「久しぶりだな?」
不意に肩に置かれた力強い手にびくりとなり、花總美凰は叩いていたキーボードの手を止めた。顔を仰のけて手の主を見上げるや、美凰は驚愕の余り美しい双眸を見開く。
「あなた…、尚隆さま?」
この五年、片時も忘れた事のなかった愛しい男、小松尚隆が自分の目の前に立っている。幻ではないのだろうか?
「まさかこんな所で巡り逢おうとはな? 華族のお嬢様がなんでこんな会社の事務員をしている?」
魂も凍りそうな冷ややかな眼で見下され、美凰は美しい唇を噛み締めて俯いた。
「あの…、わたくし仕事中ですので…」
じっと美凰を見つめていた尚隆だったが、やがて肩を竦めると複数の部下たちを連れてすたすたと去って行った。その後ろを庶務課長が平身低頭の体で見送りに続く。
美凰の足はがくがく顫えていた。
〔もう二度とお目にかかる事はないと思っていたのに…〕
尚隆達が去った後、美凰は周囲の好奇の眼に晒されていた。
大層な美貌と社内でも評判高いが性格は至って大人しく、同僚との付き合いも消極的な美凰が、よりにもよって突如、何の特にもならない傾きかけた自社の株を買い占めて、親会社となった謎の大企業の社長と知り合いであろうとは、誰にも想像が出来ない事であった。
しかも相手は三十歳前後の大変魅力的な男性である。筋肉質のすらりとした長身を高級なブランドスーツに包み、端整な風貌でにっこり微笑みながら会社に現れた瞬間から、女子社員の殆どは映画の大スターを間近で見たような状態で大騒ぎだったのである。
三十分もしない間に好奇心むき出しの係長の声が響いた。
「花總君、社長室からお呼び出しだよ」
「はい…」
美凰は溜息をついて立ち上がり、周りの眼から逃れるように俯き加減でそそくさとエレベーターに向かった。
社長室の前に立った美凰は溜息をひとつつき、扉をノックした。
「入れ」
「失礼致します」
伏し目がちに扉を開ける。
室内には尚隆しか居らず、美凰は扉のノブに手をかけたまま中に入る事が出来なかった。
「あの…、わたくし、社長に呼ばれて参ったのですけれど?」
「俺が社長だ」
「ええっ?!」
驚いて立ち竦んでいる美凰の全身を、尚隆はにやにや笑いながら、頭から爪先までそれこそ不躾な程に眺めていた。
「中に入って扉を閉めろ」
「……」
尚隆の視線が怖い。
「耳が遠いのか? 早くしろ」
「……」
混乱して微かに顫えている眼前の女に、尚隆はくつくつと笑った。
「心配しなくても何もせん。話があるだけだ」
〔今はな…〕
尚隆の視線が、地味なブラウスとスカートに包まれた豊満な胸や腰の辺りを何度となく彷徨う。
男の欲望の眼に気づかず、美凰は意を決して扉を閉め、中に入った。
「一時間以内に荷物を纏めろ」
「は?」
美凰の身体から視線を離さず、尚隆は口に咥えた煙草に火をつけながらぞんざいに言い放った。
「あの、どういうことですの?」
「君はクビだ!」
「なっ…」
驚きの余り、美凰は双眸を見開いた。
吸い込まれそうに美しく澄み切った黒曜石の様な双眸に、尚隆の心は微かにざわめく。
かつて、心から愛し何よりも美しく思った女の瞳…。
〔莫迦な! 俺の目的は復讐だぞ!〕
尚隆は苛々した表情で呆然としている美凰を睨めつけた。
「あの…、どうしてわたくしが?」
「社長が社員の解雇をするのに理由がいるのか?」
「そんな! それは不当な仰りようですわ!」
「不当だと?!」
尚隆は煙草を揉み消すと、つかつかと美凰の傍へ歩み寄った。
