「実は…、この夏、ベルリンにある心臓疾患の世界的権威、クラウス・ローゼンタール教授の率いる国立病院チームに招聘されました…」
美凰は双眸を見開いた。
「ベルリン?! ドイツの?」
「ええ…」
「まあ…。それはおめでとうございます。ドイツはアメリカ・日本と並び称される医学の大国。先生のお力が世界で発揮できる最大のチャンスですわ…。なんて喜ばしい…」
花の様に美しい面が嬉しそうな表情で祝いの言葉を述べ、その顔を驍宗は眩しげに見つめた。
「恐らく、来春にはドイツに行くことになる。そのことも兼ねて、わたしは貴女に結婚を申し込み、出来れば要君たち共々、ドイツに移りたいと思っていたんです…」
「…、そうだったんですの…」
驍宗は胸ポケットから封筒を取り出し、美凰の前に置いた。
「これを、受け取って戴きたい…」
「先生?」
「本当に、今更なんですが…。わたしの気持ちは、まだ変わっていません…。あれ程にひどい言葉を貴女に投げつけて…、どの面下げてとお思いだろうし、貴女が一番苦しんでいる被害者だ。だが…、わたしも苦しんだ…。貴女を愛する男としての感情も…、どうか解って戴きたい…」
「……」
「その封筒に、三千万円の小切手が入ってます…」
「乍先生っ!」
無造作に言って再びグラスを傾ける驍宗を、美凰は凝視した。
「あの男に、叩き返してくれませんか? この金は貴女を縛るものではない…。貴女に結婚を要求するものでもない…。暫くの間、貴女にお貸しするだけだ。残金は要君の手術費用に…」
「……」
驍宗は拳を握り締めた。
「貴女があの男の玩具にされている姿を、これ以上見ていたくない…。考えるだけでも…」
「おやめくださいませ…」
美凰は狼狽して立ち上がった。
「美凰さんっ!」
驍宗も立ち上がり、呆然と立ちつくす美凰の手を握った。
「貴女を…、愛している。どうか…、自由になって欲しい…」
その言葉に、花弁の様な唇はぴくりと震えた。
「…、愛している?」
「…、ええ…」
「自由?」
「……」
美凰は眼の前に置かれた封筒をじっと見つめた。
このお金があれば自由になれる?
本当だろうか?
身体は自由になれても、心は自由になれるのだろうか?
尚隆から自由になる…。
果たして、なれるのだろうか?
彼との関係を強要され続けて既に3ヶ月…
どんなに酷い扱いを受けても、美凰は尚隆を愛していた。
愛の心を否定し続け、身体だけが愛のないSEXに溺れているだけだと思い込もうと…。
「あなたも、そしてかつての尚隆さまも…、わたくしの一体何を愛してくださったのでしょう? あなた方男性のお気持ちが解らない…」
「…、美凰さん…」
美凰は唇を噛み締めると、湧き上がる感情を抑えきれずに驍宗の手を振り切った。
「わたくしの容姿が一体なんだというのでしょう? 容姿が嘘をつくとでも? 愛していると仰るのなら、なぜわたくしの言葉を信じずに他人の言動を信じるのでしょう? 触れるにも、ご覧になるにもおぞましい顔立ち身体つきになれば、わたくしの事を放っておいてくださるの?」
「……」
美しい双眸に涙が溢れ、頬を伝う。
その様子に、驍宗は激しい心の痛みを覚えずには居られなかった。
美凰の怒りは当然だ。
恥ずかしげもなく前言撤回をし、ぬけぬけと愛していると言った自分に対して。
そして嘗ては愛していると言った男が、借金のカタとして彼女の自由を奪って性的欲望を満たし続けている事に対して…。
「どうして誰も…、わたくしの心を無視なさるの?」
「美凰さん、わたしは…」
「あなたも、尚隆さまも…、わたくしの事を『中古品』と…」
「……」
