美凰が尚隆と共に大阪に戻ったのは、週明けの事だった。
日本を離れてからの日々を換算すると、20日ばかりの月日が流れている。
〔たった1週間の予定だった筈なのに…〕
元はといえば、肺炎などにかかった自分自身に問題があるのだが…。
神宮司阿選との再会は、美凰に恐ろしい程の精神的恐怖をもたらした。
そしてその恐怖が、小松尚隆というもう一人の脅迫者に頼りきってしまう結果を生んでしまった。
心のどこかで、尚隆と共にいれば安心だと思い込んでしまっているのだ。
美凰は己の不運さを嘆かずにはいられなかった。
そしてもう一つの問題である、乍驍宗からのプロポーズ…。
尚隆の不在の隙を狙って、大阪に戻ったらすぐにお会いしますと電話で約束したものの、どういうわけか見透かされているかの様に、尚隆の眼から逃れる事が出来ぬまま、悶々とした状態で週末の金曜日を迎えてしまった。
「パーティー?」
「ああ、そうだ。今夜のパーティーには朱衡と一緒に、君にも参加して貰う…」
「……」
美凰は現在、尚隆専属の特別秘書として、行動の殆どを彼と共にしていた。
それこそ朝から夜まで、公私共にという状態である。
秘書の仕事といっても、実質は朱衡の率いる秘書室が実務をしているから、ベッドの相手以外で美凰が特にさせられている事といえば、会長室で女性からの私的な電話を取り次ぎする事、私信を開封する事、コーヒーを入れる事、そして日々変わる尚隆のデートの相手に対して、プレゼントする花を注文する事、これだけだった。
出かける時も行動を共にしなければならず、とにかく夜遅くなって自宅に戻る以外に、一人きりになる機会がまったくと言っていい程にないのだ。
教習所に運転技術を習得に行くという話も、尚隆の反対により途絶えているので、気晴らしすら出来ず、美凰は籠の中の鳥状態である。
そして個人的には何も言われないし、秘書室は口が堅い部署なので一切外部に漏らされる事はないにしても、その他の部署、そして社内中が尚隆と美凰の噂でもちきりである事は火を見るより明らかであった。
美凰は俯いて、尚隆から差し出されたメモに書いてあるモデル事務所の住所を見るともなく見つめていた。
今からこの住所宛に、豪華な花籠を注文しなければならない。
今日の昼食のお相手をして貰ったお礼として…。
〔本当に、お食事のお相手だけだったのかしら…〕
美凰の嫉妬心を煽るかのように、毎日毎日違う女性とランチやディナーを楽しんでは、聞きたくもないのにどんなに素敵な時間を過ごしたのか、懇切丁寧に話してくれる。
その度に相槌を打ち、微笑むのにも疲れてしまった…。
身体が漸く復調した所にもかかわらず、毎日の帰宅は10時より早かった事はない。
要と会話する機会も少なく、春には体調の心配ばかりされている。
そして、乍驍宗にも美凰は早く会いたかった…。
会長室のデスクの前で、美凰はまるで先生に呼び出され、叱られている子供の様に項垂れがちに、豪華な椅子にふんぞり返っている尚隆に向かって問いかけた。
「明日は、お休みを戴けますの?」
「明日の土曜日は俺も休みだな」
「でしたら…」
「君には俺と一緒に、ずっとマンションで過ごして貰うつもりだぞ?」
「…。でもわたくし、しなければならないことがございますの…」
「洗濯も掃除も優しいばあやがしてくれるだろうが?」
意地悪な尚隆の態度に、美凰は溜息をついた。
「…。お解りでいらっしゃる筈ですわ。わたくしが…」
「あの医者になら、会う必要はない。電話で話をつけろ!」
尚隆はぞんざいに言うと、口に咥えた煙草に火をつけた。
「プロポーズをお断りするのに、電話でだなんて…。そんな人様を莫迦にした様な事は出来ませんわ…。どうかお願い…、お休みさせてください…」
