眼前に置かれた何杯目かのウイスキー。
一流の老バーテンダーが削った見事な球体の氷に、まとわりつく様に注がれる琥珀色の液体。
店内の仄かな灯りに煌いているダブルのストレートを、尚隆はじっと見つめた。
その表情は一向に酔ってはおらず、常の覇気さえ見られない。
「小松様…。ほどほどになさってお部屋へお戻りなさいませ。酒に逃げても、問題は解決いたしませんよ」
「…。穿った事を言うものだ。マスターに俺の悩みが解るのかね?」
然程美味いとも思わず、流し込む様に高価な酒を空にする尚隆にバーテンダーは小さく肩を竦めた。
「…。世間の噂や週刊誌のスキャンダルなどは殆どが誇大妄想捏造もの。常日頃から大切に酒を召し上がる、酒好きの小松様がそのような無様な飲み方をなさるのですから、相当なものでございましょう…」
「……」
「先程の女優に、未練をお残しなのではございませんでしょう?」
苦虫を噛み潰した様な表情をした尚隆は、飲み干したグラスを前に差し出した。
「ああ! 未練たらたらだ! あんな美人はなかなかおらんぞ! なあマスター、俺はかなりおかしいだろう?」
「……」
美凰の妹、文繍のスポンサーとして彼女が所属する芸能事務所を訪れた際に同伴していた女は、今、最も売れているといわれる美人女優の一人だった。
小松財閥が全面協賛している赤澤明監督の新作映画のオーディションを受けると紹介された。
プロダクションの社長と共に挨拶に訪れた彼女の眼に、女好きと定評のある大財閥総帥の食指を促して主役を手に入れようとしている取り引きの色を見た尚隆は苦笑した。
そして女の期待通り、さも誘惑に乗った莫迦な男を装って豪華なランチに誘い、そのまま文繍の許を訪れたのだ。
妹の口から姉に告げ口される事を、心のどこかで期待して…。
嘘の笑顔で心のこもらぬ会話を繰り返し、夕食を共にした後、ここへ足を踏み入れた。
シックなバーカウンターで、楽しい一夜を過ごす為の景気づけをしていた筈だった…。
それなのに…。
野心的な女の乗り気な態度、あわよくば一夜のお相手だけでなく、小松財閥総帥の新恋人に成り得るやもしれぬというあからさまな誘惑…。
真っ赤に塗られた口紅の色に嫌気が差した尚隆は、『すまんが気が変わった。来年の映画のヒロインは君に決定する様に一報しておくから今夜は帰ってくれ! 小切手を君のプロダクション宛に送っておく。今日一日、付き合って貰った礼だ!』と告げて、美人女優を帰らせたのだ。
〔これで何度目だ?! あれ程完璧な女を眼にしていながら、俺は一体、何をしている?!〕
気がつけば些細な事で粗探しをしてばかりいる自分が居た。
美凰ならばこんな話し方をしない。
美凰ならばこんな食べ方をしない。
美凰ならばこんな誘い方をしない。
そして…、美凰ならばこんな笑い方はしない…。
そう思った途端、懸命に自らを奮起していた欲望はあっさりと霧散した。
〔憎い! 他の女を抱きたい! 俺は他の女が欲しいんだ! なのに何故、お前は俺を縛りつける?! 俺はお前が憎い! 憎んで怨んでこの5年を過ごしてきたというのに! いい加減に俺を解放してくれ! 俺はお前なしでも生きていける事を証明したいんだ!〕
再び、眼の前に置かれたグラスに視線を落す。
「これが最後でございます。お部屋へお戻りなさいませ。…、御婦人が、お待ちでいらっしゃいますよ」
「……」
小松尚隆が最上階のVIPルームに美しい女性を住まわせている事、彼女が病身の為、完全看護状態で軟禁されている事は一部の関係者しか知らない事だ。
尚隆は自嘲の笑みを漏らしつつ、グラスを手に取った。
「待ってなど…、いないさ…」
バーテンダーは静かに首を振って、淡々と手元のグラスを磨き始めた。
「酒は、基本的に楽しく飲むものです。次にお目にかかる時は…、いつも通り、陽気にそして大切に召し上がってくださる小松様にお戻り戴いていたいものですが…」
「……」
尚隆は虚ろな眼差しでグラスを一気に空けた。
強い刺激が喉から臓腑へ染み渡る。
「また…、来る…」
「…。有難うございました…」
些か酔いが廻ってきたのか、ゆらりと立ち上がった尚隆は片手をあげてバーテンダーに小さく手を振りながら力なくバーカウンターから歩み去った…。
「会長…」
エレベーターホールまで進んだ時、常に遠巻きに尚隆を守護しているSPの一人が声をかけてきた。
「なんだ?」
「…。お出かけに、なられますか?」
「……」
SP達は当然、美凰の存在を知っている。
彼女が今までの愛人達とは全く違う存在である事も…。
だが彼らは、尚隆が抱えている深い闇について気づいてはいても言葉を決して差し挟まない。
尚隆はちっと軽く舌打ちをした。
「どいつもこいつも…。余程俺に夜遊びをさせたくないらしいな?」
「いえ。お出かけならば、車を廻しますが…」
「…。いや、いい。今夜はもう店じまいだ…。お前達も、飲みたいなら飲んで来い」
そう言うと、尚隆は上行きのボタンを押し、到着したエレベーターに乗り込んだ。
「いえ! 自分達はまだ勤務中ですので!」
「成笙に怒られるか! はっ! くそ真面目な事だ!」
尚隆はくつくつ笑いつつ扉の向こうに消えた。
「お可哀想な方達だ…。お二人とも…」
SPは溜息をつきつつ携帯無線を鳴らし、最上階に待機している同僚に会長がエレベーターでそちらに向かっているとの連絡を入れた。
〔今夜は絶対に、美凰の部屋へ行ったりしない! 絶対だ!〕
そう心に誓うものの、その誓いはいともあっさり破られる事を尚隆は心のどこかで感じていた。
毎夜毎夜の虚しい行為。
弱った美凰にSEXを強要する事はできないのに、尚隆は深夜になると必ず密やかに眠る彼女のベッドサイドを訪れ、何をするというわけでもなくその寝顔を延々と眺めているのだ。
そう。
それはまるで、5年間憎みながらも求め続けていた女が手許にある事を確認したいが為の行為…。
恐ろしいまでの執着心だった。
〔俺は、お前なしでも生きていける事を証明したいんだ! 一体どうすればいい?〕
ガラス張りのエレベーターの外に視線を向けると、眼下には光の海が煌いている。
微醺を含んだ尚隆の冥い双眸には、苦渋の色が満ち満ちていた…。
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