不意に猛烈なパンチを喰らい、大きな音を立てて床に崩れた驍宗は、口許から流れ出る血を拭いながら、鉄拳の主を睨みつけた。
尚隆の秀麗な面は、烈火の如き怒りの色を刷いている。
「やめてっ! やめてくださいっ! 尚隆さま! あっ!」
突然の出来事に喉を詰まらせていた美凰は、嫉妬で逆上した尚隆にギリギリと腕を掴まれ、あまりの痛みにかすかな叫び声をあげた。
「俺の留守中にこんな所でこそこそ密会か?! なんという事だっ! 言った筈だぞ! お前は俺の女だと! うっ!!!」
尚隆の常軌を逸した怒声は、素早く身を起こした驍宗のパンチによってかき消された。
「きゃあぁぁぁっ!!! 尚隆さまっ!!!」
掴んでいた美凰の腕から手が離れ、か細い悲鳴が響く中、強烈な一撃を頤に受けた尚隆が今度は床に這いつくばる番だった。
「密会などと失礼なものの言い様はやめて貰おう! それに…、美凰さんは貴様の『女』などではないっ!」
驍宗の叫びに、尚隆は呻き声をあげながら憤怒の表情で自分を殴り倒した男を睨み上げた。
「……」
美凰は気が動転した様子で、二人の男をおろおろと見やる。
「やめて…。驍宗さま、やめてください…」
殴られた頤をさすりながら立ち上がり、尚隆はゆっくりと驍宗に近づく。
「貴様…、いい度胸をしているな」
「やめて! 尚隆さま!」
「煩いっ!!! お前はひっこんでいろっ!」
「あっ!」
慌てて止めようとした美凰は乱暴に突き飛ばされ、よろけてその場に膝を折る。
奇妙な音が微かに響き、無様に転んだ美凰はこの夏に尚隆のせいで痛めた足首に再び激痛を感じ、眉根を寄せて小さく呻いた。
そして、余裕をなくして逆上している尚隆は、同じく憤怒の表情をして構えている驍宗に猛然と掴みかかった…。
美凰は眼前で繰り広げられている激しい殴り合いを、呆然と見つめていた。
蒼白の頬を涙が伝う。
「やめて! お二人ともやめてくださいっ!…」
しかし激しく殴りあう男達には聞こえる筈もない。
ホテルの従業員や他の客達も、遠巻きに尚隆と驍宗の肉弾戦を見物している。
「なんやなんや? 喧嘩か?!」
「ああ。あそこでこけてる物凄い別嬪を巡っての揉め事みたいやで?!」
「えらい男前の兄ちゃんらやな?! あの美人に二股でもかけられとったんかいな?!」
「ああ、お客様っ!!! 困りますっ!!! 店内での揉め事はどうかお止めくださいませっ!!!」
ある者はおろおろと、そしてある者は眉を顰め、そしてまたある者は囃し立て…。
〔ああ…。お願い、喧嘩はいや…〕
足首が痛み、立つ事が出来ない。
「誰か…、誰か! 二人を止めて…」
美凰が懸命に声を上げた瞬間、背後からふわりと肩に手をかけられた。
「美凰様…」
振り返った美凰の眼に、怜悧な会長秘書の姿が映った。
「ああっ! 朱衡さん!」
その後ろには毛氈と香蘭も居る。
香蘭は辛そうな顔をして、謝罪の眼で美凰を見つめていた。
「大丈夫でございますか? お怪我を?」
足首をさすっている手を素早く見咎めた朱衡に、美凰は激しく頸を振った。
「わたくしの事はいいの…。それより、お二人の諍いを止めて!」
朱衡は何もかも解っているという風に静かに頷くと、背後の毛氈に目配せをした。
「毛氈! かまいません。わたしが赦しますからやっておしまいなさい!」
「ははっ! では会長っ! ご無礼をっ!!!」
毛氈は申し訳ないという表情ながら、思い切って手にしていたバケツの水を殴り合っている二人の男に向かって、ざぶりとぶっかけた。
「うっ!!!」
「なっ!!!」
不意に浴びせかけられた水の冷たさに驚き、白熱していた二人の熱は幾分醒め、それでも肩で息をし合いながら両者は睨み合った。
さながら、竜虎の対峙にも似て…。
「いい加減になさいませ、会長っ! なんとみっともないっ! 大の大人が公共の場でなんという恥さらしな真似をなさいます!」
「…、黙れっ! 朱衡っ! 俺はこの男に…」
