男心女心 1
 美凰が帰国できる程度まで復調するのに、10日を要した。
 現地の医者や看護婦はもう少し様子を見たほうがいいとしきりに引き止めたが、結局は美凰の強い希望で帰国の途に着いた。
 美凰はすぐにでも要たちの待つ大阪に帰りたいと訴えたが、尚隆の仕事の都合で東京に滞在する事を余儀なくされた。
 肉体関係が中断されているにもかかわらず、何故か尚隆は体調の思わしくない美凰を片時も離そうとしなかった。
 その上、朱衡に命じて小松財閥の医療チームに所属させている江月梅女医と看護婦長の山城遥をつけさせたので、宿泊する帝国ホテルのスイートは病院に入院しているのと、いやそれ以上に贅沢な完全看護の環境であった。
 だが、美凰にして見れば豪華な牢獄に飼われているのと同じだったに違いない…。





「じゃ、要…。いい子でいてね。もう少ししたら姉さま、大阪に戻れるから…」

 毎日連絡をしている弟に向かって、美凰は優しく囁くと静かに電話を切り、そっと吐息をついた。
 出張中に肺炎にかかった事は、既に朱衡から伝えられており、美凰が電話をすると電話口に出てきた春は心痛の余り、そのまま泣き噎せんで会話を続けるのも一苦労だった。

『そちらに上がりたいのはやまやまですが、坊ちゃんの御世話もございますし…。有難い事に朱衡さんのお話によれば、会長さんの主治医をつけて戴けていらっしゃるとか?』

 春の思惑めいた声に眉根を寄せ、美凰は少しだけぞくりとなった。

「ええ…。そうよ。だから心配しないで…」

 用件だけを伝えるとまた電話すると言って、美凰はそそくさと受話器を置いたのだ。



〔春は…、また妙な誤解をするかもしれない…〕

 乳母はステイタスに弱い。
 美凰が大金持ちの秘書になった事、社宅と称して豪華なマンションを与えられた事、そして会長専属の主治医をつけられて治療を施されている事…。
 その見返りは一体、どんな事で贖っているのか、そこまで頭が廻らないのだ。
 お嬢様は昔と変わらず清らかなお嬢様で、そのお嬢様に恋をした大金持ちの、上品な紳士がお嬢様に夢の様なプロポーズをして幸せになる…。
 ある意味純情な春は、そんな幸せでお気楽な夢を見ようとしているのだ。
 乳母の心が重く、そして哀れでもあった。

〔ばあや…。あなたが5年前、妾腹の野良犬と蔑んだ尚隆さまが、あなたの夢見る紳士だと知ったら、あなたは一体どうするのかしら…〕





 電話を切った美凰はカーテンを捲り、日比谷の町並みをじっと見つめていた。
 外は暑いだろうが、日比谷公園の中を散歩したらさぞ気持ち良いだろうと考えながら…。

「まあ! 横になってませんと!」

 山城婦長の甲高い声に美凰は溜息をついた。
 国立病院から小松財閥に引き抜かれた超一流医療コンビ、江月梅(こうげつばい)医師と看護婦長の山城遥は、美凰の体調回復に全力を注いでいた。

〔山城さんって、春みたいだわ…〕

 すらりとした体躯に厳しさを漂わせた年配の看護婦長は、口うるさい自分の乳母となんとなく共通点があり、とても親しみが持てた。
 対する月梅女史はとても優しい、穏やかな美人医師だった。
 年齢は30代の後半といった所だろうか…。
『会長の愛人』というからには、さぞや我侭美人の世話かとげんなりしていた二人だったが、花の様な美貌の美凰の、二人といない素晴らしい人柄に魅了され、忽ち親しくなったのである。



「すみません…。あの、公園を散歩したら気持ちいいだろうなと思ったものですから…」
「少し目を離すとすぐベッドをお離れになって…。お退屈なのは解りますけれど、もう少しの辛抱ですよ。さあ!」

 美凰は素直にベッドに戻った。
 山城婦長はてきぱきとランチの準備をする。
 帝国ホテルで特別に準備された、豪華な病人食であった。
 漸くまともに食事が取れるようになった美凰は、順調に回復しつつある。
 不意に来訪を告げるベルが響いた。

「あら、お客様ですかしら?」

 山城婦長は訝しげに客間に向かった。
 聞き覚えのある女性の声の押収が聞こえ、明るい華やかな声が近づいてきたかと思うと、ノックもなしに寝室のドアが開かれた。

「美凰ちゃん! 久しぶりっ! なんだ、元気そうじゃん?!」
「まあ!…。文繍!」

 美凰は驚愕に眼を丸く見開いた。
 訪ねてきたのは、東京でモデル活動を続けている異母妹の文繍であった。





「もう吃驚しちゃった! 美凰ちゃんがあの小松財閥の中枢に勤めてるなんて…」

 リビングのソファーに納まった文繍は美味しいコーヒーのお代わりをしつつ、豪華な室内にぴったりの雰囲気である姉の様子を見つめてきた。
 薔薇色のブランド物の美しいガウンを羽織った美凰は、妹のまじまじとした視線に赤くなりながら静かにホットミルクを口にした。

