愛の苦悩 1
 美凰が密かに尚隆の愛人になって1ヶ月が過ぎ、季節はいつの間にか秋を迎えていた。
 日々は何事もなく、表面上は穏やかに過ぎて行く…。
 通勤と称して、美凰は毎日出迎えに来る香蘭と共に教習所に通い、運転免許を取るべく学習に没頭していた。
 何かに集中出来る時間は、今の美凰にとって何よりも大事な一時であった。
 マンションでの生活は相変わらずだったが、最近は遅くなる事なく殆ど毎日、真っ直ぐ帰宅する尚隆の為に買い物をし、夕食も準備しているのだ。



〔まるで、本当の愛人みたい…〕

 ぎこちなく尚隆を出迎え、ぎこちなく言葉少ない会話で夕食を済ませ、そしてその反動をさらけ出す様に情熱的にベッドで抱かれる…。
 そして夜遅く、解放された身体を引きずるようにして尚隆の許から逃げ出すのだ。
 近頃はしばしば引き止められ、宿泊を強要されて帰れない事も頻繁であった。
 そしてその回数は、確実に増えてきている。
 自宅に嘘の電話をする度に、美凰の心は哀しみを募らせていた。
 めくるめく快楽を与えてくれる尚隆に、彼とのSEXに縛られている自分がたまらなく厭わしく、そして羞かしかった…。

〔身体を奪われると、女は誰でもこうなってしまうのかしら? それとも、あの人が言うように、わたくしだけが特別に淫乱なの?…〕

 尚隆が出張で不在の時などは、ほっとするのと同時に心に隙間風が吹くような寂しさすら覚えてしまう。
 そしてそう思う度に、美凰は自分自身の心と闘っていた。

〔莫迦な事を考えては駄目! あの人は脅迫者…。美しい、そして淫らな悪魔よ…。身体は罠にかかっても、心をさらけ出しては駄目っ! そんなことをすれば、わたくしはもう二度と立ち上がれないくらい、痛めつけられてしまう…〕

 尚隆の激怒が、自分の心と身体にどれ程の苦痛と辱めをもたらすかは、あの日のファッションホテルでのひとときで充分に承知している。
 美凰は言葉を忘れた鳥の様に従順に、尚隆の言いなりに鳥籠の中で飼われていた。







 深まる秋…。
 尚隆が出張で渡米している週の週末、美凰は要の定期健診に付き添い、阪大病院の待合室にいた。
 乍驍宗との無残な別れから既に2ヶ月近くが経っていた。
 今日までの間、要の付き添いは総て春に任せていたのだが、生憎昨日から春は風邪を引いて寝込んでしまったのである。
 どのみち驍宗と再会した所で、現状が何か変わるわけでもない。
 あれから何度も連絡を取り続けたが結局、驍宗と話す事は叶わず、美凰は言い訳どころか心からの謝罪すら諦めねばならなかった。
 そして美凰は、驍宗にしろ尚隆にしろ、相手の言い分も聞かず立場も考えてくれない、表面だけで総てを判断し、内面を少しも理解せずに自分の思い込みで総てを決めつけてしまう男性の身勝手さに些かうんざりしていたのである。



 定期健診の終わった要と共に診療室から出てきた乍驍宗に、美凰は丁寧に会釈した。

「こんにちは…。乍先生…」

 呆然と美凰を見つめていた秀麗な面は、やがて苦々しげに歪められた。

「……」

 美凰から視線を逸らす白衣の医師に、彼女は静かに近づいた。

「姉さま、ぼく、ちょっとお手洗いに行って来るね…」

 要は聡い子供なので、大好きな先生と姉の間柄が最近ぎこちない事をよく知っていた。
 気を利かしたというわけではないのだろうが、二人の様子に少しだけ席を外そうと思ったらしい。

「うろうろしては駄目よ。もう帰りますからね…。すぐに戻っていらっしゃい…」
「はーい!」

 立ち去る要の後姿から、美凰は驍宗に視線を移した。
 驍宗は白衣のポケットに両手を入れ、硬い表情で立ち尽くしていた。

「一瞥以来で…。ご連絡をお取りしようにも、あなたは…、わたくしの声を聞くのもお嫌そうでしたから…」
「……」

 黙ったままの驍宗の様子に、美凰は溜息をついて項垂れた。

「言い訳は致しませんわ。ただ、どうしてもあなたに謝罪したかったんです。今更とお思いでしょうし、謝ったからといってあなたの尊いお心を傷つけてしまった罪は永久に消えません。でも、わたくしにもやむにやまれぬ事情がございました…」

 驍宗の眉がぴくりと痙攣した。

「ほう?! やむにやまれぬ事情ですか? 一介の外科医との結婚より世界的な財閥総帥の愛人を選ぶ事情とは、相当なものなのだろうな…」

 驍宗のストレートな嫌味は美凰の心を抉った。

「…。乍先生…。あっ、あなたに、そんな嫌味な言葉は…」
「似合いませんか?! だが、わたしは恥をかく事に慣れていない。貴女の本性を見抜けずに、結婚を申し込んだ自分が、ただ情けないだけです…」
「乍先生…」
「貴女の事など、なんとも思っていません。愛していると錯覚しただけです。貴女は貴女の思う通り金持ちの男との情事に溺れていればいい。心にもない謝罪など、何の意味もない事です…」 
「……」

