再会 2
「朱衡か? 俺だ! 今夜中に自家用ジェットでニューヨークを出発する手配をしろ!」
『如何なさいました? 暫くはそちらのミュージカル女優さんのアパートメントでお過ごしかと…』
 尚隆はいつも鍵をかけている引き出しの奥から少しばかり色あせた宝石箱を取り出し、口許を引き結んだ。
「こっちのゴタゴタは総てならしたぞ! もうニューヨークに用はない。ニューヨーク支社にはもう少しこましな人材を投入しろ。必要なら六太に情報収集させておけ。それよりも俺は日本でしなければならない事がある! それについてお前にいくつか準備して貰いたい事があるんだ!」
『……』
 尚隆は凡そ三十分、脇目も振らずにただ一点だけを見つめ続けて疲れた目元を揉みながら、それでも目の前にある写真に視線は釘付けで、怜悧な会長秘書に向かってあれやこれやと命令を出し続けた…。
 電話を切った後、暫くぼんやりと天井を見つめていた尚隆は磨き込まれたマホガニーのテーブルに乱暴にグラスを置くと小さな宝石箱と上着、それにブリーフケースを掴んで足早に部屋を出て、地下駐車場への直通エレベーターに乗り込んだ。
 突然の主の出現にお抱え運転手のポールがおろおろとリムジンの準備をし始めたが、彼は自分で運転してゆくと言い捨て、フェラーリの駐車場所までさっさと歩み去った。


 熱気ムンムンである筈のニューヨークの街は、尚隆に冷たかった。
 車が道にあふれて思うように走れず、ハンドルを握り締める彼の拳は白くなっていた。
 先を急ぐあまり、パーク・アヴェニューの角で赤信号を無視した途端、青と白のパトカーが追って来て、世界でも数台しか製造されていない紫色のフェラーリに止まれと合図を送った。
「ちっ!」
 尚隆は仕方なく命令に従った。
 警官が威張って車に近づいて来た。
 けれども尚隆の顔を見て驚き、そしてフェラーリの周囲に群がる黒塗りのメルセデスとどこからともなく現れた数名のボディガードを確認した途端、すまなそうに言った。
「これはどうも、小松さん…」
 端正な尚隆の顔に冷笑が浮かんだ。
「急用なんだ」
 警官はちょっと顔を赤くし、媚びるように呟いた。
「パトカーで先導いたしましょうか?」
 尚隆は鷹揚に頷いた。
「空港へ行きたいんだ。宜しく頼む」
 彼は電動式のウィンドウを閉め、再びエンジンをかけた…。


 それから二時間後。
 尚隆は奇麗に後ろに撫でつけられた黒髪をかきあげつつ、ジョン・F・ケネディ空港の特別VIPラウンジでウイスキーを飲み干して立ち上がると、ズボンのポケットに両手を入れて暮れなずむ窓辺に立った。
 窓の外は黄昏て、遥か彼方まで摩天楼の灯火が揺らめき続いている。
 尚隆の指が上着のポケットの中の宝石箱を取り出し、蓋を開けて中身を弄んだ。
 純金に縁取られた美しい雫形のダイヤとアメジストで造られたイヤリング。素人が見ても高価そうなデザインの宝石である事は、一目瞭然である。
 ここで自家用ジェットの離陸手配が出来るまでの間、彼はもう何度となく繰り返して眺めたその繊細な宝石をまたしてもじっと見つめた。

〔美凰…。花總美凰…〕

 ただ女というよりも、美凰は貴婦人と呼ぶに相応しい将来を約束された美少女だった…。
 五年前にニューヨークへ共に到着して結婚式を挙げた日の記念として彼女にプレゼントしようと、当時の自分の給料から考えればかなり贅沢をして買ったイヤリング。
 莫迦な自分は、彼女は菫色が大好きだという、ただそれだけの理由で脇目も振らずにこの宝石を買ったのだ。
 ダイヤモンドのエンゲージリングもマリッジリングも女の裏切り行為が確定した瞬間、惜しげもなくハドソン川に投入された。このイヤリングを捨てる事が出来なかったのは、単に自分に勇気がなかっただけなのだ。
 行き場を失った豪華な宝石は、ニューヨーク支社のデスクの中に無造作に置き去りにされ続けた。

〔今になって、これを持って日本へ行ってどうしようというんだ?! 俺は…〕

 この五年間というもの、どんなに忘れようとしても頭にこびりついて離れなかった美しい面影。
 神秘的なまでに美しい薔薇の花の様な美少女…。
 身分や洋の東西の如何を問わず、若い頃から星の数程の女を知っている尚隆だが未だ曾て、あれ程に麗しい女には出会った事がなかった。


 思い出というものは、常にオーバーに美しく飾り立てられる。どんなに大金持ちであろうと貧乏であろうと、思い出とはそういうものだ。
 尚隆は胸ポケットに仕舞った写真をそっと取り出した。写真を眼にするたびに強靭な心臓は凍りつき、胃は痙攣する。
 まるで、強烈なパンチを食らったような衝撃であった。

〔何て事だ! 何故だ! 未亡人だと?! 三十も歳の違う男の妻になって! 挙句の果ては借金まみれの貧乏暮らしだと?! ならどうしてもっと惨めったらしい姿になってないんだ! 何故これ程までに美しい姿で居るんだ?! 何故だ?! 何故俺を裏切る事が出来たんだ…〕