朱衡はずぶ濡れの状態で激怒している尚隆を無視したまま、つかつかと驍宗に歩み寄ると気の毒そうに頭を下げた。
「先生。手前どもの主、そして只今のわたくしのご無礼をひらにお詫び申し上げます。しかし…、お二人に頭を冷やして戴くにはこれしか方法がございませんでした…」
「……」
ばつが悪そうに眼を逸らす驍宗に、朱衡は溜息をつきつつそっと囁いた。
「美凰様がお怪我を…。どうかご診察戴けませんか?」
「美凰さんが?!」
驚いた驍宗の声に、そっぽを向いていた尚隆が慌てて美凰を見ると、彼女は香蘭の腕にぐったりと支えられていた。
「香蘭っ! 美凰から離れろっ!」
「……」
尚隆は急いで美凰に歩み寄ると、奪い取る様に彼女の身体を自分の胸に引き寄せた。
「言った筈だ! お前はクビだとなっ!」
その言葉に美凰は驚き、双眸を見開いた。
「尚隆さま! 香蘭さんっ! 一体どういう事なの?!」
訳が解らないという表情の美凰に、香蘭は哀しげな顔をして微笑んだ。
「お前が勝手な行動ばかりするからだ! 香蘭にはお前のボディガードは勤まらん! こうも勝手なことばかりさせているんだからな!」
「ボ、ボディーガード? だっ、だって香蘭さんはわたくしが逃げ出さないように見張りをしているだけでは…」
尚隆はまだ怒りの収まらない表情のまま、美凰の頤に指をかけて自分の方に仰のかせる。
「お前は俺の女だという自覚がなさ過ぎる…。小松財閥総帥の女という立場が、どれ程希少価値のある存在だと思う?! 俺に敵対する者達が、お前を餌に俺を脅しかねんという事を忘れるな!」
「そんな…、あっ!」
人目も憚らず、尚隆は美凰の唇にキスをした。
罰するような激しいくちづけは驍宗への見世物であり、美凰が自らのものだという誇示でもあったのだ。
「んっ!」
久方ぶりの熱いキスに、それが例え罰の様な痛みを伴うものだったとしても、陶酔している自分がそこに居た。
反抗しなければならないと解っているのに、身体がいう事を聞かない。
快楽に気が遠くなってしまいそうだ。
美凰の霞む視線の先に、驍宗が顔を背けている姿が映った。
「やっ、やめて!…」
白い繊手が尚隆の胸を押しやり、唇の攻撃から逃れようと女体が身もがく。
美凰の慌てぶりに尚隆は呻いた。
嫉妬で気違いになりそうだった。
「…、あの男がそんなに気になるのか!」
「…、公共の中ですのよ…」
「ふん! なんとでも言え! 俺は…」
「会長! いい加減になさいませ! 周囲の様子がお解かりになりませんか?! とにかく、話は後回しにして美凰様のお怪我の具合を。乍先生…」
呆れている様子の朱衡に促されて前に進み出た驍宗の姿に、尚隆の表情は険悪さを帯びた。
「俺の女に触るなっ! 貴様なんぞを美凰には触れさせんぞ!」
ハンサムな顔立ちを少しく腫れ上がらせて男達は睨み合ったが、先に冷静になったのは医者としての立場を思い出した驍宗であった。
「何を埒もない事を言っている! わたしは医者だぞっ! 第一、貴様が美凰さんに怪我を負わせたのだろうが…」
「……」
その言葉には、流石の尚隆も声が出ない。
驍宗はしゃがみ込み、美凰のヒールをそっと脱がせると左足首を丁寧に触診した。
「…、骨に異常はない。只の捻挫だろうが、以前にも痛めた様子だな。きちんと治療しないと挫きやすいから気をつけないと…」
「すみません…」
美凰は驍宗に礼を言いつつも痛みの余り、涙ぐみながら尚隆の胸に縋りつく。
その姿に驍宗は唇を噛み締めた。
衆目憚らず、熱いキスを交わしていた二人…。
〔美凰さんは…、どんなに酷い目に合ってもこの男を愛している…。そして、この男も彼女の事を…〕
不機嫌そうに彼女を抱き締めている男、小松尚隆があの朱衡の言う通り、美凰の事を心の底から欲し、愛しているという事を…。
そして、自分の想いは美凰には届かない事を、驍宗ははっきりと悟ったのである。
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