「先日は、失礼した…」
美凰は驚きに声も出せない様子で、苦渋に満ちたような驍宗のひくい声を聞いていた。
「……」
「今更、と思われるだろうが…、貴女に逢いたい。時間を貰えないだろうか?」
眼の前の香蘭を気遣い、美凰は首を振った。
「…、もう二度と、お目にかかりませんと申し上げましたわ…」
「…、要君の、病状の事でも?」
弟の事を言われ、美凰の心はどきりとなった。
「かっ、要の?!」
「貴女は転院を…、主治医を変える事も念頭に置いていると言った…」
「はい…。その方が…、あなたの為にも、わたくしたちの為にもいいかと思いましたので」
「…、今日は非番ですから…。5時半に宝塚ホテルのバーで待っています」
「乍先生、わたくしは…」
「ずっと、待っている…。貴女が来なかったとしても…」
美凰が返事をする間もなく、電話は切れた。
〔今更、一体…。でも要の事と仰っておられたし…〕
溜息をつきつつ携帯電話から顔を上げると、香蘭はあらぬ方向を眺めている。
「香蘭さん、あのう…」
美凰の言葉を遮るように、香蘭は腕時計に眼をやって立ち上がった。
「次の路上教習の、お時間でございますよ…」
「あっ! はっ、はい…」
慌てて立ち上がり、教習カードを取りに行く美凰の背姿を、香蘭は考え込むように見つめていた。
「会長がお帰りになるのは明日ですから、今日はこのままご自宅までお送りいたしましょうか?」
宝塚のマンションへの帰宅途中、香蘭は、俯いて考え込んでいる美凰に不意に声をかけた。
「あっ…。えっ、ええ…。そうして戴けると、助かりますわ…」
美凰の様子に、香蘭はふうっと溜息をついた。
「宝塚ホテルまでお送りいたします…」
香蘭の言葉に、美凰は吃驚した様子で顔を上げた。
「こっ、香蘭さん! どうして?!…」
「美凰様の今のご境遇には、心よりご同情申し上げます…。ですが、わたしも雇われの身でございますから…。でも、弟さんのご病状のご相談と承りましたし…」
「で、でも…。あの人に知れたら、あなたがまた叱られてしまうわ…」
美凰が尚隆にとって気に入らない勝手な行動をする度に、お目付け役である香蘭は尚隆に怒鳴り散らされている。
だが、美凰にすっかり心酔してしまっている香蘭は、常に美凰の味方をしてくれていた。
捻くれた複雑な愛の心境は理解しつつも、美凰に対してあまりに不当な扱いをする雇い主に対し、香蘭は怒りを否めないでいたのだ。
躊躇う美凰に、香蘭はメルセデスのハンドルを操作しつつ再び溜息をついた。
「別にふしだらな事をなさるわけではございませんし…。言いたいことを言ってお気持ちの踏ん切りをつけてこられなさいませ。あの医者に、ご自分を悪い女と思わせておく必要はございません。美凰様を苦しめているのは会長であって、貴女には何の罪もないのですから…」
「……」
「わたしは、美凰様を信じておりますから…」
「香蘭さん…」
美凰はそれ以上何も言えず、膝の上に置いているバッグに眼を落とした。
驍宗から指定された宝塚ホテルのバーへ美凰が姿を現したのは、電話で聞かされた時刻より30分遅れての事だった。
ブランド物のスーツ姿で片手にウイスキーグラスを持ち、カウンター席に硬い表情で腰を下ろしていた驍宗は、バーに居た数名の男性客が賞賛の声を上げたのに気づいて入口を振り返り、美凰の姿を認めた。
その苦しげに沈思した面差しを見た美凰は一瞬、引き返そうかとも思ったが、意を決して彼の傍に歩み寄った。
「お、遅くなりまして、申し訳ございません…」
会釈する美凰に対して驍宗はグラスを置いて立ち上がり、礼儀正しく頭を下げた。
「いや…。来て貰えないのではと、思っていましたから…」
「……」
優しいレモンイエローのワンピース姿を眩しげに見つめ、驍宗は隣の席を美凰に勧めると自らも再び腰を下ろして、空になったウイスキーグラスに視線を戻した。
「なにか…、飲みませんか?」
「あの…、わたくし…、お酒は不調法ですので…」
美凰はカウンター席にぎこちなく納まりながら、おどおどと俯いた。
「…。では、こちらの女性には紅茶を。わたしはスコッチをダブルで…」
「畏まりました…」
バーテンダーが飲物を用意している間、驍宗は沈黙したままであった。