バーテンダーが興味深げに聞き耳を立てているにも係わらず、涙に咽びながら美凰は硬直する驍宗を見つめた。
「わたくしは…、品物ではありません…。真剣に人を愛して…、純潔ではなくなったら…、男性は女性経験が多くても何も言われず、女性なら『中古品』なのですか?!」
「美凰さん!」
「どうして誰も、わたくしの事を『人間』として見てくださらないの? わたくしは…『女』であるまえに一人の『人間』です! どうして誰も、わたくしの事をSEXの道具にばかり考えるの?! わたくしは…、わたくしは…」
驍宗は美凰の腕を掴み、取り乱してぶるぶる震える身体を強く抱き締めた。
「美凰さん! 落ち着くんだっ!」
「この5年間、ずっと愛し続けてきたのに! 捨てられても忘れる事が出来なかったのに!…」
胸の中で嗚咽しながら身もがきする美凰の心からの叫びに、驍宗が愕然となったのは言うまでもない事であった。
カウンター席での騒ぎを周囲の客達が気づき始め、興味深げに見つめている。
驍宗は柔らかな美凰の身体を抱き締めたまま、動く事が出来ずにいた。
〔愛している?! 彼女は…、あの男の事を愛していると?!〕
『嘗ては駆け落ちの約束までした恋人同士でいらっしゃいました…。再会したものの、誤解が解けないまま借金のカタとして、美凰様は会長の愛人に…。ですが、会長は未だに美凰様を心の底から愛していらっしゃいます…。ただ、憎しみと愛の区別がつかないでいらっしゃるだけなのです。そして、美凰様も…。現に会長は美凰様にプロポーズをなさいました…。感情がすれ違っておいでの美凰様は、会長のお申し出を頑なに拒んでおられますが…』
朱衡の言葉を思い出し、無念の思いに驍宗は眼を閉じた。
あの怜悧な秘書の言う事は詭弁だと思っていた。
昔の恋人とはいえ、脅迫されての関係など納得できる筈がない。
真面目な美凰は借金清算の為、そして身体を汚された諦めの境地と尚隆の拘束から逃れる事が出来ないのだと思っていた。
そう…、あの強い眼差し…。
口汚い言葉を自分に聞かせて美凰を辱め、貶めたあの時の、あの男の眼…。
〔あの男の、強い執着心…〕
あれ程に強固な執着の眼を持つ男を、驍宗は見たことがない。
女の美凰には解らなくとも、男の自分には解る。
自分の中にもある嵐の様なこの感情…。
強い欲望もまた、男の愛のひとつなのだという事を…。
そして、美凰のいう事は正しい。
彼女がこれ程までに美しい容姿でなければ、その清らかな優しい心を知ることなく興味を惹かれる事もなかったかも知れないのだから…。
「美凰さん、落ち着いて…。とにかくここを出ましょう…」
嫋々とした肩に掛かったつややかな髪が微かに揺れた。
心に溜まっていたものを吐露した美凰は、少しだけ冷静さを取り戻した様子だった。
「も、申し訳…、ごめんなさ…っ…」
「…。いいえ…。わたしの方こそ…、貴女の気持ちも考えずに…」
驍宗はポケットからハンカチを取り出して、美凰の手に握らせた。
「……」
「どうか、赦して欲しい…」
美凰が呆然と涙を拭っている間に、驍宗は彼女のハンドバッグに小切手の入った封筒をそっと仕舞い、勘定の為に店員を呼ぼうとした。
その瞬間…。
突然、横合いから伸びてきた拳に頤を殴られ、不意の攻撃に驍宗はよろめいて床に崩れた。
「…!?」
驚愕に声も出せず、泣き濡れた顔を呆然と拳の主に向けた美凰は、ひっと喉を詰まらせた。
逞しい肩を怒らせ、恐ろしい形相をした尚隆が立ち尽くしていたからである。
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