてきたが、嘗てこれ程までに美しい女性を見たことがない。
質素な服装は裕福そうには見えず、化粧も薄く爪も清潔に切り揃えられている。普段、尚隆のお相手をしている香水まみれで真っ赤な爪の女達とは明らかに異質で、見れば見るほど言葉に形容しがたい花の様な美貌に毛氈はただ驚くばかりであった。
美凰に丁寧な礼を言われた毛氈は、顔を赤らめた。
その毛氈の態度を見ていた尚隆の胸に、どす黒いものが烈しく沸き起こった。
「ぐすぐずするな! 早くしろ!」
「あっ!」
尚隆の手が伸びてきて、美凰は再び腕を掴まれた。
「毛氈、車をしまったら今日の仕事は終わりだ。帰ってもいいぞ」
「しっ、しかし…、そのお嬢様をお送りしなくても宜しいのですか? 雨も激しくなって参りましたし…」
毛氈が口答えをするのは珍しい事だった。
尚隆の手に力がこもり、白い腕がぎりぎりと締められて美凰は小さく悲鳴をあげた。
「その必要はない」
尚隆は花顔を歪めて涙ぐんでいる美凰をじろりと見つめ、にやりと笑った。
「帰す気はないのでな…」
その言葉に顔を背けて呻いていた美凰は狼狽した。
「なっ?! 一体…」
「説明はオフィス…、いや俺の部屋でしてやる。行くぞ」
「いっ、痛いわ! 離してください…。いやっ!」
脅えてもがく美凰を引きずる様にして、尚隆はエレベーターに乗り込んだ。
毛氈は複雑な、哀しそうな表情でその様子を見送っていた。
「やめてっ! 離して…」
扉が閉まった途端、尚隆は掴まれた腕を離そうともがいている美凰を引き寄せると、強く抱き締めた。
「いやっ!」
静かに上昇してゆく密室のエレベーターの中で、尚隆は先程沸き起こったどす黒い嫉妬を吐き出す様に、美凰の柔らかな唇を熱いキスで塞ぎ、激しく攻撃し始めた。
「んっ…!」
背中を壁に追い詰められた美凰は、襲い掛かってくる尚隆が怖かった。
愛していても怖かった…。
やがて、息も止まりそうなキスが終わると、尚隆は不機嫌な様子で言った。
「毛氈に色目を使うな。あいつには可愛い婚約者が居る」
「そんな事…、しておりません…」
弱々しい美凰の抗議を尚隆は無視していた。
「男なら誰でもいいのか?」
「やめて…。なんてことを仰るの…」
美凰は顔を背け、再び近寄って来る尚隆の唇を避ける。
頭痛がますます激しさを増し、悪寒が酷くなってゆく。
今日は金曜日。
今夜は、オリエンタルホテルのラウンジでピアノ伴奏のアルバイトがある日なのだ。まだ勤め始めて間がないこともあり、頭痛や少々の熱ぐらいで休むわけにはいかない。少しでもお金を貯めて、亡くなった父が騙されて作った借金を返済しなければならなかった。
「お願い…、家に帰らせて…。弟が待っているの。新しい職場のお話は明日にでも…」
「弟は、あの太ったばあやが面倒を見ている筈だろう?」
「……」
「ああ、それから、夜のバイトもクビだ。オリエンタルホテルは俺の持ち物の一つだからな。俺からラウンジに君の代わりを手配する様、連絡しておいた」
「そんな…」
にやりと不遜な笑いを浮かべている尚隆を、美凰は信じられないとばかりに見上げる。何もかもが調べ上げられているのだ。
やがてエレベーターが最上階で止まった。
ぐったりと項垂れる美凰を引きずるようにして、尚隆は扉の外に出た。
エレベーターの外は広々としたフロアになっていた。
「ついてこい…」
「……」
どうやら尚隆専用の階らしい。
漸く身体を解放された美凰は、痛む腕をさすりながらおどおどと尚隆の後に続いた。
やがて一室の扉の鍵を開けた尚隆は、美凰を招き入れると部屋の明かりを灯した。
「ようこそ。我が家へ…」
「……」
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