男心女心 8
 翌日の昼…。
 尚隆はカジュアルな服装で出社し、美凰のデスクに腰掛けてぼんやりとコーヒーを啜っていた。
 今日は休日だったが、がらんとして誰もいないマンションにいる事は苦痛だったのだ。
 会社の方がまだましだった…。
 尚隆は自己嫌悪に陥っていた。

〔俺はあの神宮司阿選と同じじゃないか! 夢の中で美凰を汚したあいつと…〕

 昨夜、半ば強姦同然に扱われたファッションホテルから、尚隆を残して逃げるように立ち去った美凰は、迎えにやった香蘭に風邪をひいたので欠勤させて貰いたいと伝えたと言う。
 尚隆の狂気の様な欲望に翻弄され、美凰は心も身体もボロボロだったに違いない。
 香蘭と毛氈は二人が入室しているホテルの付近に待機していたので、事の次第はよく解っていた。
 美凰が明らかに怯えた態度で、何度も背後を確認しながらふらふらと入口に姿を現した時、毛氈と香蘭は溜息をついて頷き合い、雇い主である尚隆の事は無視して、美凰を即座に自宅に送り届ける事を判断したのだ。
 余程慌てて出てきたのであろう。
 焦点の合わぬ眼で歩く事すらおぼつかない美凰は、いつもの身仕舞いのよいお嬢様然とした姿ですらなく、ドレスの着崩れにも頭が廻らないような哀れな様子であった。
 毛氈は尚隆の携帯を鳴らすと『我々でお嬢様をお送り致しますので、会長はお一人でお帰りください』と、些か強い口調で報告した。
 シャワーを使っている間に逃げだした美凰を心配し、慌てていた尚隆は美凰が無事である事を知ってほっとしたのだった。
 尚隆は毛氈や香蘭の咎める様な態度を無視したものの、結局は風邪をひいたという美凰の言い分を受け入れ、マンションに呼び寄せる事を断念した。
 そうして、何もする事がなく、虚脱した状態の尚隆の足は自然と会社へ向かっていたのだった。



 尚隆の手が、無意識にデスクの引き出しにかけられた。
 きちんと整頓され、最低限のものしか仕舞われていないデスク…。
 自分の存在する痕跡を残すまいとしている様子が、ありありと伺われる。
 二段目の引き出しを開けると、個別包装された苺ミルクのチョコレートと、1冊の古い文庫本が入っていた。
 懐かしい甘い香り…。
 特定製菓メーカーのチョコレートが美凰の好物だった事を、尚隆はふいに思い出した。
 5年前、チョコレート好きの美凰の為、ゴディバの高級品をプレゼントした事があった。
 といっても尚隆にしてみれば、微々たる金額だったのだが…。

『ゴディバも美味しいですけれど、少し贅沢ですわ。ゴディバでお金をお使いくださるのなら、この苺ミルクチョコを沢山買って戴けたらとても嬉しい! だってこのチョコレート、1粒10円にもなりませんし、とっても美味しいのですもの!』

 美凰はにこにこ微笑みながら尚隆が腹を抱えて笑うような事を呟き、彼の口に苺味のチョコレートを含ませてくれたのだ。
 尚隆はチョコレートを一つ取り上げ、口に放り込んだ。
 甘酸っぱい優しい味が、口の中に広がった。
 そういえば、朝から…、いや、夕べの途中で抜け出したパーティーから何も口にしていない。
 空腹の感覚があまりないのだ。
 人々の羨望の眼差しの中、美しい女優やモデルと日替わりでランチやディナーを過ごしても、近頃の尚隆は健啖に食した事がなかった。
 ただ美凰をいたぶる事だけが目的の、楽しくもない疲れる一時なのだから…。

「勝手に召し上がられては困ります。それは美凰様の大切なランチですよ…」

 不意に朱衡の声が響き、尚隆はドアへ視線を廻らせた。

「なんだ、朱衡? 土曜なのに出社か?」
「わたくしに曜日は関係ございません。職務が溜まりに溜まってございますので…」
「……」

 実質、小松財閥を動かしている実務部隊を取り仕切っている秘書室長に、土日祝日は関係ないらしい。

「昨日は途中で抜け出されましたので、事後処理が大変でございましたよ! 少しは反省して戴きませんと…」
「白沢とお前が仕切ってくれていれば大丈夫だ。じじいも来ているのか?」
「取締役は本日、唐媛様と歌舞伎をご覧になられるとかで…」
「ふん。相変わらず女房の尻に敷かれているというわけか?」