美凰の哀願を無視し、デスクに置かれた書類に眼を通しながら、尚隆は苛々した様子で紫煙を吐いた。
「だから明日は休みで、君は宝塚のマンションで俺の相手をすると言っているだろう。何度も同じ事を言わせるな」
話は終わったとばかりに、尚隆は書類に没頭し始める。
「あの…」
「コーヒー…」
「……」
美凰は唇を噛み締めながら黙って引き下がり、コーヒーの支度に取り掛かるべく専用キッチンへ向かった。
尚隆は書類を読むふりをしつつ、その悄然とした背姿をじっと眼で追っていた。
「…、昼飯はちゃんと食ったのか?」
香り高いブルーマウンテンを口にしながら、自分の机に戻る美凰に尚隆は問いかけた。
「ええ…。戴きましたわ」
尚隆は疑いの眼を向けながら立ち上がり、美凰のデスクへと近づいてきた。
「俺は君の肉付きに満足してる。スレンダー過ぎる女は好かん…。ダイエットなんかしてもらっては困るぞ!」
「そんな事はしておりませんわ…」
近づいてくる尚隆に怯えた美凰は、メモに意識を集中させながら花屋の番号をダイヤルした。
いつも通りにアレンジメントフラワーを注文し、メモに書いてある住所と宛先名を告げていると、尚隆が背後に廻ってきて、コーヒーを飲みながらそっと美凰の髪に触れ始める。
嫋やかな双肩がぴくりと揺れ、受話器を握り締める手が震えた。
「ではそれで…、宜しくお願い致します…」
注文をし終え、慌てて受話器を置くと、美凰は頸筋を軽く撫でている尚隆の手から逃れるように立ち上がった。
「やめてください! こんな所で…」
尚隆はくつくつ笑った。
「こんな所って…、可愛い君との初夜の場所じゃないか?! ほら、そこの床…。憶えているだろう?」
「やめて…」
美凰は、真っ赤になった美しい花顔を歪めた。
あの夜の事は思い出したくもないのだ。
「昨日もそう言ってたな? そのくせ次の瞬間にはそこのソファーで…」
「もうやめてっ!」
「……」
明らかな意図を持って近づいてくる尚隆から身を護るように逃れ、美凰は動悸を抑えるように胸に手を当てた。
尚隆はコーヒーカップをデスクに置くと、ゆっくり美凰に近づいてくる。
今日もまた、彼の思いのままに玩具にされてしまう…。
逃げたしたい思いで一杯なのに、あの強い双眸に見つめられると、美凰は射すくめられた小動物の様に身動きが出来ないでいる。
僅かに後じさった瞬間、ノックの音が響いて、二人の間に流れていた情事の気配が霧散した。
「失礼致します。会長…」
朱衡の声に、美凰はほっとした様子で肩の力を抜いた。
対する尚隆はお楽しみの邪魔をされたと言わんばかりに、不機嫌になった。
ドアを開け放った朱衡は、眼にした二人の雰囲気を敏く感じて眉を顰めたものの、すぐに普段の怜悧な表情になってつかつかと室内に入ってきた。
「会長、そろそろ美凰様をお連れしたいのですが?」
「…、わたくし?」
訝しげに問う美凰に、朱衡はにっこりと微笑みかけた。
「はい。今夜のパーティーのお支度に、唐媛様の所までお連れする様に仰せつかっておりますので…」
「……」
「パーティーは7時からだ。支度には早過ぎるぞ!」
憮然とした尚隆の声を、朱衡は平然と無視した。
「我々と違って、女性は色々とございますから…。それでは美凰様、参りましょうか?」
「はっ、はい…」
朱衡に促され、美凰は慌ててクローゼットにバッグを取りに向かった。
「朱衡…」
「会長…、いい加減になさいませ」
尚隆の言葉を朱衡は遮った。
「ここは職場です。SEXの為のお籠もり場所ではございませんし、鳥籠でもございません」
「……」
「少し常軌を逸しておりますよ、会長。…、美凰様をここに閉じ込め、昼食もひとりきりで誰にも接触させず、ましてやこの様な日中から好き放題…。大凡、普通の大人のなさる行動ではありません。秘書室の口は堅くとも、他の部署の者はそうではありません」