本能的に怯えた美凰は男から逃れようとドアノブに手をかけたが間に合わず、伸びてきた逞しい腕に胴を掴まれた。
「なにをなさるの?! 離してください!」
美凰は尚隆から逃れようと身もがきするが、鋼の様な腕にはますます力がこもり、柔らかな身体はドアと尚隆の身体に挟まれてしまった。
「不当などとは言わせんぞ!」
「あっ!」
男の逞しい胸を押しのけようとした両手は難なく捩りあげられ、悲鳴を上げようとした美凰の唇は尚隆の唇に塞がれてしまった。
〔くそっ! 身体が勝手に反応する…。なんて甘い柔らかな唇なんだ!〕
尚隆は、憎んで余りある女の甘い唇を愉しんでいる自分を自嘲せずにはいられなかったが、それでも飢えを満たす様なキスを繰り返し続けた。
五年ぶりに受けた熱い唇に衝撃を受けた美凰は、抵抗する事も忘れて顫えたままであった。
尚隆は美凰の唇をこじあけて舌を差し入れながら、ブラウスの上から豊満な乳房を強く掴んだ。
「あっ!」
身体中に電流が走りぬけた様な心地良さに、美凰は思わず甘い声を漏らし、未だ忘れられぬ恋しい男の名を呼んだ。
「あっ! 尚隆さま…」
その甘やかな声に我を取り戻した尚隆は、乱暴に美凰の身体を突き放した。
「流石に、未亡人はいい反応をするじゃないか?」
尚隆はネクタイを緩めながら美凰から離れ、ソファに腰掛けると再び煙草に火をつけた。
落ち着いて欲望を抑えなければ、今ここで何をしでかすか判らない。
突然、身体の支えを失った美凰はドアに背を預けたまま、その場に崩れ折れてしまわない様に懸命に両脚を踏ん張っていた。
「空閨が長かったらしいな? 男が欲しくて堪らんというわけだ!」
煙草の煙を吐きながら、尚隆は淫らな笑いを浮かべて美凰を嘲笑う。
息を整えながら、美凰は信じられないとばかりに尚隆を見つめた。
男の口から吐き出す様に言われた悪意に満ちた言葉に、美凰は呆然と尚隆を見つめていた。
「なにを仰っているの? わたくしがそんな…」
尚隆はくつくつと笑った。
「さっきの応え方はどう見ても、亭主が死んでからずっと独り寝だった様には思えんぞ?」
「……」
「まあ、昔馴染みの事でもあるし、俺でよければ情けをかけてやらんでもないが?」
男の淫らな眼差しに、美凰は全身を小刻みに震わせた。
「……」
「金に困っているのだろう? 中古品は好みじゃないが、五年前に抱き損ねた身体だと思えば試してみるのも悪くない」
〔彼はわたくしに、わたくしの身体を売れと言っているの?〕
吐き気がする…。
美凰は、喉許を抑えながら搾り出す様な声で返事をした。
「荷物を纏めるのに一時間も必要はございませんわ。私物は何もありませんもの…」
「……」
「手続き上、なにか必要な事がございましたらご郵送かお電話を人事課から戴ければ…。それでは失礼致します」
「……」
美凰は慄えながらドアノブに手をかけて扉を開けると、尚隆を見ようともせず静かに頭を下げて廊下へと出た。
美凰は周囲の好奇の眼に晒されながらも、唇を引き結んでひたすら私物を纏めた。
「新社長から突然解雇を言い渡されたって、一体どういう事なんだね?」
総務と人事と、それに自分自身の上司である財務の三課長がおろおろと美凰に問いかけてきた。
「理由はわたくしにも解りませんわ。いずれにしましても細かい手続きは後程ご連絡戴ければ…。三年間、本当に御世話になりました」
美凰は丁寧に上司達に頭を下げ、朋輩たちへの挨拶もそこそこに会社を飛び出した。
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