 自分にこれ程までの苦痛と怒りを持続させた女の末路を、嘲笑ってやるつもりだったというのに。写真の中の女は五年前の輝くばかりの美少女がそのまま、臈たけた美女に成長していた。
 多少時代遅れではあるものの、紫紺色の上品な仕立てのハイネックドレスに小柄でふっくらした柔らかそうな曲線の肢体を包んでいる。
 結婚式の披露宴に参加する為の装いとはいえ、余りに質素な髪飾りが申し訳程度に飾られているつややかで美しい黒髪は古風な形に結い上げられていて、卵形の透き通る様に白く美しい面立ちを際だたせていた。三日月を落とした優しい眉、黒々とした長い睫に縁取られた切れ長の眼は黒曜石の様にキラキラ輝き、こちらに向かって微笑みかけている…。
 忘れもしない…。いや、思い出以上に美しい、美しすぎる薔薇の姫君…。
 美貌の鼻梁は中高ですらりと伸び、何度もキスを繰り返した桜桃の実とまごうばかりにふっくらと官能的な唇は柔らかな珊瑚色の口紅で彩られていた。

〔キスしたい! この唇にキスしたい! この女の総てを、俺のものにしてしまいたい! 抱きたい!〕

 激しい欲望に身体中がどうにかなってしまいそうだ。
 隠し撮りされている事など知らぬげに静かな、そしてどこか寂しげな微笑が尚隆を見返していた。


「小松様、大切なお品物をお落としになられましたご様子ですが…」
 特別VIPラウンジの支配人に声をかけられ、はっとなった尚隆は写真に見入ってい為にイヤリングが足元の絨緞の上に落下していた事に気づかなかった。
「ああ。すまんな…」
 拾い上げられ、丁寧な手つきで渡されたイヤリングの片方を尚隆は無造作に受け取り、上着のポケットにねじ込んだ。
 その拍子に見つめていた写真を支配人に見られてしまった。
 誰にも、どんな男にも美凰を見せたくない…。

〔莫迦な? 何で俺がそんな事を考えなければならん! 女は…、美凰は俺を裏切ってどこの誰とも知れん中年男に抱かれたんだ! 俺のものだったバージンを汚らわしい中年男が…〕

 支配人がほうっと感嘆の声を上げるのを尻目に、尚隆は慌てて写真を胸ポケットに仕舞った。
「なんと! 大層お綺麗なご婦人のお写真を眺めていらっしゃいますね? 薔薇の女王の様に気高い品があって…。我々なぞはお側近くでお話しするのも身が縮まる思いでしょうが、女性にお優しい小松様なら洒落た会話のお一つもなされるんでございましょうねぇ…」
「……」
 尚隆は苦笑した。自分の女出入りのゴシップは、世界のどこへ行っても有名らしい。
「そろそろ搭乗だろう? 出掛ける前にコーヒーを貰いたいんだが?」
「畏まりましてございます」
 支配人が立ち去った後、暫しの静けさを破って携帯電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。
 尚隆は無視しようと決めた。どうせステファニーだろう。この一週間、電話もしていない。
 イタリアのホテルで散々楽しんだ黒髪の美女ルイーザ・ベルトリッチにアパートメントを持たせるか否かで少しばかり悩んでいた為、彼女の事は念頭から消え去っていたのだ。
 ブロードウェーの大人気女優、ステファニー・マロウとは最近の女性関係では一番長続きした間柄だ。しかしイタリアから帰って来た今は、そして胸ポケットに納まっている二枚の写真を見た瞬間からは、すっ飛んで行って抱きたい相手ではなくなっている。イタリアのルイーザも然りだ。

〔イタリアには適当に秘書室から連絡をさせよう。だがステファニーは…〕 

 ベルはしつこく鳴り続ける。彼は頭の中でめまぐるしく考えた言い訳をぶつぶつ呟き乍ら、日に焼けた手で携帯電話の通話ボタンを押した。
「はい?」
 予想通りの甘い女の声に、尚隆は無愛想に答えた。興味をなくした女に対して、常に弊履の如き態度を彼は隠そうともしない。性格上の黒い部分というものは、本来の彼そのものの姿でもあるのだ。だが実際は、五年前に無残に終わった愛の結末以降、更に拍車がかかったかの様な冷酷さに満ち満ちていた。
「今から日本に戻らねばならん。君のヒステリーが納まった頃に俺の都合が良ければまた会おう」
 ヒステリックな涙声がもれ聞こえる携帯から耳を離し、尚隆はさっさと通話を切ると電源を落とした。


「小松会長、離陸の準備が整いました」
「……」
 尚隆は立ち上がって鷹揚に頷くと、足早に自家用ジェット機に向かって歩みを進めた。
 暫くニューヨークに戻る気はない。
 この写真に写しだされた、余りにも美しい一輪の薔薇の花を徹底的に蹂躙する為に日本に滞在するのだ。
 彼女をどん底まで追いつめて思うままに弄び、弊履の如く打ち捨て去れば、自問自答し、否定し続けている心の膿も跡形なく綺麗に払拭されるだろう。
 日本に到着するまでのフライト中、尚隆の冷酷な心は愛と憎しみの狭間で葛藤し続けていた…。

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