「あのう…、乍先生。弟の…、要の病状の事…」
「……」
返事のない驍宗に、美凰の不安は募った。
「要は…、要の心臓疾患は進行しているのでしょうか?」
目の前に置かれた新しいグラスを見つめながら、驍宗は呟いた。
「すみません。要君の事をご相談と言ったのは…、嘘です…」
「…、乍先生…」
驚きに、美凰は双眸を見開いた。
「楊朱衡という人から…、貴女の、現状の総てを訊きました…」
「しゅ、朱衡さんから?」
驍宗は頷き、居たたまれないと言わんばかりにグラスを一気に空けた。
「先日、病院で貴女と会った翌日、わたしは小松氏を訪ねて…」
「なんですって?」
驚愕する美凰の隣で、驍宗は悄然と俯いた。
普段の、自信に満ちた男らしい態度はすっかり影を潜めている。
「あの男に言われた事を鵜呑みにした自分が、とても恥ずかしい…。わたしは…」
「……」
「あの男はアメリカに出張中だということで、応対してくれたのが秘書室長だという…」
美凰は溜息をついた。
「…、朱衡さんですのね?」
「ええ…」
驍宗がどこまで真実を聞き及んだのかは不明だが、いずれにせよ、彼は美凰が自ら望んで小松尚隆の愛人になったのではない事を知ったのだ。
そして、自らの不用意な言葉がどれ程に美凰を傷つけ、そして二人の間柄が自らの望むような関係には修復出来なくしてしまったのかを…。
「……」
驍宗は再びスコッチを注文した。
「わたしとしては、本人にはともかく、個人的な事を他人に訊く気はなかったのですが、彼は…、貴女の現在の境遇を色々と気遣って…。どうやら、彼も…、貴女の事を…」
驍宗の言わんとする事に、美凰は赤くなって頸を振った。
「…、零れた水は、元には戻せませんわ…」
「美凰さん…」
美凰は目の前に置かれた紅茶に、震える手で砂糖を少しだけ入れてスプーンでかき混ぜた。
「あの花火大会の夜、あなたに総てを打ち明けるつもりでしたの。亡くなった父の借金の事、以前の結婚の事…、そして…」
「小松氏が、結婚前の貴女の恋人だった事…」
「…、ええ…。総てをお話してそれでも、あなたがお強い意志をお持ちなら、結婚して戴こうと…」
「何てことだ…。わたしは…」
美凰の思いもかけない言葉に驍宗は頤の辺りを強張らせ、尚一層の後悔の色をその秀麗な面に刷いた。
「結婚の約束をしていた貴女と小松氏は行き違いがあって別れ、それぞれに別の人生を歩んできた」
美凰はゆっくり頷いた。
「それも今更の事ですわ…。あの方は…、尚隆さまは5年前、約束の場所に現れなかったわたくしのことを裏切り者だと…、すべては…、事故のせいなんですけれど…」
柔らかな諦観の口調に、驍宗は唇を引き締めた。
「その背中の傷を負った事故の事ですね?」
「今は…、どういう理由でか債権者となった借金清算の為に、彼の傍に居るんです…。望んでこうなったわけでは、決して…。独占欲のとても強い方ですから、あのパーティーの夜、あなたにあんなひどい事を…」
驍宗は再び、グラスを傾けた。
「…、どうかあの日のことは言わないで欲しい。わたしは…、嫉妬のあまり、あなたを信じずにあの男の言葉を信じた…」
「……」
俯く美凰を、驍宗は熱い視線で見つめた。
「すまないと思っている…。今更謝ってもどうにもならない程に、わたしは貴女を傷つけた」
「…、乍先生…」
「貴女の身体だけが目的だったわけではない…。知り合って3年余りの間で、貴女が妻として相応しい総てを兼ね備えているという事を認識していた筈なのに…、わたしはあの男に対する嫉妬で総てを台無しにしてしまった…」
美凰は顔をあげ、自らを責め続ける驍宗を見ながら優しく頸を振った。
「あの、花火大会の夜を境に、わたくしの人生は大きく変わりました…。あなたと離れ離れになってしまい、あの方のものになった事は、運命だったのでしょう…。誰の事も恨んではおりませんし、乍先生には、わたくしなど足許にも及ばない素敵な方がこれから先、きっと現れる事でしょう…。ですからどうぞ、もうご自分をお責めになられずに…」
「美凰さん…」
驍宗は無念の表情でグラスを握り締めた。
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