 もはや、驍宗との穏やかな関係を修復する事は不可能なのだと美凰は悟った。



「随分、身勝手なお言葉ですのね…」
「なに?」

 美凰はまっすぐに驍宗を見つめ、静かに微笑んだ。
 悲哀の瞳の色からは、先程までのおどおどとした様子は綺麗に払拭されている。
 美しく澄んだ双眸に、驍宗の心は抉られた…。

「結局、あなたも尚隆さまと同じ…。あなたの仰る事はすべて正しいのね。そしていつも間違っているのはわたくし…。男性は、皆そう。表面ばかり見て、他の人の言葉を信じて、女の心の中なんて理解なさらない…」
「……」

 美凰は滲んできた涙を、白い指先でそっと拭った。

「あなたも、欲しかったのはわたくしの身体だけだったという事なんだわ…。わたくしがどんな思いをしてあの人に飼われているか、何もご存知でいらっしゃらないのに…」
「……」

 硬い表情だった驍宗の口許が美凰の涙ぐむ姿に微かに動いたが、頑なになってしまった美凰は彼が発そうとした言葉を、頸を振ってやんわりと制した。

「わたくしにとっての只の自己満足ですけれど、あなたには心からの謝罪をしたかったんです。これでもう二度と、お目にかかることはございませんから、どうかご安心ください。ただ…、要の…、弟の事だけは…、嫌わないでやってください…」
「……」
「弟は…、先生がとても好きなんです。あの子の事だけは…。違う病院に変わる事も検討しておりますから、もう少しの間だけ、あの子にだけは優しい先生でいてやってください…」

 驍宗が答えようとした瞬間、要が戻ってきた。

「姉さま! お待たせぇ〜」
「…、まあ、要。走っては駄目よ…」
「走ってなんかいないよ。ねぇ、先生?!」

 驍宗は辛うじて、要に向かって微笑んだ。
 そのぎこちない表情に、要はちょっとだけ哀しげな顔をした。

「さあ、要。お暇しましょう。来月は春が連れてきてくれるわ…」
「…、うん。それじゃ、乍先生…。さようなら」
「…、ああ。また、来月…」

 美凰は驍宗と眼を合わさないように丁寧に頭を下げて踵を返し、要の手を取ると驍宗の許から静かに立ち去った。
 そして驍宗は、遠ざかってゆく女の背姿をいつまでも見つめ続けていた。







 授業終了の鐘が鳴り響く。
 周囲のざわめきの中を、美凰は教習所内の教室で手元の冊子を閉じるとほっと息をついた。
 僅か1ヶ月の間に仮免許を取得し、現在は路上教習にまで進んでいる。
 美凰としてはもっと集中して受講したかったのだが、尚隆の厳命で女性教官にしかつけて貰えないスケジュールを組まれている為、空き時間が出来てしまう事がしばしばあった。
 手元のスケジュール帳を見ると、次の路上教習まで1時間もある。

〔香蘭さんを呼んで、お茶でも戴こうかしら…〕

 美凰が立ち上がり、喫茶ルームに向かおうとした時…。

「あっ! ちょっと!」

 声をかけられて振り返ると、若い大学生風の男性達がこちらに向かって笑いかけている。
 美凰は訝しげに頸をかしげた。

「なんでしょう?」
「これ、落しましたよ…」

 そう言って差し出されたのは派手なハンカチだったが、美凰のものではなかった。

「まあ、それはわたくしのものではありませんわ」
「えっ? でも君が立ち上がった時に落ちたように見えたんだけどなぁ〜」

 眼前の男性は顔を真っ赤にしているし、周囲の友人達は冷やかすようににやにやと笑っている。
 美凰は、些かうんざりした様子で溜息をついた。

〔またなのかしら…〕

 教習所通いを始めて以来、美凰は様々な男性に声をかけられ通しだった。
 受講している授業はいつも満員状態に近かったし、何人かの勇気あるハンサムな教官達には食事に誘われた。
 勿論、その度に『恋人が怒りますから』と、きっぱり断っているのだが…。

〔恋人なんて嘘だけれど、尚隆さまが知ったら、教習所もやめさせられてしまうわ…〕

 総てを奪われ、今は免許を取る事だけを唯一の楽しみにしている美凰にとって、それは何よりも辛い事だった。

「どなたかのものとお間違えのご様子ですわ。落し物としてお届けになったら如何ですか?」
「……」
「それでは、急ぎますのでこれで…」

 美凰はそっと頸を振って静かに微笑むと、男達に軽く会釈をして教室を出た。
 その美しい微笑みに、ナンパにはしくじったものの男達の心が釘付けになったのは言うまでもない。





 香蘭と喫茶ルームで時間を潰している最中に携帯電話が鳴った。

〔あの方かしら? 平日のこんな時間に珍しいこと…〕

 美凰は着信表示を確かめもせずに通話ボタンを押した。

「もしもし…」
「…、美凰さん…」

 その声に、美凰の双眸が見開かれた。

「…、乍先生…」

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