 嘯く尚隆に、朱衡は淡々と言った。

「理想的なご夫婦でいらっしゃいますよ…」

 尚隆は文庫本を手にすると、ぱらぱらとページを捲り、栞の挟まっている処を広げた。


 憂き艱難の
  おきふしを
 送りつづくも
  ひとすじに
 愛し合う身の
  いささかも
 身の不幸だに
  覚えざりしか

  『ベルール』



「何の仕事も与えられず、独りぼっちで留守番をなさっている美凰様は、お昼にチョコレートを3つ、ご持参の果物を1つだけ召し上がり、そのご本をお読みでいらっしゃいます。ご聡明なお方の事、無為の時間はさぞかしお退屈でしょうに…」
「…、なんでお前がそんな事を知っているんだ?」
「わたくしは時々、この部屋でランチをご一緒させて戴いておりますので…」
「お前!」
「わたくしがご一緒させて戴きます時は、サンドウィッチと紅茶を地下の喫茶店から運ばせますので、美凰様にも無理矢理ご相伴戴いておりますよ…」
「……」

 すました口調の朱衡に嫉妬しても仕方がない。
 尚隆は手にしていた文庫本を元に戻すと、引き出しを閉めた。

「会長は…、美凰様を飼い殺しになさるおつもりですか?」
「……」
「このままでは、美凰様は言葉を忘れた只のお人形さんになられる事でしょう。関係を改善なさろうというお気持ちがなく、肉体関係だけの存続を会長がお望みなら致し方ございませんが…」

 尚隆は怜悧な秘書室長をぎろりと睨みつけると、ソファーに向かって歩みを進めた。

「お人形さん? 結構じゃないか!」
「会長っ!」

 行儀悪くどさりとソファーに寝転がり、尚隆は静かに眼を閉じた。

「朱衡…。仕事に戻れよ。俺は少し寝る…」
「……」
「俺には…、女の身体だけあればいい…。それだけでいい」
「ご本心ですか?」
「……」

 朱衡はクローゼットから軽いブランケットを取り出し、尚隆の身体にかけてやった。

「愛して、いらっしゃるのでしょうに。心から…」

 沈んだ声の問いかけに、返事はなかった…。





 その頃、久しぶりに自分の時間を取り戻した美凰は、尚隆からの連絡がないのにほっとしつつも、疲労困憊の身体を休めながら何度も乍驍宗に連絡を入れていた。
 もう一度だけ会ってきちんと詫びたい。
 その一心でいたにもかかわらず、携帯の電源は切られたまま、病院の直通電話も取次ぎの秘書から気の毒そうに不在を告げられ、アポイントを取る事はついに叶わなかった。
 美凰にとって、僅か2日間の休息だった。





 漸く寛ぎかけて要とトランプをしていた日曜の夜…。
 不機嫌そうな尚隆からの連絡に、美凰は携帯電話を握り締めた。

『機嫌は直ったか?』
「……」
『明日からは出社するには及ばない。香蘭をよこすから、宝塚のマンションで俺の帰りを待て』
「マンションで?」
『ああ。それから…、香蘭に供をさせて教習所へ通え!』
「教習所へ…」
『ああ。今時、免許ぐらいは所持していて当たり前だろうし、君も運転くらい出来る方がなにかと便利だろう』

 一体、尚隆の心にどんな変化が起こったのだろう?

「……」
『それから…、飯はちゃんと食え。チョコレートは飯ではないぞ…』
「!」

 美凰が言葉を返す間もなく、尚隆は言いたいだけ言うとぷつんと電話を切ってしまった。
 冥く翳っていた美凰の双眸に、一筋の輝きが一瞬浮かび上がった。

〔尚隆さま…〕

 そして美凰にとって、正式な愛人生活がスタートしたのである。

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