「美凰ちゃん、まさか小松の愛人とかやってるんじゃないよね?」
「なっ、なにを言い出すの! あなたったら…」

 まだ16歳だというのに、なんとませた事を口にするのだろう。
 街中でファッションモデルとしてスカウトされたのが2年前、本人が強く望んだ芸能界行きは、やはり反対すべきだったのだろうか…。

「冗談、冗談! そーだよねぇ〜 いくら美凰ちゃんが滅多に居ない美人でも、世界的なセレブがおいそれと庶民を愛人なんかにしないよねぇ〜 でも美凰ちゃん程の美貌ならシンデレラストーリーも夢じゃないかな〜 なんて思ったりしたんだ!」

 美凰は美しい顔を顰めた。

「ばあやがまた何か言ったのね?」

 文繍は悪戯っ子の様にウインクした。

「春はお伽噺が大好きなのよ! どーせありえないことなんだから、夢見せさておけばいいじゃん。美凰ちゃんみたいな真面目で優しい女が、愛人生活なんか出来ないっての! まあ、春の想像の場合は清く正しく美しくの路線だけどね…」

 美凰は相変わらずのおきゃんな妹に額を押さえた。

「文繍、ここのこと、誰から聞いたの? 姉さま、もう少し具合が良くなったらあなたに会いに行くつもりだったのよ」
「うん。解ってる。それがさ…、今日事務所に電話が入って、朱衡さんって人に美凰ちゃんがここに居るって話聞いたんだ。って言うか、今あたし、凄く大変なの!」
「大変? なにかあったの?!」

 心配の余り、身を乗り出した美凰に文繍はにこにこ笑った。

「うんっ! すっごい大変! ここの向かいの劇場で11月にやるお芝居の主役に抜擢されたんだ! 先週オーディション受けて…。返事がなかったから駄目だろうなって諦めてたんだけど、急に電話がかかってきて…。スポンサーもついてさ…。本当に吃驚なんだ!!!」
「まあ! 主役だなんて凄いじゃないの! 漸く認められるようになったのね!」

 美凰は我が事の様に喜んだ。

「うん! これが成功したら、一気にテレビや映画の話も舞い込んでくるかも知んないし…。そしたらもう、美凰ちゃんにお金の苦労をかけないで済むようになるよ! 要の手術代だって出してあげられるしさ…」
「まあ…、文繍…」

 美しい双眸に涙が浮かぶ。
 お金のことより、大切な妹が幸せの階段に一歩足を掛ける事が出来たことがただ嬉しかった。

「あたしが成功したら、美凰ちゃんだって、昔みたいに何の苦労もなく好きなお茶やお花やピアノやって暮らせるようになれるんだもん。絶対頑張るよ、あたし…」 
「わたくしの事はいいのよ。それよりも奢らずに、日々努力なさいね。姉さま、とても嬉しいわ。要や春には話したの?」

 文繍は頸を振った。

「ううん、まだ…。まずは美凰ちゃんに一番に報告をって思ったの! でも、凄い偶然よね。あたしについたスポンサーが小松財閥なんだもん! お芝居の提供もそうなんだよっ!」

 美凰は双眸を見開いた。

〔なんですって?! 尚隆さまが…、文繍のスポンサーだというの?!〕



「……」
「会長さんにも昨日挨拶したんだけど、これがまたすっごい男前でさ! まだ30歳くらいなんだろうけど、圧巻的っていうのかな〜 セクシービームムンムンでさ! そこらに居るイケメン俳優も顔負けって感じだったなぁ〜 腕にぶら下がってた連れの女がまたすっごいセクシー美人でさ〜!」

 その言葉に美凰が愕然となったのを、一人で悦にいって喋っていた文繍は気づかなかった。

「ありゃ〜 相当深い関係って感じだったな〜 あれっ?!」

 文繍は、眼前の姉の沈んだ様子にお喋りを止めた。

「美凰ちゃん、どーしたの?! 沈んじゃって…。まさか、具合悪くなってきた?!」

 美凰ははっとなって俯けていた顔を上げた。

「…。ううん。なんでもないのよ…」
「なんでもないって、美凰ちゃん?! 泣いてるじゃんっ! どっか痛いの?!?!!」
「なんでも…」 
 
 美凰は両手で顔を覆った。

〔あの人は、また他の美しい女性と過ごしているのね…〕

 プロポーズを断ったもののこの2週間ばかり、尚隆は他の女性とは過ごさずに居てくれるのではないかと思う時が、度々あった。
 余り傍には居てくれないが、戸惑うばかりにぎこちない優しさが漂っていたし、夜中にはしょっちゅう様子を見に来てくれている気配も感じられた。
 例え愛のない結婚でも、断った自分が莫迦だったかも知れないと後悔した瞬間が何度あったことだろう。
 だが、やはり自分の選択は間違ってなかった。
 それなのに、尚隆が他の女性と共にあると聞いて激しい嫉妬が全身を襲う。
 そんな自分が、美凰は堪らなく嫌だった。
 突然、眼前ですすり泣き始めた姉に、文繍はどうすればいいか解らずに唯、呆然としていた。

_38/95
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