尚隆は朱衡の視線を避け、そっぽを向いた。
「言いたい奴には言わせておけばいいだろう? 第一、会長である俺の私生活の事をあれこれ噂する輩なんぞ、社員として雇っておれんぞ!」
「噂話は人間のごく当たり前の感情です。あれ程の美女でいらっしゃる上、会長の私生活ともなれば猶の事でございましょう。…、愛人と割り切っておいでなら、ここへお連れにならずマンションでお待ち戴くべきです」
「……」
「マンションとて鳥籠には違いありませんが、少なくとも美凰様が衆目に晒されず、ご気分優れぬ事も…」
「…、気分が優れない? はっ! 結構じゃないか!」
「会長…」
尚隆は朱衡を鋭く睨みつけながら、コーヒーカップを再び手にして自分のデスクに戻った。
「あの女は俺のプロポーズを断ったんだぞっ! この俺の…」
朱衡は溜息をついた。
「…、よく承知しております…」
二人の間に何があったのか、大方の事情は独自調査により知り得ている。
美凰へのあまりに激しい愛を自覚していない尚隆、そしてひどい態度ばかりとられ続け、彼の熱愛に気づけないでいる美凰…。
〔求婚を断られ、自尊心が傷ついたふりをしておられるが、その実は…〕
その実は、心の奥底から求める美凰への愛を、自らの中にしかない答えを持て余し、徒に美凰をいたぶる事で解消しようとしているのであろう。
朱衡の鋭い洞察は的を得ていた。
「自分の立場や後先の事をよく考えもせずに、愛が恋がとガキの様な事をぬかしてこの俺の申し込みをにべもなくはねつけた…。過去は水に流して、借金も帳消しにして、『妻』にしてやろうと寛大に申し込んでやったというのに…」
「……」
そこへ美凰が、バッグを手に俯き加減に戻ってきた。
「俺はな、あの女のいじけた態度を見るのが楽しくて仕方ないんだ。大いにしょげ返って貰おうじゃないか。飯も病気にならない程度に食っているならそれでいい。べちゃくちゃお喋りしながら楽しそうに食う必要はまったくないし、誰とも仲良くする必要もない! 俺の言う事を聞いて、俺の言いなりになっていればそれでいいんだ! 自ら選んだ『情婦』という立場は、そういう扱いを受けるものだという事を、骨の髄まで解らせてやるさ!」
「会長っ!」
じっと立ち尽くして尚隆の言葉を聞いていた美凰に気づき、朱衡は慌てた。
「朱衡さん…、お待たせいたしました…」
「美凰様…」
花顔は哀しげに微笑んで朱衡を見つめた。
尚隆はといえば、重厚なデスクに腰掛けるように身をもたせかけ、あらぬ方向を見つめている。
「では…、参りましょうか…」
美凰は微かに頷き、朱衡の後に続こうとした。
「待てよ!」
部屋を出ようとしている美凰の二の腕を尚隆は掴み締めた。
「…、なんでしょう?」
「外出するのに、上司に挨拶もなしか?!」
ショックを見透かされまいと美凰は俯いたまま、尚隆の目線を避けて軽く頭を下げた。
「…、申し訳ございません…。行って参りますわ…」
苛々した尚隆は、美凰の顎に手をかけて花顔を仰のけると噛み付くようなキスをした。
だが、男の熱い唇に美凰はぼんやりとして無反応であった。
先程の尚隆が言い放っていた言葉に深く心を傷つけられた美凰は、彼のキスに応える事が出来なかったのだ。
唇が離れると、美凰は眉を顰め、嫌そうに手の甲で唇をそっと拭った。
あからさまに不快そうな美凰の様子は、尚隆の複雑な心を冷たい刃で貫いた。
「もう、沢山…」
「美凰…」
「あなたが解らない…」
「……」
美凰は、哀しみと怒りがない交ぜになった表情で尚隆を見上げた。
吸い込まれそうに美しい、黒曜石の明眸だった…。
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